映画「ゴジラ キング・オブ・モンスターズ」の感想
TOHOシネマズ新宿にて。
脚本 マックス・ボレンスタイン、マイケル・ドハティ、ザック・シールズ
監督 マイケル・ドハディ
出演 カイル・チャンドラー 他
ネタバレ注意
このブログにはネタバレが含まれます。
今回は結論から先に書きます
私も皆さんと同じく、『ゴジラと聞いただけで早口で語り始めるキモいオッサン』体質なので、この記事でも長々と語っちゃう危険性が大であると、前もって断わっておく。
ゆえに、今回は先に結論を書きます。
- 怪獣バトルの映像は、最高。
- 人間ドラマは、ダメダメ。
なんか最近、ハリウッド大作アクション映画を見るたびに、こんな感想になってしまっている。
もうハリウッド・アクション大作映画は「ビジュアル最優先・ストーリーは二の次」で良いという事になってしまったのかもしれない。
……で、トータルお前の評価はどうなんだ? と聞かれれば、
「ストーリーのダメさに目をつぶって、無心にビジュアルだけを楽しめ! 純粋に怪獣たちの壮大なバトルに心を奪われろ! そうすれば幸せになれる!」
……と、私は答えるだろう。
いわゆる「ゴジラのテーマ」として広く知られるあの有名なメロディーに、ふんどし一丁で神輿(みこし)を担ぐ祭り男よろしく「そいやっ! そいやっ! そいやっ! そいやっ! ウッ! ハッ!」という掛け声が被(かぶ)さった瞬間、
「細けぇこたぁ、どうでも良いんだよ! 怪獣映画ってぇのは、お祭りなんだよ! ストーリーがどうのプロットがどうの、そんな辛気くせぇこと言ってんじゃねぇ!」
という作り手たちの声が聞こえた気がした。
ちなみに、辛口で知られる映画レビューサイト「ロッテン・トマト」の評価は、
プロの批評家のスコアが39点で、
一般の観客のスコアが87点だ。
玄人(くろうと)筋の評価が低く、一般の人々の受けは良いということだ。
以上、ネタバレ無し。
これからネタバレ有りで詳しく見ていく。
怪獣バトルの映像は素晴らしい
怪獣バトルの映像は、さすがハリウッドが巨費を投じただけあって、目を見張る。
そして、その怪獣映像美は、単に大金をかけてリアルなCGを作りましたというだけの大味なものではなかった。
怪獣映画を長らく見続けてきた日本のファンから見ても、カメラ・アングル、タイミング、カットの割り方など、「ちゃんと『分かっている人』が作った作品だわ」と感心できる仕上がりになっていた。「監督さん、あんた、ガチで『俺たちの同類』だな」と思った。
どのジャンルにも当てはまると思うが……「別に好きでもないけど発注・依頼が来たから金のためにやる」という姿勢で作られた作品と……筋金入りのマニアが「俺は、このジャンルをマジで好きなんだ、だから作るんだ」という意気込みで作った作品とでは、表面的にどれほど似ていようと根本的な部分で「何か」が違う。
そしてジャンルのファンは、その「何か」を敏感に感じ取る。
監督のマイケル・ドハディは、間違いなく筋金入りのマニア、俺らにとっては『こちら側』の人間、間違いなく俺らのブラザーだ。
現在では「ゴジラのテーマ」として広く知られているあのメロディを、ゴジラが海から浮上するシーンで必ず流したり……同じくインファント島の小美人が歌う曲のメロディをモスラのシーンで必ず流したり……あるいは、冒頭でキングギドラを「モンスターゼロ」と紹介したり、という細部の演出が「コイツ、分かってるな」と思わせてくれて、マニア心をくすぐられる。
ちなみに「モンスターゼロ」(怪物ゼロ)というのは、1965年の映画「怪獣大戦争」に出てきたX星人のキングギドラに対する呼び名だ。
ゴジラに対する人間側の部隊を「チームG」と呼称するのも、かつての「Gフォース」を彷彿とさせて楽しい。
ゴジラを「G」とか通っぽく呼んでくれただけで、なんだかワクワクする。
バーニング・ゴジラ
まさか、ラスト・バトルにバーニング・ゴジラまで出してくるとは思わなかった。
そう来たか! と思わず唸ってしまった。
人間側のメカ描写
怪獣映画の主役は怪獣で、最大の見せ場は怪獣たちのアクションなわけだが、人間側が持ち出すメカも見所のひとつだ。
本作は、メカ・兵器の描写にもちゃんと気を配っていてポイントが高い。
いわゆる「超兵器」的なものは、「アルゴ」と呼ばれるB2風の全翼型空中移動基地くらいだが、通常兵器であるF22ラプターやV22オスプレイの描き方が、なかなかにカッコイイ。
冒頭、海上油田に偽装した海中秘密基地の縦穴をオスプレイが降下していく。
「海中に建設された秘密基地」ってだけでオジサン既に昇天しそうな訳だが……この「縦穴を降下するオスプレイ」のシーンに、私は幼き頃のデジャヴューを見て思わず心の中で叫んだ。
「バリブルーンやっ! ゴレンジャーのバリブルーン発進シーンやっ!」
ゴレンジャーの専用機であるバリブルーンおよびバリドリーンの発進シーンにそっくりなのだ。
これが意図的なオマージュかどうかは定かではないが、仮にそうだとしても私は驚かない。
オスプレイってバリブルーンにそっくりだな。
今回、画面のそこら中をバリブルーン改めV22オスプレイが飛び回っていたが、あれは単なる監督の趣味か、それともCGデータの使い回しか、はたまた世界中にオスプレイを売り込むための、ハリウッド一流のプロパガンダか。
以上、本作品を観て良かった点。
以下、苦言モードに入る。
やはり、誰かが「人間側のストーリーはダメダメでしょ」と言わないと
私は、『何も考えずに、ひたすら壮大な怪獣バトルに心を奪われるための映画』としての本作品は、現時点での人類の最高到達点であると思っている。
そう言う観点では、素晴らしい映画だ。
しかし、だからと言って、この作品の「ストーリーのダメさ」に言及しないわけには行かない。
本作品の感想ブログなどを読むと、ストーリーのダメさ加減に言及している記事が驚くほど少ない。
「こんな素晴らしい怪獣バトルを見せてくれてありがとう」という気持ちは分かるが、しかし、だからと言って、ストーリー面のダメさ加減について口を閉ざすというのは、如何なものか。
老若男女、大人も子供もワイワイ楽しむエンタテイメント映画にツッコミを入れるのは無粋なのかもしれないが、それでも言うべき事は言うべきだろう。
この映画のストーリーには、「良いダメな部分」と「本当にダメダメな部分」がある。
「良いダメな部分」というのは矛盾した表現だが、要は「メインディッシュである『怪獣バトル』を効果的に観せるため、あえて人間ドラマの完成度を落とした」部分、製作陣が計算して態(わざ)と切り捨てた部分、という意味だ。
具体的には「怪獣バトルを主軸にしたアクション・エンターテイメント」というコンセプトを貫くために、あえて意図的に容認された「怪獣が現れる→科学者たちが右往左往する」というワンパターンの繰り返しを指す。
「世界各地に怪獣が現れるたびに、モナークの中核メンバーたちが急いで現場に駆けつけ『実況中継』をする」パターンを延々繰り返すストーリー構造のことだ。
「南極にモンスターゼロがいるぞ!」→「それっ! 南極へ向かえ!」
科学者「うんたらかんたら」
「メキシコにラドンがいるぞ!」→「それっ! メキシコへ向かえ!」
科学者「うんたらかんたら」
「ワシントンへギドラが向かっているぞ!」→「それっ! ワシントンへ向かえ!」
科学者「うんたらかんたら」
延々、この繰り返しで話が進んでいく。
出来の悪いB級映画にも無いような雑な展開だが、本作品の場合、製作陣は「あえて」この展開を選んでいる。
なぜなら、物言わぬ怪獣たちの戦いには、どうしても「人間の実況アナウンサー、人間の解説者」が必要だからだ。
「アルゴ」と名付けられたモナークの空中基地は、転戦するプロレスラーたちと一緒に世界各地を巡る「移動実況席」で、その作戦司令室にいる科学者たちは「実況アナウンサー」であり「プロレス解説者」なのだ。
そこには「戦う怪獣こそが主役」「人間たちは怪獣たちの戦いを解説すればそれで良い。ドラマなんて無くたって良い」という割り切りの良さがある。
本当にダメダメな部分
この作品の本当の問題点は、「怪獣バトル映画なんだから人間ドラマなんぞ無くたって良い」という姿勢を貫徹してくれれば良いものを、そこに中途半端に雑な人間ドラマを入れ込んでいる事だ。
これが、私が言うところの「本当にダメダメな部分」だ。
以下に列挙する。
本当にダメダメな部分その1「ハリウッドのパニック映画に必ず出てくる離れ離れの家族」
パニック映画で家族が離れ離れになって、お父ちゃんが必死で妻や子供を探す展開とか、そういうの、どうでもええねん。
しかも決まりきったように、子供は反抗期で、お父ちゃんとお母ちゃんの仲も倦怠ムードが漂っていて、それが災害を通して再び絆を取り戻すとか……
そんな陳腐な家族愛を語る尺があるなら、アンギラス出せよ、アンギラス。
本当にダメダメな部分その2「敵の組織の設定が雑」
環境テロリスト? なにそれ。
なんでそんなに金持ってんの?
「なんか、よう分からんけど、スッゲー悪だくみ考えてるスッゲー怖い奴ら」っていう雑な設定。
しかも、お母ちゃんが子供を探すためにアジトから出てくのを、すんなり許しちゃうし。
悪の組織のくせして定時で帰れるホワイト企業みたい。
本当にダメダメな部分その3「いきなりテレビ電話でダンナに長々と思想を語っちゃう頭おかしい母ちゃん」
「自然環境を守るため、人為的に地球規模の大災害を起こして人類を粛清し数を減らす」とか……
それ言って良いの、シャアだけですから。
「逆襲のシャア」DVDを百万回見ろ。
本当にダメダメな部分その4「オキシジェン・デストロイヤーの扱いが雑」
これは本当に腹立たしい事だ。
初代ゴジラ原理主義者の私にとって、この軽々しいオキシジェン・デストロイヤーの扱いは冒涜にさえ思える。
「おいブラザー、ちょっと顔貸せや」と監督の胸ぐらを掴んで東京湾の底を這い回りたい。
そもそも初代ゴジラが傑作たりえているのは、あの映画が実は「ゴジラを巡る物語」ではなく、「オキシジェン・デストロイヤー」を巡る物語だからだ。
初代ゴジラは「人間を襲う災厄から逃れるための唯一の方法、それ自体が、さらに大きな災厄を呼び寄せてしまう」という、ギリシャ悲劇にも通じる数千年来の普遍的なモチーフを扱った物語だ。だからこそ、傑作になりえたのだ。
古代ギリシャの物語の根底にあるのは、「神々(=世界)は、俺たち人間なんかをこれっぽっちも愛しちゃいない。神々(=世界)は気まぐれに、突然に、人々の命を奪い、災厄をもたらし、その苦しむ姿を見て楽しむ。それが神々(=世界)というものだ」という、非常に過酷な世界観だ。
そして「ひとつの災いから逃げるためには、さらに大きな災いを呼び込むしかない」という狂った世界を正常に戻すためには、誰かが生贄となって自らの命を神に捧げるしかない。
これが初代ゴジラの物語の本質であり、「オキシジェン・デストロイヤー」とは、「ゴジラという災厄から逃れる唯一の手段であると同時に、それ自身がゴジラ以上の災厄である」という、悲劇の中心に据えられた聖具(魔具)だ。
それを、米軍が開発した単なる最新兵器にして、どうする。
思想うんぬんは一旦(いったん)横に置くとしても、「オキシジェン・デストロイヤーが軍によって開発され、量産され、実戦配備された世界」という既定路線は、今後シリーズ化する上で、プロットを作る大きな制限になりはしないか?
本作品において、ゴジラはオキシジェン・デストロイヤーにより瀕死の重傷を負った。
たった一人の天才科学者により偶然発見された「未知の物質」としてのオキシジェン・デストロイヤーに、ではなく……人類の叡智によって対ゴジラ用に開発され、いずれは量産・配備されるであろう兵器としてのオキシジェン・デストロイヤーによって、だ。
つまり、人類はゴジラを倒すためのレシピを既に手に入れている、という事だ。
「その気になれば、人類は何時(いつ)でもゴジラを殺せる」という設定が、シリーズ世界観の中に追加されてしまった。
もはや、ゴジラは無敵でも神秘でもなく、人類の開発した武器によって倒すことが可能な、ただの野生動物になり下がってしまった。
どんなにゴジラが吠えようが火を吹こうが、人類側は「ミサイルにオキシジェンのっけて2、3発撃っときゃ楽勝っしょ」という事になるまいか?
本当にダメダメな部分その5「核爆発で元気回復」
うん。
核の申し子ゴジラを主役(=人類の味方)に設定した時点で、いつかは、それをやっちゃうよね。
知ってた。
ハリウッドの俳優には、まだ怪獣が『見えて』いない
怪獣映画を鑑賞するとき、私は、演じる俳優たちの目に「本当に怪獣の姿が見えているか」が気になってしまう。
些細ではあるが、そういう事の積み重ねが「怪獣」と「人間たち」のドラマを有機的に繋げると思っているからだ。
映画の登場人物が「怪獣だ!」と叫び、驚く顔がアップになる……というのは怪獣映画で必ず挿入されるカットだ。
もちろん、実際の撮影では怪獣は影も形も無く、合成用のグリーンバック、カメラ、照明機材などがあるだけだ。
それでも、登場人物たち(=それを演じる俳優たち)の目に「本当に怪獣が見えている」と観客がリアルに思えるかどうかで、物語への没入感が大分(だいぶ)違ってくる。
素人の私は、その演技テクニックについて想像するしかないが……ひょっとしたら「目の焦点をどこに置くか」が鍵なのかもしれない。
つまり、1メートル先のグリーン・スクリーンに焦点を合わせるか、それとも、そのスクリーンの遙か向こう、1キロ先の「見えない何か」に強いて自ら焦点を合わせるか……ということだ。
今回の映画に関して言えば、ハリウッドの俳優たちには(脇役はもとより、主役級のスター達にさえ)怪獣は見えていなかったと言わざるを得ない。彼らの視線の先に怪獣が居るようには、どうしても思えなかった。
怪獣映画を見慣れていない、まして演技なんてしたこともなかったであろうハリウッドの俳優に、現時点でそこまで求めるのは酷かもしれないが……
平成ガメラ三部作およびGMKとの類似性
やはり「平成ガメラ」三部作および、同じく金子修介監督「ゴジラ・モスラ・キングギドラ 大怪獣総攻撃」(以下、GMK)との、設定上の類似は指摘しておかなければなるまい。
その1、怪獣は「人類の味方」ではなく「地球の味方」
いっけん人類の味方をしているように見える主役怪獣(ガメラ三部作におけるガメラ、GMKにおけるギドラ・モスラ・バラゴン、本作におけるゴジラ・モスラ)について。
彼ら主役怪獣たちは、いっけん人類の味方であるように思えるが、その実、彼らは人類ではなく地球環境を守るために戦っている。(GMKの中では、「人間の作った国家」と、自然環境をも含んだ古代の「クニ」という概念との違いとして説明される)
その2、氷漬けのギドラ
このビジュアルは、GMKからの借用だろう。
その3、敵怪獣の光線攻撃を全身で受け止めて消滅するモスラ
光る鱗粉と化してゴジラ(GMKの場合がギドラ)の上に降り注ぎ、その体に生命力を与えるというシーンも含め、このビジュアルも、GMKからの借用だろう。
その4、人間側の攻撃により海中に沈み、海底で何らかのエネルギーを得て回復する主役怪獣
人間側の誤解あるいは疑心暗鬼によって主役怪獣が人類から攻撃を受け、大ケガを負って海中に沈み、そこで何らかのエネルギーを摂取して回復し、再び海から現れて敵に戦いを挑む、というプロットは、平成ガメラ第1作からの借用だろう。
その5、海中に沈んだ超古代文明との関係
平成ガメラにおいて、怪獣ガメラは、海中に没した超古代文明によって作られた「生物兵器」である可能性が示唆される。
本作でも「ゴジラの巣」は海中に沈んだ超古代文明の宮殿だった。
マンモス怪獣をデザインした奴は終身刑
あまりにも酷すぎる。史上最低のデザイン。
できればキングギドラの鳴き声は
些末なことを言わせてもらえば……
キングギドラが重力怪獣から暴風雨と稲妻を象徴する怪獣へ設定変更されたのは、まあ良いとして……
鳴き声に関しては、ぜひとも
「プルルルル」「ピロロロロ」「ペレレレレ」
という3つの音階で鳴く電子オルガン(?)にして欲しかった。
ラドンの最後
敵ボスの側近で小悪党的なポジションのラドンが、ゲスい顔して「ぐへへ」言いながらモスラ姫をベッドに押し倒して、あわやモスラ姫の純潔が奪われそうになった所で、姫が懐から刀を出して下から小悪党ラドンの心臓をグサッとやって、ラドンは山の上から「あれぇ〜」言いながら落ちていく……ていう、あの一連の流れって、どうなの?
じゃっかん、笑っちゃったんだけど。
驚愕の事実……チャン・ツィイーは双子だった。
空中移動基地「アルゴ」に乗っているチャン・ツィイーと、中国雲南省でモスラの羽化を見届けたチャン・ツィイーは、双子で別人である、と。
パンフレットを読んだら、そう書いてあった。
まじか……
そういえば、モスラの繭を見ていた方のチャン・ツィイーは、ほかの職員から「リン博士」って呼ばれていたな。
アルゴに乗っているのは「チェン博士」だったから変だとは思ったのだが……
しかも「おばあちゃんも双子、おかあちゃんも双子……代々双子である」という設定らしい。
そういえば、そんな写真を見せられたような、見せられなかったような……
要するに、これはインファント島の小美人へのオマージュという事だな。
驚愕の事実その2……チャン・ツィイーとケン・ワタナベは付き合ってる
いや、役柄上の話です。
最後、芹沢博士が小型潜水艇に乗るときチェン博士と抱擁するわけだが、その抱きしめ方、見つめ合い方が、明らかに「おまえら、こっそり付き合ってただろ」という感じだった。
モスラがゴジラを助けたとき、それを見ていた兵士がゴジラとモスラを指して「あいつら付き合ってんのか?」と言い、解説役の博士が「愛は種族を超える」みたいに返すシーンがある。
ゴジラと芹沢博士が象徴的な「対」の存在になっていて、同じく、モスラとチェン博士が「対」の存在になっている事を考えると、「ゴジラとモスラは恋人どうし」という兵士の発言は、「芹沢博士とチェン博士は恋人どうし」ということをほのめかしているように思う。
芹沢博士が「おみくじが、どうのこうの」みたいに言うシーンがあった。
これは日本語字幕だと「おみくじ」だが、実際のセリフは「フォーチュン・クッキー」だ。
フォーチュン・クッキーといえば、アメリカの中華料理屋の名物だ。
つまり、芹沢博士と中国人のチェン博士が、アメリカの中華料理屋でデートをしていた、ということの暗にほのめかしているのだと思う。
頭のおかしな母ちゃんの最後のセリフ
「long live the king」と言っていた。
これは「王様万歳!」という意味だろう。
字幕でどう翻訳されていたか忘れたが……炎を背に仁王立ちする怪獣を見上げて、狂った女が死に際に言うセリフとしては「王様万歳!」の方がふさわしい気がした。
ラスト・シーン
おいおい、次回作は「メカ・キングギドラ」かよ。
おじさん期待しちゃうよ。
なんだかんだ言って、新作の怪獣映画が公開されたら、真っ先に映画館にお布施をしに行く信者なんだよ。俺。