映画「機動戦士ガンダム 逆襲のシャア」を観た。
映画「機動戦士ガンダム 逆襲のシャア」を観た。
Netflix にて。
脚本 富野由悠季
監督 富野由悠季
出演 古谷徹 他
ネタバレ注意
この記事には、ネタバレがあります。
まずは結論
良い映画だった。
若いころ(何十年も前)に一度観ているが、改めてこの年齢で観て良い映画だと気づかされた。
映画監督の庵野秀明など、玄人筋に熱心なファンが多いのも頷(うなづ)ける内容だった。
ネタバレ防止の余談
今「小説家になろう」などのウェブサイトに投稿するためにスペース・オペラを書いている。
それでスペース・オペラについての勉強がてら、劇場、Netflix、Amazon Prime などで東西のスペース・オペラ映画を観ようと思った。
ご存知のように「機動戦士ガンダム」シリーズは、地球と月の間という比較的狭い宇宙空間が舞台の近未来SFだから、厳密にはスペース・オペラの定義から外れるかもしれない。
しかし『宇宙でのメカ・アクション』につい何か得るところがあるかもしれないと思い、数十年ぶりに本作を鑑賞した。
数あるガンダム・シリーズの中で、何故このタイミングで『逆襲のシャア』を観たのかといえば、今年(2020年)の夏に『閃光のハサウェイ』が劇場アニメ化されるからだ。
『閃光のハサウェイ』の原作小説は『逆襲のシャア』の続編だったはずだと思い、このタイミングで予習して置こうと思った。
ちなみに、私は小説版『閃光のハサウェイ』も数十年前に読んでいる。
もう細かい内容は忘れてしまったけれど、衝撃的な読後感だった事だけは覚えている。
以下、本題。
数十年前の感想(の記憶)
数十年前、初めてこの映画を観た時の感想は、正直、良い印象ではなかった。
「飲み込みづらい映画だなぁ」と思っていた。
一方で、この映画から『何か』を感じていた。
初見当時も、漠然と、この映画には『何か』があると感じていた。
その『何か』というのが、いったい何なのかは、あらためて見返した今でも良く分からない。
作り手が持っている、ある種の『情念』のような物を画面から感じたのだろうか……
なぜ若い頃の私は、この映画を「飲み込みづらい」と感じてしまったのか
若かりし頃の私が、この『逆襲のシャア』に良い印象を持たなかった理由を今さら分析してみると、以下の3点が原因だったと思う。
- 全体の尺に対して、メカ・アクションの時間が思ったより短かった。また、その短いメカ・アクションも地味だった。
- 飲み込みづらい男女関係。
- ニュータイプ能力が、物理的な力を発揮して巨大隕石を押し返すラスト・シーン。
以下、順を追って説明する。
1. メカ・アクションの時間が短い。
この映画は、ガンダム・シリーズでありながら、モビルスーツ戦の尺が短い上に、なんだか地味だ。
ガンダムの登場にしても「いよっ、待ってました!」と喝采したくなるようなケレン味に乏しい。(オープニングの建造中ガンダムには少し興奮したが)
多くの場合、観客は、タイトルとジャンルから予想される『見せ場』を期待して映画館に足を運ぶ。
例えばガン・アクション映画なら、主人公が横っ飛びしながら素早くマガジン・チェンジして次々に敵を撃ち殺すカッコ良さを期待して、映画館に足を運ぶ。
時代劇なら、華麗な殺陣で悪代官の手下どもを次々に斬り殺していく主人公を期待する。
怪獣映画なら、東京の真ん中で大暴れして次々にビルを破壊していく様を期待する。
SFメカ・アクション映画なら、ガンダムが次々に敵のモビルスーツを撃ち落とすシーンを観たくて、映画館に足を運ぶ。
それは、芸術を鑑賞する者としては不純な態度なのかもしれない。
先入観を捨ててニュートラルな気持ちでスクリーンに向かうべきなのかもしれない。
しかし若い頃の私が、血湧き肉躍るアクション・シーンを観てスカッとしたいと思ったのは仕方のない事だし、それを充分に提供してくれなかった本作の評価が低くなってしまったのも仕方がない、と自分自身を振り返って思う。
2. 飲み込みづらい男女関係
人間関係の相関図が複雑すぎて理解しづらい、という意味ではない。
そういう点で言えば、本作の人間関係はよく整理されて表現され、わかりにくい所は一つもない。
若い頃の私が飲み込みづらかったのは、それぞれの人物の内面というか、彼らの行動原理だ。
ひとことで言えば『誰にも共感できない』
主人公であるアムロとシャアは、かつて愛したララァという女性の幻影を未だに引きずってウジウジしているくせに、ちゃっかり、それぞれに愛人を作っている。
女たちは、自分の愛人が未だ昔の女に未練があると直感的に気づいていながら、別れようとしない。どころか、命がけで男たちを支える。
クェス・パラヤというヒロイン格の少女は、とにかく行動が突飛だ。
シャアがアムロを殴りながら叫んだ一言を聞いただけでコロッと連邦を裏切りシャアの側に付いて、アムロに拳銃を突きつけて逃げる。
当時の私には、彼らの内面が全く理解できず、終始困惑させられっぱなしだった。
3. ニュータイプ能力が、物理的な力を発揮して巨大隕石を押し返すラスト・シーン
そして、なんと言っても一番困惑させられたのは、あのラスト・シーンだろう。
一応、サイコ・フレームという新技術がニュータイプ能力の増幅器になった、と、ほのめかされているのだが……
この点に関しては、数十年を経た現在あらためて観なおしても、正直、いったい何が起きて、ああいう事になったのか未だに理解できていない。
この辺は『考えるな、感じろ』という事なのかもしれないが……
大人になって改めて見直して、どう思ったか
前述のように、ラスト・シーンで起きた『ニュータイプ能力の急激なインフレーション』については、私自身、未だ整理が付いていない。
それ以外の2つ、つまり
- 全体の尺に対して、メカ・アクションの時間が思ったより短かった。また、メカ・アクション自体も地味だった。
- 飲み込みづらい男女関係。
に関しては、数十年ぶりに観て180度考えが変わった。真逆の感想を持った。
観れば観るほど、よく考えられた良い映画だと思った。
1. メカ・アクションについて
確かに本作品を、いわゆる巨大ロボット・メカアクション・シリーズの1本として観ると、メインディッシュであるモビルスーツ戦の時間が絶対的に足りていないように思えるし、その見せ方にしても、今いちケレン味が足りない。
今回見かえして、その理由が分かった。
そもそも作り手は、この作品でモビルスーツ戦を見せ場にしようと思っていない。
あくまで表現したいのはアムロとシャアの思想的対決のドラマであり、モビルスーツは単なる小道具に過ぎない。
この事に気づくと、かつては地味に見えたモビルスーツ戦が、過不足なく物語の進行に貢献していると分かる。
要は、表現が控えめで端正なのだ。
一部のハリウッド・エンターテイメント大作の中には、終始鳴り響く軽快なBGMに乗せて、とにかく次から次へとアクション、アクション、またアクションの釣瓶(つるべ)打ちを仕掛けて来るものがある。
『何が何でも観客を退屈させない』という強迫観念に取り憑かれてるんじゃないのか? と思えて辟易するし、アクションの比重が大きいぶん、ドラマが薄いと感じることも少なくない。
逆に、本作は、派手なモビルスーツ戦で『ファン・サービス』しようという意図を、そもそも最初から持っていない。
『真の見せ場は、キャラクター同士の会話の中にある』とでも言わんばかりに、徹頭徹尾、モビルスーツは単なる小道具として描かれる。
最初から、ガンダムの華麗なビームライフル捌(さば)きなんぞには興味もないし、見せるつもりもない。
私個人の意見を言わせてもらえば、最初から最後まで延々と続くノンストップ・アクションも疲れるが、ジャンル映画としての見せ場も、正直ある程度は欲しいと思う。
いわゆる巨大ロボット物の戦闘シーンとしては、本作のような端正な描写と、いかにもケレン味のある派手な描写の中間くらいが丁度良い。
2. キャラクターの男女関係について
若い時は飲み込みづらかったキャラクターの性格描写も、何十年を経て、自分自身も歳を取り多少は経験を積んだあとで観ると、男の描写も女の描写も「ああ、分かる分かる……男ってこうだよね、女ってこうだよね……切ないよね」ってなって、心にジーンと来た。
例えば、若いころは全く理解できなかったクエス・パラヤの言動も、今なら「ああ、こういう女の子って居るよね」と理解できる。
もちろん架空のキャラクターとして、クエスの言動は相当に誇張されている。
しかしクエスが陥(おちい)っている状態というのは、若い女性が……いや、男女かかわらず若者が陥りがちな状態で、現実にも、これに近い若者は確かに存在する。
ひとことで言えば「自分探し・居場所探しの果てに、短絡的に『カリスマ指導者』の元に走ってしまった若者」たちだ。そういう人は現実にも確かに居る。
そういう目で見ると、オープニング・シーンにも意味があると分かる。
冒頭、警察から逃げるクエスの仲間たちの格好を見ると、明らかにヒッピーを思わせる服を着ている。
甘やかされて育った世間知らずのお嬢さまで、それでいて親からの愛情を実感できず家庭に居場所のない少女が、ヒッピー思想にかぶれて妙な奴らと連るむようになった……という描写だ。
ヒッピー仲間から強制的に引き離されたクエスは、その後、最初はアムロの側に自分の居場所を見つけようとするが、彼に愛人がいると知って(おそらく本能的に彼女とは性格が合わないと直感して)アムロの船から去り、シャアの下へ走る。
本作品を若いころに見たときは、シャアのたった一言で連邦軍(体制側)からネオ・ジオン軍(怪しげな反体制組織)に身を投じるのは、いくら何でも唐突すぎると思ったものだが、いま改めて観て分かるのは、クエスにとって、シャアが何を言ったかは実は重要ではないという事だ。
ベースとして、彼女は自分の居場所に飢えていて、アムロがその居場所を提供してくれないと悟り、次の居場所(シャア)へ乗り換える切っ掛けが欲しかっただけだ。
繰り返すが、物語的な誇張はあるにせよ、クエスのように自ら悲惨な状態に陥ってしまった若者は、現実世界にも少なからずいる。
そして当然のように、カリスマ的反体制指導者たるシャアにとって、しょせんクエスは『都合のいい女の子』でしかなく、彼女の能力を利用することしか考えていない。
物語の最後ちかく、アムロはシャアに「クエスを利用するな」と言い、逆にシャアから「お前がクエスに冷たかったから、彼女は私の所に来たのだ」と逆襲される。するとアムロはさらに「俺はクエスの父親になんかなれない」と言う。
なんか、このセリフにジーンと来てしまった。
居場所を求めて彷徨(さまよ)う若者たち全員に居場所を与えるなんて、どんなに度量の大きな男でも不可能だ。
大人が若者に対して出来る事といえば、節度ある距離を保ち、深入りし過ぎず、ある程度の助言を与えながら「でも、僕は君の父親にはなれない」と、ほのめかす事くらいだ。
それかシャアのように、若者の弱さに付け込んで食い物にしてしまうか……
幸いにして私は、アムロやシャアみたく若い女に惚れられる程のイケメンでもないし、彼らに頼られるような社会的地位に居る訳でもない。
読者諸兄の中には、居場所を求めて自分に近づいて来る若者に対し、心の中で「僕は、君の親がわりにはなれない」と叫んだ経験がある方も、いらっしゃるのではないだろうか?
メカ・アクション物とスピリチュアル(オカルト)
繰り返すが、『ニュータイプの能力が、物理的な力となって巨大隕石の軌道を変える』というラスト・シーンは、唐突過ぎて困惑する。
それは数十年前の初見時も、今回も変わらなかった。
いちおうサイコ・フレームがどうした、こうしたと言うセリフが有るには有るのだが、何の伏線もなしに言われても、とうてい納得できない。
私ごとになるが、ウェブサイト『小説家になろう』にスペース・オペラを投稿したいと思っている。
その小説の世界観に何らかの『スピリチュアル・パワー』を盛り込むべきか否かは、なかなかに悩ましい問題だ。
スペース・オペラのスピリチュアル設定で一番有名なのは、ガンダムの元ネタになったスター・ウォーズに出てくる『フォース』だと思うが、そもそも、スペース・オペラ初期の超人気作品『レンズマン』(1937年発表)からして、基本設定は相当にスピリチュアルだ。
SFメカ・アクションものとスピリチュアル・パワーというのは案外相性が良い。
同じ富野由悠季監督の『伝説巨人イデオン』や『聖戦士ダンバイン』など、いわゆる巨大ロボット・アニメでも『人間の精神力がエネルギー源』というのは定番の発想だろう。
元々は通常のエネルギー源だったとしても、主人公の恐怖や怒り、あるいは『友情パワー』によってロボがパワーアップするという話は、探せば幾つか出てくるだろう。
しかし、いくら相性が良いと言っても、無神経に使いまくる訳には行かない。
扱いには細心の注意が必要だ。
設定しだいで何でも可能な万能パワーなだけに、物語全体のバランスを壊しかねない。
『この宇宙にスピリチュアル・パワーは存在しません』というスタンスで終始一貫した方が、むしろ作劇が楽だろうか……悩む。
最後に
今回あらためて『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』を見て、よく考え抜かれた良い映画だと思った。
大人になって見た方が良さが分かるという、渋い映画だった。
いずれ世界的に再評価の機運が高まると思う。