今村昌弘「屍人荘の殺人」を読んだ。
東京創元社。kindle版。
ネタバレあり。
この記事にはネタバレが含まれています。
ネタバレ記事によくある「改行連打」を、あまり好きになれない。
インターネットには、いわゆる「ネタバレ感想小説ブログ」「ネタバレ感想映画ブログ」と言うものが
星の数ほどある。
タイトルや記事冒頭に「ネタバレ」の一語を入れるのは良いとして、そのネタバレ警告文の直下から、
いきなりネタバレ全開で記事を書いて良いものかどうか、と言うのは記者それぞれ頭を悩ますところだと思う。
つまり「この記事には、ネタバレが含まれます」の一文を書いたその次の行でいきなり「犯人は○○」 とネタバレ行を書いてしまうのは如何なものか、という話だ。
「ネタバレを含みます」と書いた直下に「犯人は○○」と書いてしまっては、その二つの行がブラウザの 同一画面に表示されてしまい、ネタバレされたくない読者の視界に嫌でも「犯人は○○」 と書かれた行が入ってしまうのではないか。
一部の「ネタバレ感想ブログ」では、以下のような感じで「ネタバレされたくない読者の視界」から、 その「ネタバレ文」を遠ざけている。
注意! 以下、ネタバレ!
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こんな感じだ。
しかし私は「こういう表現は、ちょっと無粋だなぁ」と思ってしまう。
HTMLタグを駆使してレイアウトされていた、1990年代インターネット黎明期の悪しき「ホームページ」カルチャーを 若干、引きずっているようにも思える。
そこで私は考えた。
ネタバレの本題に入る前に、ちょっとした小話というか、本題とはあまり関係のない話を書けば良いのでは ないか、と。
メインディッシュの前に前菜を食べてもらう、という感じだ。
今回は、これくらい「前菜の章」を書けば良いだろう。さて本題、「屍人荘の殺人」のネタバレ感想だ。
「屍人荘の殺人」にゾンビが出ると書くのは「ネタバレ」か?
ネット界隈では、この小説の感想文に「ゾンビ」という一語を入れるのはネタバレか? 否か?
という議論があるらしい。
しかし、ゾンビものに少しでも興味がある人ならタイトルの「屍人荘の殺人」でピンッと来るはずだ。
現に私も、この「屍人」というタイトルに惹かれてkindle版を買った。
amazonの商品紹介ページに書かれていた、
『このミステリーがすごい!2018年版』第1位
『週刊文春』ミステリーベスト第1位
『2018本格ミステリ・ベスト10』第1位
という煽り文句にも少しだけ興味を持ったという事もあるが……それはそれとして、ともかく「屍人荘〜」 というタイトルだ。
「死人」ではなく「屍人」、「死」ではなく「屍(しかばね)」という漢字をわざわざ当て字した場合、 それは「リビング・デッド」すなわち「生きている屍(しかばね=死体)」を表すというのは、 もはや日本のゾンビもの製作者と、その消費者であるゾンビ愛好家との間での共通認識になっていると思う。
だから、見る人が見れば、この「屍人荘の殺人」というタイトルは「ゾンビ荘の殺人」と読み替えられる。 直ぐにピンッと来る。
「ほほう……ゾンビものと推理小説の融合か」……と。
そもそも「ゾンビがペンションを取り囲む」というのは、本作においては開幕数十ページ で発生する「初期設定」であり「状況設定」だ。バラされたからといって物語への興味が削がれるような物ではない。
それにしても……いや、困ったな……俺もゾンビ小説書いている最中なんだが……
私も小説投稿サイト「小説家になろう」と「カクヨム」に、ゾンビ小説を投稿している。
「リビング・デッド、リビング・リビング・リビング」という題だ。
最近、更新が滞っていて読者の皆さんには大変申し訳なく思っているのだが、興味がある人は読んでみてほしい。
小説家になろう
https://ncode.syosetu.com/n7959df/
カクヨム
https://kakuyomu.jp/works/1177354054880790470
さて、この拙作「リビング・デッド、リビング・リビング・リビング」では、人々がいわゆる「ゾンビ」 のようになってしまう理由として未知の細菌あるいはウィルスが原因という説明を登場人物にさせているのだが、 その描写が、偶然にもこの「屍人荘の殺人」とやや似てしまっていた。
まあ、しょせんゾンビなんてジョージ・ロメロを親とする兄弟なんだから似ていて当たり前、むしろ似ていなかったら 不自然とさえ言えるのだが……
登場人物の名前がそのまま背格好や性格を表すというちょっとした「遊び」も含めて、 この三冠を達成した「屍人荘の殺人」と拙作が、偶然とはいえ「小説としてのキャラが若干被ってしまった」 のはマズいだろうか……拙作の設定や描写を変更すべきだろうか……うーん、悩む。
まずは何より、とにかく文体が読みやすい。
この小説の最大の美点は、実はこれに尽きると思う。
何しろスルスルと頭の中に入っていくる。
そう書くと、一部のライトノベルやウェブ小説のようなスカスカの文体を想像する人も居ると思うが、 そうではない。
ちゃんとした……いや、それどころか日本語として端正とさえ言える文章であり、同時に読みやすく、どんどんページを めくって行ける。
探偵役の少女がらみの描写は、ちょっと子供っぽい。
いわゆる「萌え」を意識した言動が目立つ。
ワトソン役である主人公の語り口も、この探偵役の少女が絡むと、途端に「天然ボケ少女に対して心の中でツッコミを入れる主人公」 といった感じの、ライトノベルっぽい、甘ったるいモノローグになってしまっている。
ひょっとしたら、こういう「ラノベ的」「萌え」要素はマーケティングとしては正しいのかもしれないが、 正直、私は感心しなかった。
「萌え」要素や「ラブコメ」要素それ自体を私は一概には否定しない。場合によっては、ちょっとした アクセントとして、物語に花を添えると思う。
しかし、事この「屍人荘の殺人」に関して言えば、ホラー映画に笑えないラブコメ・シーンが挿入されているようで、 興ざめだった。
そもそもミステリーというのは、その始まりからして「ラノベ」だった。
推理小説の主人公「名探偵」が、「過剰なまでのキャラ属性」を持った変人キャラクターとして登場するというのは、 実は19世紀からの伝統だ。
だから「屍人荘の殺人」の探偵がラノベのキャラっぽくても、その探偵と主人公がラブコメっぽいやりとり をしたとしても、それは仕方のない事なのかもしない。
私は筋金入りの「推理小説マニア」という訳では全くないが、それでも「本好き少年」だったオッサンの1人として、 10代の頃はシャーロック・ホームズ、エルキュール・ポワロ、ブラウン神父あたりを良く読んだ。
今でもブラウン神父は時々読み返す。
20世紀初頭のイギリス上流階級あるいはアッパーミドル階級特有の何とも言えないオシャレ感と
ブラウン神父の飄々としたキャラクターが合わさって、独特の雰囲気を醸している所が好きだ。
余談だが、少年時代の私が外国の小説をどう読んでいたかというと、一種の「異世界ファンタジー」として
読んでいたと思う。
シャーロック・ホームズなら19世紀霧の都ロンドン、ブラウン神父なら20世紀初頭のイギリス、
もう少し成長してから読み始めたハードボイルドなら、20世紀半ばのアメリカ……
もちろん書かれた当時の読者にとっては同時代の物語だ。
しかし私にとっては、行ったこともない時代、行ったこともない場所で繰り広げられる冒険活劇だった。
エキゾチックな「ファンタジー」だった。
あるいは「異国の時代劇」だった。
物語の主人公である探偵たちを、私は、ある種ファンタジーの住人として見ていたように思う。
しかし多感な少年時代に楽しんだシャーロック・ホームズの物語も、大人になり多少は分別がつくようになってから読み直すと、 正直、主人公ホームズの「あざといまでのキャラクター造形」が鼻につくばかりだった。
キザで、常に他人を小バカにして、超人的な推理力があり、格闘術を会得していて滅法つよい。
ラノベや、いわゆる「なろう小説」の主人公も真っ青な、まさに「俺TUEEE」(俺、強ぇぇぇ)と揶揄される ようなキャラクター設定だ。
そして気づいた。これは当時の人たちにとってのラノベなんだ、と。
- 19世紀イギリスにおいて急速に勃興しつつあった「大衆消費社会」の中で、シャーロック・ホームズが 消費者たちから絶大な支持を得ていた。
- 現代日本においてライトノベル「ソード・アート・オンライン」の主人公が大衆文化の消費者=オタクたちに支持されている。
この二つは、別の時代、別の国で起こった同じ現象だ。
つまり、初期の推理小説は19世紀イギリスの大衆に向けて書かれた「ライトノベル」だった、という訳だ。
「本格ミステリー」の意味
「本格」とは、「本来の格式(しきたり、礼儀作法)にのっとった」という意味の言葉だ。
第二次世界大戦以前の日本で活躍していた探偵小説作家たちが、自分たちの小説を「本格探偵小説」と呼んだのが
「本格ミステリー」という呼び名の始まりだ。
欧米の大衆エンターテイメント小説を咀嚼しきれいていなかった戦前の日本では、
ホラーもSFもみんな一緒くたに「探偵小説」というレッテルが貼られていた。
当時の探偵小説の作家たちは、自分たちが書いている(本来の意味での)探偵小説と、
ホラーやSFなどの周辺ジャンルとを区別する必要があった。
そこで生み出されたのが「本格探偵小説」という言葉だ。
だから、ホラーやSFなどのジャンル分けが一般に認知されている現代日本においては、もはや必要のない言葉のはずだ。 にも関わらず、今だに「本格ミステリー」という言葉は使われ続けている。
どういう意味として使われているかといえば……シャーロック・ホームズやエルキュール・ポワロが
活躍していた初期の伝統を守っている推理小説、という意味だ。
ハードボイルド、サスペンス、政治スリラー、ノワール小説など、比較的後発でありながら今や主流になってしまった
推理小説スタイルに対抗して、「古典推理小説の伝統的スタイルを守っていきましょう」という意味合いが強い。
早い話「19世紀末〜20世紀初頭に欧米の大衆に向けて書かれたライトノベル(のようなもの)」 だった初期の探偵小説スタイルを復古した小説群のことだ。
リアリティー・レベルという言葉がある。
映画や小説などでは「リアリティー・レベルを揃える」という言葉をよく使う。
人間は、どんなに荒唐無稽な話でも、語り手が前もって「これは荒唐無稽な話ですよ」と言ってくれさえすれば、 それを受け入れる。
「ここまでなら騙されてやろう」と思う。
スーパーマンが空を飛ぼうが機関車をなぎ倒そうが「これは、そういうお話=フィクションです」と前もって 言ってくれれば、それを受け入れる。
これを「リアリティーのレベルが揃っている」という。
しかし、例えば「これは現実にあった事件です」という触れ込みでアメリカと旧ソ連との息詰まる 諜報戦を描いた映画に……いきなり途中からアーノルド・シュワルツェネッガーが現れて、 機関銃を持った敵を素手でバッタバッタと薙ぎ倒し始めたら、どうだろうか。
観客は困惑し、
「だったら最初からアーノルド・シュワルツェネッガー主演の痛快娯楽作品って言ってくれよ。そしたら、
こっちもそのつもりで観たのに……」
と、思うのではないだろうか。
歌舞伎の世界では「黒子は見えない」ことにするのが観客のマナーだという。
物語の導入部で、作者がちゃんと「今回はこのリアリティー・レベル行きます」と宣言し、
読者がそれを共有してくれれば……そして作者が、最初に約束したリアリテー・レベルを最後まで守ってくれさえすれば、
リアリティー・レベルの高低それ自体は問題ではないということだ。
逆に、そこの部分の共有ができなければ、読者は「おいおい、そういう話だったのかよ……」と困惑してしまうだろう。
本格ミステリーは「一種のファンタジー」だ。
人間は誰しも平凡な日常から逃れたいと思っている。
宇宙を飛び回り、異星人をレーザー光線で倒したいと思っている。
異世界へ行って、悪い魔法使いを伝説の剣で斬り倒したりしたいと思っている。
だから、ファンタジーやSFを読む。
しかし、異世界や別の銀河のお話は、現実社会のルールや科学の法則に縛られず自由に想像力を発揮できる反面、 あまりに突飛すぎて「肌で感じるリアリティー」に乏しい。どこまで行っても絵空事で他人事だ。
だから我々は、さらに、こう思う。
「今、僕の住んでいるこの町に、僕らが知っている常識やルールに矛盾しない形で、リアルに感じられる『異世界』
が出現してくれないかな」と。
虫の良い話だが、その虫の良い話を書いちゃおうというのが「本格ミステリー」の本質だと思う。
- 悪い魔法使い(=犯人)が、魔法(=トリック)を使ってこの世界を瘴気漂う『異世界』に変えてしまう。
- その異世界に迷い込んだ主人公たちは、逃げ惑い、元の世界に帰ろうと必死に足掻く。
- しかし、1人また1人と悪い魔法使いの餌食になって殺される。
- そこに颯爽と1人の英雄(=名探偵)が現れ、伝説の剣(=超人的な推理力)で悪い魔法使いを倒す(=お前が犯人だ!)
- 英雄によって瘴気は払われ、世界は再び秩序を取り戻す。
上記のような「異世界ファンタジー」のプロットを、異世界に行かずに、この現実の世界で、現実世界のルールに矛盾しないように 書く。それが本格ミステリーというジャンルの本質だ。
リアリティーレベルの高い「現代日本の出来事(事件)」と、リアリティーレベルの低い「異世界ファンタジー」を 融合させようという試みだ。
しかし、それは、21世紀の現代においては、恐ろしく困難な試みだ。
19世紀のロンドンや20世紀初頭のアメリカ、あるいは終戦直後くらいまでの日本なら、
まだ社会も科学も充分に発達していなかったから、現実の社会にも「空想」の入り込む余地があった。
「現実」と「ファンタジー」の両立は可能だった。
しかし、21世紀は髪の毛一本から犯人のDNAを割り出せる時代であり、スマートフォン1丁あれば世界中の あらゆる場所の衛星写真を閲覧できる時代だ。
最初から最後までリアリティーのレベルを揃え、失笑を買わずに「名探偵」を活躍させることは相当難しい のではないだろうか。
一つの方法は、初期設定時に意図的に物語のリアリティー・レベルを下げ、あるいは後退させて 「今回は、この(低めの)レベルで行きますから。対応よろしくお願いします」と宣言してしまうことだろう。
例えば、江戸時代を舞台にしたミステリーにしたり、明治時代の話にしたり、大正、昭和初期、あるいは
終戦直後の混乱期の話にすれば、それだけで社会レベルおよび科学レベルを下げられる。
現実社会とファンタジーが共存する余地が増える。
この「屍人荘の殺人」には、大前提となる「ゾンビが跋扈する世界」という「大きな嘘」の他に、
しれっ、と本作のリアリティー・レベルを左右するセリフが挿入されていた。
物語の途中で、探偵役の美少女が「私、事件を引き寄せる体質なの」と主人公に言い、主人公も特に拘(こだわ)らずに
それを受け入れるくだりだ。
もし、本格ミステリーという物をあくまでリアリズムの小説と捉えるなら、これは看過できないオカルトめいたセリフだ。
これは、
「一部の設定のリアリティー・レベルを下げます。そこにツッコミを入れないでください」
という、作者から読者への宣言だ。
暗に「黒子は見なかったことにしてください」と言っている訳だ。
その目的は、おそらく「ダイハード問題」の回避だ。
つまり「ダイハード・シリーズの世界では、なぜ毎回毎回ブルース・ウィリスばかりが大変な目にあうのか」という、
シリーズ物のリアリティー・レベルに必ず付いて回る問題に対して、
あらかじめ「読者の皆さん、その部分のリアリティー・レベルは下げておいてください」と宣言しているわけだ。
ジャンルもののこれから
ディーン・R・クーンツというホラー作家が居る……少なくとも、かつては居た。
1990年代に日本でモダン・ホラー・ブームが起きた時、スティーブン・キングと並び称され、当時の日本で 次々に翻訳出版されていた。
結局、ブームが終わってみれば、アメリカのモダン・ホラー界で、継続的に翻訳出版されているのはキング唯1人で、 他の人たちは、生きているのか死んでいるのかも(少なくとも日本人の私にとっては)分からない状態になって しまっているが……
そのクーンツの著書に「ベストセラー小説の書き方」という1980年代に書かれた本がある。
うろ覚えだが、昔、その本を読んだとき、その中に以下のような一節があって驚いた。
「もはやSF、ミステリー、ホラーなどのジャンル小説は儲からない。ジャンル小説を書くべきではない。 私(クーンツ)もスティーブン・キングも、ジャンル小説は書いていない」
なんと、日本で「モダン・ホラー作家」として紹介されていたクーンツもキングも、(クーンツ自身の定義に従えば) ホラー作家ではないというのだ。
クーンツの「ベストセラー小説の書き方」を読んで随分経つが、今なら、私にも彼の言いたかった事が分かる。
「私(クーンツ)やキングが書いているのは、コアなホラー小説ではない。ホラー風味の総合エンターテイメント小説だ」
と言いたかったのだろう。
考えてみれば、人はSFだからSFを読むわけでもないし、ホラーだからホラーを観るわけでも無い。
大事なのは、その小説が面白いかどうか、感動できるかどうかだ。
ドストエフスキーの書いた小説が、SFなのかホラーなのか推理小説なのかなどという事は、
読者にとっては究極的にはどうでも良いことだ。
だとすれば、これからますますジャンルの境界は溶けて曖昧になり、全てのジャンル小説は「総合エンターテイメント小説」 を目指すだろう。
もちろん人は、日によって「今日は何となくラーメンが食べたい」「今日は寿司が食べたい」と思うように、
「何となく今日はSFが読みたい気分」「今日は本格ミステリーが読みたい気分」と思って書店の棚の間をさ迷うこともある。
また、書店によっては「SFコーナー」「ホラーコーナー」という棚わりにするかもしれないし、アマゾンのカテゴリーから、
「ミステリー」とか「SF」とかの名称が消えることも無いだろう。
しかし、それは便宜的なものに過ぎない。客の利便性を考えた「とりあえずのジャンル分け」に過ぎない。
ミステリーの棚に並んでいるのが「本格的なミステリー」なのか「ミステリー仕立てのヒューマン・ドラマ」 なのかは、読者にとってはどうでも良いことだ。
大事なのは、面白いのか、感動できるのか、だ。
「本格的なSF」「本格的なホラー」そして「本格的なミステリー」は衰退して行き、最終的には一部の好事家の ためのものになるだろう。
そしてジャンル同士の境界が無くなり「総合エンターテイメント小説」という大きな枠組みの中で 「SF風味」「ホラー風味」「ミステリー風味」および、それらのハイブリッドという形に変容していくだろう。
ゾンビ小説でもあり同時に推理小説でもある「屍人荘の殺人」が今年の「このミステリーがすごい」
1位に選ばれたということは、「このミステリーがすごい」というムックの内容も既に変容し始めているということだ。
辞書的な意味はともかく、このタイトルの実質的な意味は「この『総合エンターテイメント小説』がすごい」だ。
この傾向は今後ますます加速するだろう。
その波は、ライトノベルにもいずれ押し寄せる。
コアなライトノベルは減り、逆に他のジャンルがライトノベル的要素を取り入れる形で、
「ライトノベル的要素を持った総合エンターテイメント小説」が増えていく。
おそらく、ライトノベル業界最大手レーベル「電撃文庫」は、10年後には、
- 規模を縮小してコアなライトノベル・ファン向けの「本格ライトノベル」文庫になっているか
- ライトノベル要素も多少ある、総合エンターテインメント小説レーベルに生まれ変わっているか
の、どちらかになっているはずだ。
最後に「屍人荘の殺人」の感想まとめ
「屍人荘の殺人」の感想にかこつけて、ジャンル小説の今後に関する私の意見を披露してしまった。
最後に、記事のタイトル通り「屍人荘の殺人」の感想を書く。
文章が素晴らしい。
前述した通り、頭の中にスルスルと入っていく読みやすい文章であり、また同時に、端正な文章だ。
ゾンビ現象が発生してから籠城するまでの手際が良い。
肝試しからゾンビ出現→籠城までの手際も良いし、ゾンビ・オタクが解説するシーンまでの手際も良い。
名探偵の萌えキャラ設定と、主人公とのラブコメ描写は、ちょっと困る。
少年時代にはカッコ良いと思っていたシャーロック・ホームズを大人になって読み返して「あざとい」 と感じてしまった私としては、本作の探偵少女の萌えキャラ設定と、彼女と主人公とのラブコメ的会話 (および主人公のラブコメ的モノローグ)には、ちょっと辟易してしまった。
19世紀のライトノベル「シャーロック・ホームズ」の末裔としては、それが正解だったのかもしれないが……
「推理小説」の部分には全く興味が持てなかった。
この小説を一言で表すとすれば「ゾンビ小説+(本格)推理小説のハイブリッド」という事になるだろう。
ゾンビ小説としての部分に関しては、手際よくスピーディーに展開していて素晴らしいと思った。
しかし「推理小説」の部分には全く興味が持てなかった。
そもそも私は、「犯人VS探偵」あるいは「作者VS読者」の知的ゲームとしての推理小説に何の興味もない。 どれだけ精密なトリックを披露してもらったところで「ああ、そうですか」としか言いようが無い。
本作の3つの殺人の中で、第2の殺人における「エレベーターの重量オーバーを利用したゾンビの排除」 には少しだけ感心したが、それだけだ。
前述した通り、推理小説における「犯人」と「探偵」の機能は、「読者への挑戦」に象徴されるような、 なぞなぞ知的ゲームの提供ではない。
「犯人」の物語上の機能は、悪い魔法使いとして世界に邪悪な魔法をかけ、登場人物たちを異次元空間に閉じ込める事であり、
「探偵」の物語上の機能は、正義の騎士として「天才的な推理力」という伝家の宝刀で邪悪な異空間を切り裂き、
犯人によって裏返されてしまった世界の秩序を再度裏返して元に戻し、囚われていた人々を解放する事だ。
別の言い方をすれば、ある共同体の中で徐々に蓄積されていた「穢れ」がついに限界点に達した時、 「連続殺人事件」という名の「祭り」が始まるというのが推理小説の本質だ。
そして、祭りの陰の主役である鬼(=犯人)は、祭りがクライマックスに達した直後、共同体の外からやって来た 異人(まれびと)で神の使いでもある英雄(=名探偵)によって裁きを受け、鬼の面を剥がされ素顔を晒し、 最後に自らが生贄となって祭りを終わらせ、共同体に再び秩序と安定が戻ってくる……というのが推理小説の本質だ。
ところが本作において人々を「異世界」に閉じ込めたのは「ゾンビ」であり、犯人は孤立した 空間の中で淡々と3つの殺人を犯し、探偵役の少女は、それを淡々と暴いただけだ。
共同体(=大学映画研究会)に蓄積されていた「穢れ」は、その内容の深刻さはともかく、描写は淡白で
事務的だ。だから読者は、犯人に対してプラス方向にもマイナス方向にも感情移入できず、
「鬼」としての迫力を感じることができない。
この犯人には、一時的に世界を変質させ、人々を悪しき空間の虜にするだけの「呪力」がない。
怨念が足りない。いや……あるのかもしれないが、この小説からは伝わってこない。
犯人の代わりに世界を異空間にしているのは、周囲をうろつくゾンビどもだ。
最後に犯人が自決しても、別にそれが「世界の秩序の回復」を意味するわけでもない。
だからカタルシスが無い。
そもそもこの犯人は、世界の秩序を変容させこの世ならぬ異空間を作り上げるだけの強い怨念や執念を最初から持っていない。
ただ、ゾンビが作り上げてくれた異空間に乗っかり、それを利用しただけだ。
単に、救助のヘリが来ました、僕たちは助かりました、というだけのエンディングだ。
世界はゾンビによって変容し、自衛隊のヘリによって回復した……って、それじゃあ犯人も探偵も、犯人が犯した3つ(実際は2つ)の殺人も、 物語への貢献度があまりに低すぎる。
「物理的な隔離」は、「異空間の完成」ではない。
山荘に泊まったら嵐が来て閉じ込められたり、絶海の孤島に行ったら台風が来て帰れなくなったり、あるいはアルプスの山の中で豪華列車が立ち往生したり……
そういう、アガサ・クリスティ時代の推理小説にしばしば見られる「外の世界からの隔離」は、あくまで舞台設定であり初期設定だ。
せいぜい下地作り……やっと基礎工事が終わった程度のものだ。
ゾンビに基礎工事をさせて、そこで満足してはいけない。
その基礎工事の上に、どれほど強い呪いの力で、どれほど禍々しい異空間を建築してみせるか……(妙な言い方だが)それこそが、犯人の「腕の見せ所」というものだろう。
最後に一言。
なんだかんだ言って、一気読みしたのは事実です。