小説「マルタの鷹」を読んだ
ダシール・ハメット 作
小鷹信光 訳
ネタバレ防止の雑談。祝・新訳版『血の収穫』出版決定。
ハメットの作品は、だいぶ前に「血の収穫」とコンチネンタル・オプの短編集を読んだ記憶がある。
どちらも大変に面白く読んだ。
特に「血の収穫」は素晴らしく、ああ、これが本物のハードボイルドというやつか、と思った。
それ以前にもレイモンド・チャンドラーのフィリップ・マーロウ物は何冊か読んでいたが、マーロウのシリーズは、コンチネンタル・オプに比べると若干ウエットだ。
コンチネンタル・オプのシリーズは、人物造形にしろ話の運びにしろ、とてもドライだった。
その数年後、黒澤明のある映画を観たとき、「あれ? この話どっかで読んだことあるぞ……」という感じになった。
もちろん、大雑把な設定や、ざっくりとした話運びが似ているからといって、それが即座に著作権違反になるわけではないし、実際、その件が問題になったという話も聞かないから、法的にはクリアなのだろう。
しかし黒澤明のあの作品が「血の収穫」に影響を受けて作られた事に間違いはないだろう。
残念なことに、そんな名作「血の収穫」も久しく日本では絶版になってしまっている。
……と思って、一応アマゾンを検索してみたら、なんと、新訳版が出るというではないか。
旧訳では「焼きそばを食った」という描写があって、これは多分スパゲッティのことなんだろうな、と思いながら読んだ記憶があるが、そこが新訳でどうなっているか気になる。
5月31日出版だ。
みなさん、ぜひ買いましょう。
この勢いで、コンチネンタル・オプの短編集も新訳してほしい。
以上、ネタバレ防止の雑談でした。
コンチネンタル・オプとサム・スペード
ここからネタバレ感想。
遅ればせながら「マルタの鷹」を初めて読んだ。
「血の収穫」との比較でいうと、コンチネンタル・オプに比べるとサム・スペードは、ずいぶんキャラクター造形が明確になっているという感じがする。
しかし私は、コンチネンタル・オプの方が好みだ。
コンチネンタル・オプの方が、無色透明というか『生の素材感』のような物を感じる。
まずは原作を読んでみようと思った
なぜ、このタイミングで「マルタの鷹」を読んだのかというと、フィルム・ノワールという映画ジャンルに興味が湧いてきたからだ。
文献を紐解くと1941年の映画版「マルタの鷹」がこのジャンルの嚆矢であるというのが通説らしく、ならば、その映画版を見る前に小説で予習しておこうと思った。
かつて角川映画は「読んでから観るか、観てから読むか」というキャッチ・コピーで一世を風靡した。
その問いかけに私の意見を申し上げれば「オリジナルの方から読む(あるいは観る)」ほうが良いと思う。
すなわち、
「まず原作小説が先にあり、後にそれが映画化されたのなら、小説を先に読んで、次に映画を観るのが良い」
一方、
「まず映画の企画が先にあり、そのノベライズ版として本が出版されたのなら、映画を先に観たほうが良い」(ただし実際の出版日・公開日の前後は問わない。企画として後から派生したノベライズの方が、何らかの理由で映画の公開より先に出版されることもある)
秘書エフィ・ぺリンの造形
この小説には三人の女が出てくる。
- ブリジッド・オショーネシー
- エフィ・ぺリン
- アイヴァ・アーチャー
本作に於ける物語上のヒロインはブリジッド・オショーネシーで、この女が財宝「マルタの鷹」を巡る物語を動かす「運命の女(=ファム・ファタール)」な訳だが、個人的には、探偵事務所の秘書であるエフィ・ぺリンの立ち位置の方に興味を持った。
主人公は、この三人の女全員と肉体関係を持っている訳だが、エフィ・ぺリンの立ち位置だけが、他の二人とは違う。
他の二人は、単なる性欲の対象でしかないのに比べ、主人公は、エフィ・ぺリンに対してだけは、明らかに「気を使っている」
主人公が「運命の女」ブリジッド・オショーネシーを助けた大きな理由は、秘書のエフィに「あの娘は良い人だから助けてあげて」と言われたからだ。
主人公サム・スペードを奪い合う恋敵であるはずのブリジッドを心配し「良い人だから助けてあげて」と言って彼
を送り出すこの秘書に、私は、戦国武将もの大河ドラマに出てくる「側室に対して情けをかける余裕のある正室」的な感じを受けた。
ある種の母性、とでも言ったら良いか。
その真逆の解釈として、エフィ・ぺリンは単に純粋で正直者のナイーブな女という見方も成立するには成立する。
そのナイーブさゆえに、主人公も思わず言うことを聞いてしまうという説だ。
彼女は心配性の母親と二人暮らしである、と言う設定も、これを傍証しているようにも思える。
この説を取るなら、主人公とエフィは性的関係を持っていないのかも知れない。
しかし、その解釈だと、主人公のキャラ設定が少し甘くなってしまうし、事あるごとに主人公がエフィの尻に顔を付けて手で尻をナデナデする描写が意味不明になってしまう。
1930年代のアメリカでは、男の上司にとっても女の部下にとっても、この程度のセクハラは「罪のないジャレ合い」に過ぎなかったのかも知れないが。
運命の女ブリジッド・オショーネシー
さて、肝心の「運命の女」について。
勉強不足の私は「運命の女」という言葉に、例えば「ルパン三世」の峰不二子のようなキャラクターを勝手に連想していた。
頭が良くて、目端が利いて、常に男たちの二手も三手も先を読んで手玉に取る女、という、ある種の知的アンチ・ヒーローのような人物造形だ。
しかし、本作のブリジッド・オショーネシーは、確かに男たちを手玉に取って物語を進行させて行く役割だが、そこまで「頭が良い」という印象も受けなかった。
行動に行き当たりバッタリ感がある。
むしろ「それほど頭が良いわけでもないのに、歴史的な財宝を手に入れようという変な気を起こしてしまった女」という感じがした。
仮に、これが「頭の良い女が、男を手玉に取って次々破滅させ、まんまと財宝を手に入れました」という物語展開だったなら、それはスッキリと「腑に落ちる」エンターテイメント・ストーリーになっていただろう。
しかし本作のように「自分の能力以上の夢や欲望を持ってしまったがゆえに、周囲の男たちを破滅させ、最後には自分自身をも破滅させてしまう女」の方が、『世界のダークさ・不条理さ』の悲劇性が際立つぶん、物語として強いと思う。
主人公の造形
主人公サム・スペードについて。
正義なんて最初から信じていない。
男同士の友情も信じていない。
男女の愛情も信じていない。
国家権力も信じていない。
金は好き。
取引はするが、信頼はしない。
平気で裏切る。
次々に女を抱く。
コケにされるのが大嫌い。
ちょっと作られ過ぎているようにも感じる。
コンチネンタル・オプが持っていたある種の「透明感」が、私の記憶の中に強く残っていただけに、余計にそう感じたのかも知れない。
ただ、この強烈なキャラクター造形じゃないと、「ブリジッドを警察に売る」という強烈なラストには持って行けなかったか気もする。
主人公以外の男たち
特に見るべきものは無し。
悪の親玉であるガットマンでさえ、小物感が漂う。
ラスト
主人公が「運命の女」ブリジッドを裏切って警察に売るというラストは強く印象に残った。
何人もの欲望を駆り立てて、何人もの命を奪った「マルタの鷹」が、結局は偽物だったという皮肉も良い。
事務所に帰ってきた主人公が、秘書のエフィ・ぺリンに「ブリジッドは悪い女だった」と告げてエフィから肘鉄を食らい、その直後に不倫相手のアイヴァが事務所にやって来てオチが付くというエンディングも、ちょっとやり過ぎ感はあるが、物語としてはキレイな終わり方だ。
結論
「仮のラスボス」であるガットマンが逮捕された後、それまで仲間だったブリジッドが「真のラスボス」として立ち上がってくるラストの展開は、(ファム・ファタールという性質からある程度予想できたにせよ)さすがに鮮やかだと思った。
そこからの、主人公とファム・ファタールの対決シーンも読みごたえがあった。
ただ、物語中盤の捜査の様子は少しダルかった。
追記 (2019.5.5)
一つ、重要な事を書き忘れたので追記する。
主人公サムがヒロインのブリジッドに、唐突に、ある寓話めいた物語を聞かせる。
こんな話だ。
タコマという町で不動産会社を経営していた男が、突然失踪した。
夫婦の仲は良く、子供も二人いて、家も、新車で買ったばかりのパッカード(当時の高級車)もある。
不動産業で成功を納め、遺産を相続し……つまり何不自由の無い生活を送っていたにも関わらず、突然、彼は居なくなってしまった。
そして五年後、スポケンという町で、男は発見される。
名前を変え、別人としてスポケンの自動車関連会社に勤め、別の女と結婚し、赤ん坊も出来ていた。
なぜ男は、別人として、別の町で就職し、別の女と結婚し、家庭を築いたのか?
発見された男は言った。「ある日、町を歩いていたら眼の前に工事現場の鉄骨が落ちて来て、間一髪で助かった。もう少しで死ぬところだった」と。
もう少し位置がズレていたら、男は鉄骨の下敷きになって死んでいただろう……どんなに真面目に生きていても、結局、人の生き死にはデタラメの偶然に支配されている。
ならば、いきあたりばったりに、自由に、自らの人生を変えることも出来るはずだ……
こうして男は、仕事も家庭も投げ出して放浪の旅に出た。
放浪の果てに、名前を偽って別の町で仕事を持ち、最初の妻と似た性格の女と結婚し、新たな家庭を築いた。
主人公のサム・スペードがこの寓話の中で一番気に入っているのは……
「自由に生きたいと思って放浪の旅に出た男が、結局は、別の町に定住し、元の生活と似たような真面目な生活を送り、最初の妻と似たような別の女と結婚して家庭を築いていた」
……という部分だと、ブリジッドに語る。
この挿話には、3つの主旨がある。
- 世界は、偶発的・突発的・デタラメな暴力で人間の命を簡単に奪ってしまう。世界とは、そういうものである。
- だからこそ、今この瞬間の自由な意思に従って行動するのが合理である。
- しかし、人間が持って生まれた性(さが)から自由になる事はない。自分自身の内なる本性からは逃れられない。
この本筋とは何の関連も無いように見える寓話めいた物語は、なぜ挿入されたのだろうか?
ひょっとしたら、これこそが、この作品を形作っている思想なのではないか。
「世界は何の前触れもなく、気まぐれに個人の人生を狂わす」
「人は、その世界の残酷な気まぐれから逃れようと自ら行動する」
「しかし人は、自分自身の内なる本性からは永久に逃げられない。自由になれない」
この三つを土台に「マルタの鷹」の物語は構築されているのかもしれない。