映画「サスペリア」を観た。
映画「サスペリア」を観た。
ヒューマントラストシネマ渋谷にて。
リメイク版。
監督 ルカ・グァダニーノ
出演 ダコタ・ジョンソン 他
ネタバレ注意
この記事にはリメイク版「サスペリア」と、そのオリジナルであるダリオ・アルジェント版「サスペリア」のネタバレが含まれます。
ネタバレ防止の雑談。
映画を見ながら最近思うのは「映画にとってストーリーの重要度は、どれくらいなのだろうか」という事だ。
つまり、カメラワークや音響、音楽などの演出面・描写面と、それによって語られる「物語」の、映画全体への貢献度の比率はどれくらいになるのだろうか、という事だ。
映画を作っている人々に尋(たず)ねれば、もちろん10人が10人「脚本は大事だ」と答えるに決まっている。
それは決して嘘ではないのだろうが……
比較的低予算の作品においては、今も昔もストーリーに仕掛けられたアイディアの斬新さや物語そのものの美しさが重要視されているように思う。
しかし大作エンターテイメント作品に関して言えば、もはやハリウッドは
「最大多数の観客に訴求するのはまず何よりビジュアル的な気持ち良さであり、ストーリーはそのビジュアル面でのエンターテイメント性を出来るだけ阻害しないシンプルで誰でも共感できるストーリーが好ましい」
と結論づけたように思えてならない。
以上、ネタバレ防止の雑談でした。
以下、ネタバレ。
オリジナル版サスペリアについて
オリジナルのダリオ・アルジェント版サスペリアは、真っ赤な壁のアール・デコ調バレエ学校、窓の外でワザとらしく光る目、赤い絵の具そのものといったリアリティのかけらもない血のり、作りもの感が丸出しのコウモリといった「あえてオモチャっぽさを前面に打ち出すことで、観る者に強烈な印象を与える」という逆転の発想を徹底させた作品で、それは後のティム・バートンに代表されるハリウッド・エンターテイメントの一派にも通じる志向だ。
1920年代から30年代にかけてのイタリアでは、一時期「ジャッロ」(=黄色い本)と呼ばれる、扇情的な描写がウリの通俗サスペンス小説が大量生産されていたらしい。
1920年代から30年代といえば、アメリカでは「パルプ小説」が、日本では「エロ・グロ・ナンセンス」と揶揄された江戸川乱歩に代表される通俗探偵小説や怪奇色の強い探偵小説が量産された時代でもある。
20世紀初頭から半ばにかけて世界同時多発的に、通俗的・扇情的な、お世辞にも高尚とは言い難い小説群が量産されていたという事実、そしてそれが後のSF、ホラー、サスペンスなどのジャンル映画やポップカルチャーの温床・揺りかごとして機能したというのは興味深い。
ともあれ、オリジナル版サスペリアは、その「ジャッロ」と呼ばれる扇情的・通俗的なサスペンス小説を「あえて」現代に蘇らせようという試みで、そこに見られるある種の古臭さや過剰さは、もちろん意図され計算の上で選択されたものだ。
つまり、これは1977年にイタリアの映画監督が作り上げたアルジェント版「パノラマ島」だ。
江戸川乱歩の「パノラマ島奇談」をご存知ない方には「江戸川乱歩全集 恐怖奇形人間」の原作と言えば分かって頂けると思う。
我々観客は、彼の作った見世物小屋の中を歩きながら、その毒々しさケバケバしさに身をゆだねれば良い。
ストーリーは有って無いようなもので、トリックの陳腐さバカバカしさは百も承知、言うだけで野暮というものだ。
そもそもが一種のパロディ映画をさらにリメイクする困難
オリジナル版のサスペリア自身からして20世紀前半のエログロ通俗サスペンス小説を「陳腐さ込みで全て分かった上で再現する」「観客もそれを分かった上で鑑賞する」という、ある種のパロディ映画だ。
そういう出自の映画をこの2019年(日本公開)にあえてリメイクする、作り直すという意義というのは普通に考えれば、なかなか見出しづらい。
本質的には「一発芸」であるパロディ映画をストレートに焼き直したところで、パロディを2段に重ねた陳腐で歪(いび)つな代物にしかならないだろう。
とすれば、ビックリハウスで無邪気に遊ぶようなパロディ映画だったオリジナル版を、どう再構築して「オリジナルの象徴的要素を取り入れつつ」「全く違うもの」を作り上げるか、が勝負の分かれ道という事になる。
噂によると、このリメイク版サスペリアをダリオ・アルジェントはお気に召していないらしいが、そりゃそうだろうと思う。
サスペリアをリメイクするというのは、言ってみれば「同じ素材を使って、どうやって全く別の料理に仕上げるか」という作業だからだ。
素晴らしい映像
結論から言うと、良い映画だった。
まず、映像が素晴らしい。
それはCGをてんこ盛りにして鬼面人を威(おど)すという意味ではない。
画面の中の配置がビシッと決まっている、という気持ち良さだ。
いわゆる「構図」の妙だ。
構図がビシッと決まったカットが続くというのは、言ってみれば美術館で優れた絵画を次から次へと見ていく気持ち良さに近い。だから全く飽きない。150分の長尺映画の割に、中ダレをほとんど感じなかった。
ラストのサバト・シーン
オリジナル版サスペリアの、主人公が隠し扉を発見してその中へ入ってからの一連のシーンは、これぞビックリハウス映画の真骨頂といった感じで不思議なエネルギーに満ちていて、ダリオ監督ノリノリだな! って感じで楽しかった。
本作のラストのサバト・シーンも、ルカ監督ノリノリだな! って感じで不思議なエネルギーに満ち溢れていて面白かった……前半部に関しては。
……ただし……
ストーリー的な観点から言うと、このサバト・シーンの半ばあたりで真相が明らかになり、サバトはいよいよクライマックスへ向けて後半の盛り上がりを見せる訳だが……その真相を聞いた時点で、ちょっと冷めてしまったと言うのが正直なところだ。
真相を聞いて、ちょっと冷めた。イヤボーンの法則って……
真相は、こうだ。
主人公は、アメリカのアーミッシュに似た戒律の厳しいキリスト教コミュニティに生まれた。
その正体は、実は遥か太古にドイツを治めていた三人の魔女の一人「嘆きの母」が現代に転生した姿だった。
自らが大いなる魔女であることを知らぬまま成長した主人公は、偽物の魔女たちが支配するダンス学校に入学し、徐々にダンサーとしての(=魔女としての)素質を開花させていく。
そしてラストのサバト・シーンにおいて、信頼を寄せていた教師(主人公に対して師弟愛とともに同性愛的な感情も持っていた事がラストで明かされる)が魔女同士の政治闘争の末に殺されるのを見て、主人公はついに「覚醒」する。
……おいおい、超能力少女覚醒エンドかよ……
と、この真相を知ってちょっと冷めてしまった。
最後の最後でメロドラマ的な甘い展開が入ってしまったなぁ、と冷めた。
しかも「魔女」とは、かつてヨーロッパを治めていた古代(ケルト?)の地母神たちの事で、それがキリスト教という抑圧的な宗教の伝播と共に悪しき存在の烙印を押されて弾圧され歴史の裏側に追いやられた……といったサイド・ストーリーが仄(ほの)めかされる。
つまり「魔女」こそが人々を抑圧から解放する真の「女神」であり、それを「魔女」と呼んで忌まわしき者として弾圧してきたキリスト教こそが悪なのだ、という仄めかしだ。
「偽の魔女」だったダンス学校の理事たちは生徒である少女たちを抑圧し搾取し、「真の魔女」(古代地母神の生まれ代わり)たる主人公によって最後には罰せられる。
しかし少女たちに対しては女神様はどこまでも慈悲深く、抑圧されて深層心理に自殺願望を植えつけられた少女たちには夢の中でのエクスタシーと共に「仮の死」とそこからの「再生」を与え、彼女らを精神的に解放する。
終わってみれば、こういう話だった……
『抑圧的な悪の教団キリスト教』VS『かつてキリスト教に弾圧され封印された古代の神々(自由の象徴)』の戦い、という長い歴史の中で、主人公は自分自身も知らない内に秘められた力を覚醒させ、最後には女神の生まれ変わりとしての自分の使命を自覚する。
うーん……どっかで聞いた話すぎる。
要するに、これは一種の「正義のヒーロー誕生物語」だったという事だ。
私は、通俗的である事や陳腐である事を必ずしも否定しない。
あえて通俗性や陳腐さに身をゆだねるのも、それはそれで楽しい体験だ。
オリジナル版サスペリアは、最初から「リアリティ? 格調高さ? 何それオイシイの? そんなもの最初から目指してませーん」といった感じだったから、観ている方もモードを切り替える事が出来た。通俗的なストーリーにも寛容でいられた。
しかし、ことリメイク版サスペリアに関しては、なまじ格調高い映像が続いた果てのオチだったため
「ええ? ここまで付き合って来て、なに? その有りがちな『イヤボーンの法則』エンド……」
と思ってしまった。
(注)イヤボーンの法則に関しては、各自ネットで調べてください。
追記(2019-2-15)
この記事を投稿した後で、他の人の感想ブログ記事を読んでいたら、
「主人公は、物語の最初から『魔女』だったのではないか」
という可能性が示唆されていた。
これは、ちょっと目から鱗だった。
なるほど……
つまり、主人公は最初から『魔女」(=女神)として覚醒していて、最初から『偽の魔女に罰を与える』という目的を持ってこのダンス学校に入学した、という事だ。
物語冒頭の「ダンスが好きなだけの純朴な少女」というキャラクター付けは彼女の演技だった、という意味だ。
確かにそう考えると、いろいろ合点が行く部分も多い。
だとすると、この物語は「イヤボーン=超能力少女覚醒物語」という一種の「ヒーロー誕生物語」ではなく……
梅津かずおの「おろち」や、藤子不二雄の「笑ゥせぇるすまん」のような「異人(マレビト)=放浪する神々」の物語ということになる。
つまり、制度疲労をおこして組織としての活力が失われつつある共同体にフラリとやって来て成り行きを傍観し、必要とあらば超自然的なパワーを駆使して共同体に「破滅的な変化」をもたらし、その代償として「新たな活力」を共同体に与えて去っていく神々の物語だったという解釈だ。
なるほど……だとすると、本作品に対し陳腐なイヤボーン物語と言ってしまった私自身の言葉を撤回せねばなるまい。
しかし、そのままにしておく。
この記事は事実を述べるものではなく、あくまで記者である青葉台旭の主観を述べる「感想記事」なので、追記だけに留めて全面改稿はしないでおく。
感想記事というのは「間違う可能性」も含めての感想だと思うからだ。何が正しくて何が間違っているかは、読者一人一人が判断する事だ。
それに「間違った感想を持ってしまった」というのも私にとっては大事な記録だ。