映画「ラ・ラ・ランド」を観た。
映画「ラ・ラ・ランド」を観た。
netflix。
監督 デイミアン・チャゼル
出演 ライアン・ゴズリング 他
ネタバレあり。
この記事にはネタバレが含まれます。
先に結論から申し上げると……
正直言って、感心しなかった。
なるほど確かに、『頭が良くて、手際が良くて、豪華で、洒落ていて、(過去の映画の)教養があって、上品で、気が利いている映画』だった。
そのこと自体は別に悪い事でもないだろう。少なくとも『頭が悪くて、手際が悪くて、貧乏臭くて、野暮で、教養がなくて、下品で、気が利かない』だけの映画、ただそれだけの映画よりは遥かにマシだ。
しかし私個人は、なぜか「感心できねぇな」という感覚が一番強く残った。
感動できるものがこの映画にほとんど無かったからだろうか
技工だけが目立って、あざとい感じだけが残ってしまった。
技巧というのは、芸術に『凄み』を出すために使うものであって、『オシャレ感』の演出に使うものじゃないと思います。
余談。それにしても、一気に涼しくなったな。
今、私は田舎に居る。
今年は全国的に記録的な猛暑だったらしい。
東京ほどではないにせよ、私の住んでいる田舎も今年は例年に無く気温・湿度ともに高かった。
お盆の墓参りは(昼過ぎの一番気温の高い時に行ったこともあって)なかなかに辛いものがあった。
しかし昨日から一気に気温が下がった。
明け方には、寒さで目が覚めて毛布を引っ張り出して被(かぶ)るほどだった。
そして、高い空。澄んだ空気。 何もかもがキラキラと輝いている。
こんな日は、オープンカーに乗ってどこまでも走って行きたい。
実際には、自転車に乗って高台の喫茶店まで行って、テラス席で景色を眺めながらコーヒー飲むくらいが関の山なんだけど。
オープンカー持ってないし。
それでも今日は「美しい田舎の一日」を満喫するぞー! ヤッホー!
以上、ネタバレ防止のための、映画とは全く関係ない話でした。
以下、ネタバレします。
良かった点。
ライアン・ゴズリングが笑顔で頷(うなづ)くラスト・ショットが良かった。
あの微かな笑みを浮かべて頷く感じは、さすが当代一流のスターだと思った。なかなか他の役者には真似できない芸だと思う。
『これで、ええんやで』と無言で語りかけるあのニッコリ顔で、この映画全体が辛(かろ)うじて救われたと思う。
余談だが、ゴズリング氏は『ドライブ」といい『ブレード・ランナー』といい、
「悪い奴じゃないし技術もあるんだけど、頑固者でコミュニケーション下手ゆえに社会の底辺で燻(くすぶ)っている男(イケメン)」
みたいな役ばっかりだな。
画面が良く計算されていて、引き締まっていて良かった。
画面内の配置、カメラの動き、角度、それらが良く計算されていて、バランス良く、引き締まって見える。
画面が美しいと、それだけで飽きずに最後まで観られるという事に、映画「立ち去った女」を観たときに気づいた。
「立ち去った女」ほどではないにしても、この「ラ・ラ・ランド」も1ショット、1ショット良く計算されていて、最後まで飽きることがなかった。
悪かった点。
ラスト直前で挿入される『ありえたかもしれない、もう一つの人生』の幻想シーン。
あれは悪手だったと思う。
本当の名監督なら、あんな明からさまなシーンは入れないと思う。
「誰でも身に覚えがあるよね? あの時あいつと結婚していたら俺は別の人生を歩んでいたかもしれない。それはそれで幸せな人生だったのかもしれない……って、誰でも一度は思ったことあるよね? 一度は経験しているよね?」
と、明からさまに感動ポイントを突くようなことされてもなぁ……別に。
本当の名監督なら、同じ「人生の選択についての物語」を描くにしても、あんな明からさまな手法は取らないと思う。
あまりにも明からさまな『もしも別の人生を歩んでいたら……』の幻想シーンであるがゆえに、その次に来るのは『俺たちはそれぞれの人生を選択した。そして今がある』という何らかの着地シーンなんだろうな、と安易に予想できてしまう。
それじゃあ、ラストの笑顔も効果半減だ。
ライアン・ゴズリングの微笑みと頷(うなづ)きのラスト・シーンへ収斂(しゅうれん)させて行くのがこの物語の最終目標である、というのは良い。
しかし、その過程においては『もしも別の人生を歩んでいたら……』という幻想を安易に見せるのではなく、別の手法を使うべきだったと思う。
その『ありえたかもしれない、もう一つの人生』の中に、二人が結婚して子供を産み幸せな家庭を築く様子が記録ムービー風に描かれる。
その家族の記録ムービーは、なぜか8ミリ・フィルムで撮影されている。
……あ、あざとい……
これって、現代の話だよね? エマ・ストーンが乗ってたの、二代目プリウスだよね? だったら家族の記録はデジカメ使って4K動画で撮るよね? 普通。
わざとノスタルジック感出すために8ミリで撮ってるよね? 変だよね?
あざとい技巧ついでに書かせてもらえば、二人が痴話喧嘩する時だけブレブレの手持ちカメラで撮って臨場感出そうとしてるのも、いかがなものかと思ってしまう。
他のシーンはエレガントかつクラシカルに、ゆっくりとカメラを動かしているのに、そこだけドキュメンタリー・タッチだよね? あざといよね?
物語がシンプルすぎる。そして誰にでも身に覚えのある話すぎる。
あまりに捻(ひね)りが無い。
そりゃ、昔の彼女を思い出したり、町でバッタリ出会ったりなんて、誰にでもある話ですよ。
そりゃ、そん時は、何らかの感情が湧き上がってきますよ。
でもフィクションである映画の中で、その感情を原液のまま飲まされたからって、感動できるわけでもないでしょう。
第一、この二人の主人公、どっちもそれぞれ成功してるよね? 最初に設定された夢を二人とも実現してるよね?
女「私、ハリウッド女優になる」→OK!
男「本当のジャズを聞かせる、こだわりのジャズ・バーのオーナーになる」→OK!
どっちも、実現してるじゃん。
そりゃ「俺たち、これで良かったんだよな」っていう結論になるよ。
人生のホロ苦さを表現したかったのかもしれないけど、ホロ苦さってそういう事じゃないと思うんだけどなぁ。
要するに『予定調和』すぎるのかな。
作り手としては、
「これハリウッド映画ですよ? ミュージカルですよ? 客を気持ち良くさせてナンボでしょ? 予定調和で良いじゃん」
って事なのかもしれないけど。
でもそんな事ばかりしてると、サリエリ(=優秀な勉強家)に成ることは出来たとしても、いつまでたってもモーツァルト(=天才的な芸術家)には成れないと思うんだけどなぁ……クリエイターの人たち。
最後に、あえて火中の栗を拾います。
このラ・ラ・ランドについての感想ブログをいくつか読んでみましたが……
「演技はともかくとして……歌と踊りに関しては、ライアン・ゴズリングもエマ・ストーンも、どちらもそんなに上手くない」
と指摘している記事が無かったので、私が書いておきます。