映画「迫り来る嵐」を観た。
映画「迫り来る嵐」を観た。
新宿武蔵野館で観た。
監督 ドン・ユエ
出演 ドアン・イーホン 他
ネタバレ注意。
この記事にはネタバレが含まれます。
ネタバレ防止の雑談。
私には、映画を見終わったあと他の人がどんな感想を持ったのかブログなどをネット検索して、いくつか読んでみるという習慣がある。
この映画を、同じ中国の「薄氷の殺人」と並べて中国ノワールなどと称する記事があった。
「薄氷の殺人」は結構好きだ。
とくにラストに奇妙な余韻が残るところが好きだ。
それから、ちょっと古い中国地方都市の街並み……レトロで、ノスタルジックで……日本ともヨーロッパとも、西側資本主義世界にあるどの国・どの時代とも違う風景は、エキゾチックで見ていて飽きなかった。
この「迫り来る嵐」も「薄氷の殺人」も、1990年代末の中国地方都市を舞台にしている。
しかし、「薄氷の殺人」のようなノワール的な作品だと思い込んで映画館に行くと、この映画の本質を見誤ると思う。
以上、ネタバレ防止の雑談でした。
この映画はノワール映画ではない。
ここから本題。「迫り来る嵐」の感想。
一部のブログ記事などでは「中国ノワール」とか言われている。
「ノワール映画」の定義にもよるだろうが、私の解釈では「ノワール映画」ではない。
社会のドロドロした暗黒面を描いた作品でも、人間の内面のドロドロした暗黒面を描いた作品でもない。
この映画はサスペンスでもスリラーでもミステリーでもない。
「女性連続殺人事件」の犯人を追うというサスペンス/スリラー/ミステリー的な体裁でありながら、この映画はサスペンス映画でもなければスリラー映画でもミステリー映画でもない。
「実は犯人は○○でした」という意外なオチをつけ観客をスカッとさせて終わるというサスペンス/スリラー/ミステリー的な仕立てを、この映画は完全に放棄している。
この映画は「不条理」映画だ。
では何を描いているかといえば……
「世の中の不条理」とりわけ「独裁国家の不条理」を描いた映画だった。
独裁者あるいは独裁的政治集団が支配する社会で、彼らの胸ひとつで、ある日とつぜん世界を動かす原理原則がガラッと変わってしまうという不条理を描いた作品だ。
かつて正しいと信じ込まされ、それに従い、人生を捧げ、一喜一憂していた『社会の原理原則』が、たった十年やそこらで無価値になり、それと入れ替わるように、資本主義・市場経済という『堕落した敵国の思想』だったはずの物が、あっという間に国全体を覆ってしまう「不条理」を目の前にして、一人の男が『十年前のあの暮らしは何だったんだ? 俺は夢でも見ていたのか?』と戸惑う……それがこの映画のメインテーマだ。
それは、日本で言えば終戦の日に多くの日本人が感じた『不条理感』に近いのかもしれない。
ある日突然、『日本は戦争に負けました、今日からは勝者であるアメリカさんの言うことに従ってください』と、昨日まで『鬼畜米英』と叫んでいた国家当局から通達されるという不条理。
じゃあ、昨日までこの国を支配し、自らも嬉々として従い、命さえ捧げようとしていた、あの価値基準は一体何だったのか……そんな、終戦直後の日本人が感じた不条理感と同じものを、この「迫り来る嵐」の主人公も感じていたのではないか。
世界を動かす仕組みが短期間でガラッと変わってしまう不条理の中で、『変わってしまった』現在から、『変わる前の』過去を振り返る……これはそういう映画だ。
『あの頃を振り返ってみると……あんなものに一喜一憂し自分の人生を賭けていたなんて信じられない。まるで夢のようだ……あれは本当に現実にあった出来事だったのだろうか』……そういう幻想的・不条理的感覚こそがこの映画のテーマだ。
早い話これは、現代に復帰した浦島太郎が、竜宮城にいた頃の暮らしを振り返って「あれは夢だったのだろうか? それとも現実だったのか?」と自らに問う、という映画だ。
ただし、過去の自分が暮らしていたのは竜宮城(=ユートピア)ではなく、独裁体制国家というディストピアだが。
シュルレアリズムではないから、ある朝起きたら虫になっていたとか、そういう非現実的な事は何ひとつ起きないが、ある意味カフカっぽいというか、未来世紀ブラジルっぽいというか、そういうディストピア幻想譚の一種に位置付けるべき作品だと思う。
『過去の人生を振り返って、まるで夢のようだったと思う』という切り口は、ディストピア譚としては、なかなか新鮮だ。
西洋の不条理ディストピア譚/シュルレアリズム譚には無い、この映画独自の視点だと思う。
『邯鄲の夢』的、『杜子春』的、あるいは『胡蝶の夢』的とでも言うべきか。
繰り返すが、本作は犯罪をメインに据(す)えたノワール映画ではないし、ミステリーでもスリラーでもない。
連続殺人鬼を追うだの何だのというのは、話を前に進めるための単なるマクガフィンに過ぎない。
1997年の中国の地方都市。
中国に行った事はないが、2019年現在の中国都市生活がどんな物かは、私にも容易に想像がつく。
近代的な超高層マンションと、マクドナルドと、スターバックスと、ルイ・ヴィトンと、アップルと、ベンツと、フェラーリと、インターネットと、SNS……要するに東京や他の西側資本主義国と何ら変わらない高度消費生活である事を知っている。
対して、この映画の舞台……たかだか20年前の中国地方都市の、何とまあレトロな事か。
日本で1997年といえば、二年前にウィンドウズ95が発売され、インターネットが徐々に普及し、ジェイムズ・キャメロンの「タイタニック」が公開され、庵野秀明の劇場版「エヴァンゲリオン」が公開された年だ。
要するに、日本や西側諸国の1997年〜現在(2019年)は地続きで、なだらかな進化・変化は各分野であるにせよ、20年前と現在とで何かが決定的に変わっている訳ではない。
しかし中国の1997年は違う。
何もかもが「古臭い」を通り越して「過去の遺物」だ。
現在の中国との間には明らかな断絶がある。
国営の鉄工所にしても、警察署にしても、病院にしても……あるいはヒロインの住む風俗店、のちに彼女が経営する美容院、周囲の街並み、歓楽街に流れる歌謡曲、毎夜公園で踊る男女のバックで流れる音楽……街を走るトラック、警察車両、サイドカー……二十一世紀を迎えようという人々の暮らしとはとても思えない。
日本で言えば戦前か、せいぜい昭和30年代くらいの風俗に見える。
そんな、下手したら100年前から変わらない暮らしだった街に、わずか20年で「スタバでiphone」の時代が到来するわけだ。
そりゃ、不条理感も覚えるというものだ。
この物語の最初と最後は、2008年に刑期を終えた主人公が出所する場面だ。
メイン・ストーリーとの時差は11年なので、流石(さすが)にそこまで劇的な変化ではないが、それでも出所した主人公が見る11年後の世界は確実に変化している。
異界感・幻想感を強調して語られる過去の中国
最初と最後に2008年現在の状況を語り、その間に過去の回想を入れる……いわゆる『ブックエンド形式』で1997年に起きた連続殺人事件が語られ、これがメイン・ストーリーになる。
中国が計画経済に支配されていた1997年当時の街並みが、『異界感』『幻想感』を強調した形で表現される。
屋内セット特有の、ちょっと人工的な夜の街。
曇りガラス越しに光る風俗街のネオン。
終始降り続く、ブレードランナーを遥かに凌(しの)ぐ大量の雨。
この『異界感』『幻想感』を強調した上で描かれる過去の中国、というのが、この映画のキモだ。
魔法が出てくるわけでも、怪物が出てくるわけでも、レプリカントが出てくるわけでもない。単なる1997年の中国地方都市の暮らしだ。
にもかかわらず、観客に『なるほど、まるで夢のようだ』と思わせる幻想的な描写になっている。
そのレトロで、幻想的で、ディストピア感あふれる街から、主人公の周りの人間が一人また一人と『退場』していく。
部下が死ぬ。
恋人が身投げする。
犯人だと思っていた男は主人公によって重い障害を背負わされ、その後無実だと分かる。
出所してみれば懇意にしていた刑事は認知症。
あれほど拘(こだわ)っていた真犯人は、けっきょく何者か分からないまま交通事故であっけなく死んで火葬されてしまった……と、後になって知る。
かつて、国の指導者たちが『模範的労働者』だと自分を褒め称えてくれた国営工場の大ホールは、政治スローガンの剥げ落ちた廃墟と化している。
そもそも俺はあの時ほんとうに表彰されたのだろうか? それさえも幻だったのではないか? と老いた守衛の言葉に考えさせられる。
その工場も最後には爆破され、跡地には堕落した資本主義の象徴であるはずのショッピング・モールが建設される予定で、市民たちもそれを受け入れている。
全てが夢だったかのように、かつて主人公の世界にあった凡(あら)ゆるものが消えていく。
栄光も、情熱も、恋愛も、友情も、苦悩も、挫折も、狂気も……過ぎ去ってしまえば全ては幻。
そんな映画だった。
一言だけ苦言。
効果音は、ちょっと雑だった。
総じて、わざとらしい。
しばしばタイミングもズレていた。