時代小説を読む読者と題材の『時代差』について
1966年版の「大菩薩峠」を観た
まあ、とにかく仲代達矢の机龍之助が凄い映画だった。
椿三十郎トリオという事で書くと、加山雄三が精悍さを増していて好演だった。逆に、三船敏郎は、本作に於(お)いてはセリフの滑舌が悪いというか若干ろれつが回っていない感じがあって、ちょっと残念だった。駕籠(かご)に乗っている所を新撰組に襲撃されて返り討ちにする三船の殺陣の迫力は流石だと思った。
机龍之介なり、他の登場人物なりが、不安・不快などのネガティブな感情を持ったとき、その表情を広角レンズを使って斜めやや上の方からグーっとクローズアップで撮影して、その歪みで不安定な感情を表現していた。
これは、押井守や庵野秀明などのアニメーション監督が時々やる手法だが、この「大菩薩峠」あたりが元ネタなのだろうか。
とにかく、1966年版の「大菩薩峠」が面白かったので、久しぶりに原作を読み直してみようと思った。
二十歳前後の時に読んで、一度挫折した思い出
私は二十歳前後の時に一度、中里介山の小説「大菩薩峠」を読んている。
その時は、ちくま文庫版の全二十巻のうち第七巻か八巻あたりまで読んで、そこで挫折した。
今度は、挫折ぜずに最後まで読み終えたい。
小説の「大菩薩峠」について、ちょっと調べてみた
ネットで中里介山の「大菩薩峠」について調べるうちに、本作が「日本初の大衆小説」と言われている事に驚いた。
もし、それが本当なら、当然ながら「大菩薩峠」は日本初の「大衆向け時代小説」でもある訳だ。
それで興味が出て、芋づる式に、日本の時代小説がいかにして誕生したのかを調べてみた。
それ以前にも大衆文芸は存在した
戯作という文学形式は江戸時代から明治まで連綿と続いていたし、落語や浄瑠璃もあったのだから、大衆文芸それ自体は、近代以前にも既に存在していた訳だ。
ただし、それらは、当然ながら、近代以降に西洋から輸入された「小説」という文芸形態とは、表現の方法が違っていた。
「大菩薩峠」が日本初の「大衆小説」と言われる理由は、
「近代以降に西洋から入ってきた『小説』という表現形式を使い、かつ、(一部のインテリ層ではなく)広く大衆向に向けて書かれた初の文芸作品」
だったからだ。
速記講談=プレ大衆小説
では、なぜ日本初の大衆小説が、江戸時代の侍たちを描いた「時代小説」だったのかといえば、それが「日本古来の伝統文芸と近代西洋小説とのハイブリッド」だったからだ。
伝統的大衆文芸から近代的大衆小説へと移り変わっていく過程で、まず「速記講談」という文芸形態が生まれる。
〈講談〉というのは、ステージの上の講談師が、扇子で机を「パンッ、パンッ」と叩きながら、そのリズムに乗せて武将たちの武勇伝を語る伝統大衆芸能で、それ自体は、もちろん江戸時代以前からあった。
明治時代になって、新聞というメディアが広く読まれるようになった時、各新聞社は『講談師』たちのライブを速記して活字に起こし、新聞に掲載した。
これが「速記講談」という文学形式だ。
明治時代に於(お)いては、あくまで『講談師』たちのライブの記録という体裁をとっていた「速記講談」だが、やがて「どうせ活字にするんだから、わざわざ講談師のライブを速記する必要無いんじゃね? 最初から活字オリジナルの企画として、誰かに創作して書いてもらえば良いんじゃね?」という発想が生まれる。これを「書き講談」という。
- 主に武将たちの武勇伝などを題材にした〈講談〉という日本古来の大衆文芸形態があった。
- それを速記して活字に起こし新聞連載した〈速記講談〉が明治時代の大衆に支持された。
- 講談師のライブに頼らず、最初から活字オリジナルとして物語を創作する〈書き講談〉が生まれた。
- 日本初の大衆小説、『大菩薩峠』の新聞連載開始
という流れだ。
日本伝統の〈講談〉を一方の親に持ち、西洋から流入した『小説』という文学形態をもう一方の親に持つ初期の大衆小説作家たちは、当然の結果として「現代もの」ではなく「時代もの」を選んでいった、という事なのだろう。
そう考えると、小説「大菩薩峠」が『ですます調』の、文語体とも口語体とも言えない妙な語り調子なのも納得がいく。
あの文体は、〈講談〉の語りを多分に意識したものだった。
ちなみに
当時、新聞の埋め草でしかなかった『速記講談』を単独の読み物として集めて「講談倶楽部」という雑誌を作り大ヒットさせた出版社があった。
その出版社の名を『講談社』という。
そう。「少年サンデー」や「少年マガジン」でお馴染みの、あの講談社だ。
さて、本題。
時代小説が出版された当時の作者や読者にとって、物語に描かれている『時代』というのは、どれくらい遠かったのか、という事が気になってしまった。
調べてみると、日本初の大衆小説すなわち日本初の時代小説である「大菩薩峠」の新聞連載が始まったのが西暦1913年。
これを知った時「おいおい、ちょっと待てよ」と思った。
たしか、仲代達矢主演の映画「大菩薩峠」のオープニングで「万延元年」という字幕が出ていたはずだ。万延元年すなわち西暦に直すと1860年。
お分かり頂けるだろうか?
この小説を新聞連載で読んだ読者たちにとって、わずか五十三年前の物語なのだ。
例えば、今(2019年)から五十三年前というと1966年、まさに仲代達矢が机龍之介に扮した映画「大菩薩峠」が公開された年だ。
もちろん、2019年現在、仲代達矢は健在だ。
つまり、理論上、「大菩薩峠」の連載が始まった1913年とは、 机龍之介がまだ生きていてもおかしくない時代 なのだ。
別の例を出そう。
仲代達矢版の「大菩薩峠」の物語は、前述の通り「万延元年」に始まり、「文久三年」に終わる。
文久三年(西暦1863年)とは、「大菩薩峠」の初連載から遡ることちょうど五十年だ。
五十年前とは、現代(2019年)の我々に置き換えると、1969年だ。
例えば、今年(2019年)はフレディ・マーキュリーの伝記映画が大ヒットしているが、そのフレディ・マーキュリーと他のメンバーが出会い「クイーン」というバンドが生まれたのが1970年。
つまり1913年当時の「大菩薩峠」の読者と、その物語世界との時代ギャップは、現代の我々が映画「ボヘミアン・ラプソディ」に感じる時代ギャップ程度でしかなかったということだ。
当時の人々にとって、近藤勇や芹沢鴨や新撰組の面々に感じる時代ギャップは、我々がビートルズやクイーンに感じる時代ギャップ程度の小ささだった。
「あれ? 案外、読者の時代と物語世界の時代が近いんだな」という感想を持ったと思う。
岡本綺堂の「半七捕物帳」
最初期の『時代小説』が発表され人々が読んでいた時代と、そこで語られている時代とのギャップの小ささをさらに強烈に感じたのが、日本最初の捕物帳小説といわれる岡本綺堂の「半七捕物帳」を読んだ時だ。
「半七捕物帳」の第1話は、作者である岡本綺堂自身が、子供の頃に知り合いの「Kおじさん」から聞いた怪談で始まる。
「これは、知り合いのKおじさんから聞いた話だが……」
ふむふむ。
「昔、ある旗本の奥方の枕元に、毎夜毎夜、幽霊が現れた」
なるほど。
「それに興味を持った、別の旗本の三男坊が、半七という岡っ引きと一緒に調査に乗り出した」
ほう……
「実は、その旗本の三男坊というのが、他でもないKおじさんなのだが……」
えーっ!
第2話になると、物語の体裁は「作者である岡本綺堂が、すでに年老いて引退した半七から直接聞いた話」になる。
つまり、最初期の『時代小説』とは、「作者が、物語の登場人物から直接話を聞ける」ほどに近い時代の物語だった、という事だ。