映画「聲の形」について。(ネタバレ)
注意。ネタバレあり。
未見の人は注意してください。
本作品に対する批判について。
曰く「聴覚障碍者のヒロインが、まるで聖人のように描かれているのは、おかしい。これは『聖母のように清らかな心の障碍者ヒロイン出しときゃ、みんな感動するだろ』っていう感動ポルノではないのか」
この映画の感想が書かれた記事をインターネットで検索すると、時々、このような批判的な記事やコメントを見かけることがある。
ある芸術作品を鑑賞して何を思い、どう評価するかは鑑賞した者の自由なので、それ自体にどうこう言うつもりはない。
……が、上に記したような感想を持った人は、この物語を読み違えているような気がする。
少なくとも、私の解釈とは違う。
その辺を解説していきたい。
本題に入る前に、アニメーション映画「聲の形」に対する私の評価を書く。
今から、ほぼ一年前に劇場で見た。
どの劇場で見たかは忘れてしまったが、劇場公開時に、どこかのシネマ・コンプレックスで見た。
私は原作漫画を読んでいない。
だから、アニメーション映画「聲の形」に対する評価は、純粋に映画としての評価のみということになる。
良い作品だとは思ったが、しかし、飛び抜けて素晴らしいという感じはしなかった。
悪くない映画だとは思ったが、ちょっと話運びが「ぎこちない」と感じた。
その「ぎこちない感じ」の原因が何によるものかは分からなかったが、何かギリギリのところで、ちょっとだけスムースさを欠いた話運びだなと思った。
本題。この物語のヒロインのキャラクターについて。
「まるで聖女のような非現実的な障碍者を登場させて安易な感動を買おうという、いわゆる『感動ポルノ』ではないのか」
と思っている人は、私とは、根本的な部分でヒロインの解釈が違っている。
この映画のヒロイン設定は「女神様」設定じゃないだろ。「うざい女」設定だろ。
つまり自殺願望も含めて、思春期特有の面倒臭さ全開の「面倒臭い女」だろ。
そう解釈しないと、後半に飛び降り自殺しそうになったことも含めて、物語の整合性が取れない。
このヒロインは、いわゆる「中二病」的な思春期特有の精神状態をこじらせてしまった結果、好きな彼氏とのコミュニケーションも上手く出来ず、相手の都合も考えずに自分の殻に閉じこもってみたり、そうかと思うと、ぐいぐい相手に近づいてみたりする「うざい女」だ。
「聖女」なんかじゃない。
そう解釈しないと、この物語は成立しない。
(まあ、歴史上の実在の聖女、聖人、英雄などという人たちも、実は、今風に言えば中二病をこじらせたまま大人になった人たちなのかもしれない……という逆説は有りうるが……それはこの記事の主旨ではない)
この物語のメイン・テーマ
思春期の精神状態をこじらせて周囲の人間とのコミュニケーションがうまく取れなくなってしまった『面倒くさい性格の少年』
……と、
同じく、思春期の精神状態をこじらせて周囲の人間とのコミュニケーションがうまく取れなくなってしまった『面倒くさい性格の少女』
が……、
ひょんな事から再会し、大した理由もなく恋に落ち、その「大した理由もない思春期の恋」を取っ掛かりにして、お互いに理解し合おうとし、ひいては周囲の人々と理解し合おうとし、ひいては社会の中で他人とコミュニケーションを取りながら生きていこうと努力する……というのが、この物語の骨子だろう。
ちなみに、思春期の恋には大した理由は無い。
しいて理由をあげれば、第二次性徴期の異常なホルモン分泌量か……
大人の恋には、ちゃんと理由がある。おっぱいとか、おっぱいとか、おっぱいとか、尻の形とか。
女だったら、男の年収とか、男の年収とか、男の年収とか、男のちんこの長さとか。
この主人公カップルも、やがて大人になり、それぞれ別々の道を歩み、そこで人生を共にすべき「別の相手」と出会う事になるのかもしれない。
あるいは、このまま大人になってそのままゴールインするかもしれない。
いずれにしろ、思春期の大した理由もない恋であっても、それをきっかけに社会と少しずつ向き合っていこうと努力するなら、それはそれで尊重されるべき彼ら自身の判断だ。
……話が逸れた。元に戻す……
一部の批判者がいう「ヒロイン=聖女のような清らかな性格の障碍者」設定では、この物語は成立しない。
少女が「女神さま」として設定されていると言う解釈では、主人公の「思春期をこじらせちゃった面倒臭い少年」が、一生懸命に他人との関わりを取り戻そうとするモチベーションが発生しない。
物語として成立しない。
後半でヒロインが自殺すると言う展開の辻褄(つじつま)が合わない。
ヒロインと主人公の両方ともが、同じように、他人との距離感が測れず、コミュニケーションが上手く取れず、「自分なんか生きている価値のない人間なんだ」と言う気持ちを潜在的に常に持ってるからこそ、この二人は、きれいな対称になるわけだし、同じく「中二病」をこじらせて不登校になっていた男装の妹が、主人公とヒロインが分かり合えそうなのを見て自分も復学すると言うサブストーリーとの対称も成立すると言うものだ。
繰り返して書くが、
この物語は「女神様のような清らかな心のヒロイン」と言う設定では成立しない。
「他人との距離を上手く測れない、コミュニケーション下手の、しかも自殺願望のある面倒くさい女」と言う設定じゃないと、そもそも物語として成立しない。
ヒロインがコミュニーケーション下手であることと、彼女が聴覚障碍者であることとは関係ない。
……いや、関係が無いと言い切ってしまっては、行き過ぎか。
ひょっとしたら、ヒロインのコミュニケーション下手や自殺願望と、彼女の持つ障碍とは間接的には関係があるのかもしれないし、無いかもしれない。
しかし、そんなことはこの物語の本質ではない。
本作品のメイン・テーマは
「子供から大人への成長過程にある思春期の少年たちがコミュニケーション能力(=社会性)を獲得しようと藻掻(もが)く」
という事だろう。
聴覚障碍者というヒロイン設定について。
確かに「あざとい感じ」が全く無いっちゃ、嘘になる。
ヒロインの障碍者設定だけでなく、この物語の登場人物全体の設定(例えば性格とか家庭環境とか)には、正直、「あざとさ」が有るわな。
ヒロインが聴覚障碍者というのは、話の本筋とはあまり関係のない設定なわけだが、ヒロインが聴覚障碍者として設定されている事で、「思春期の少年少女が社会性(=コミュニケーション能力)を獲得しようと努力する物語」という作品のテーマが際立つ……と、そういう作劇上の〈機能〉は有るのかもしれない。
「障碍者」という属性を、物語に抑揚をつけるための「小道具」として使っているわけだ。
でもそれは、例えば「座頭市」なんかも同じでしょ。
座頭市が視覚障碍者であるという設定は、主に殺陣に独自性を出すためのものであって、作品のテーマとは何の関係も無い。
そして、座頭市が「視覚障碍者感動ポルノ」だなどという話は聞いたことがない。
それと同じレベルで、この物語のヒロインが聴覚障碍者であるという事と、この作品のテーマとはあまり関係がない。
だから例えば、このヒロインが聴覚障碍者ではなく「眼鏡っ娘のコンビニバイト店員」だとしても物語は成立する。
逆に言えば「ヒロインは眼鏡っ娘のコンビニバイト店員」という設定が許されるなら、同じレベルで「ヒロインは聴覚障害者」という設定でも別に構わないだろ、という事だ。
「眼鏡っ娘のコンビニバイト店員」の物語だとしても、ことさら「眼鏡っ娘ポルノ」「コンビニバイト店員ポルノ」と言って騒ぎ立てる必要が無いのと同じように、聴覚障碍者というヒロイン属性だからと言って特別騒ぎ立てる必要も無い。
若者が必死で社会と自分の関係を築こうとする姿を、大人は無下に否定するべきでは無い。
特に、20世紀末……1970年代〜90年代初めに青春時代を送ったオジさんオバさんたちは、この物語の主要登場人物である少年少女たちに向かって、こう言いたいかもしれない。
「社会に迎合なんかするな! 引きこもりだろうが、コミュニケーション能力不足だろうが、中二病だろうが、それも立派なお前の性格だ。それを無理して矯正して、社会に合わせる必要なんかない! 自分に誇りを持て! ありのままの自分をつらぬけ!」
しかし、中二病をこじらせてしまった少年少女たちが、そこから脱して社会性を獲得しようと決心したのなら、それはそれで尊重すべき彼ら自身の、彼ら独自の、立派な意志であり選択だ。
(追記)大人の役割
私は、この記事を「大人は子供たちが社会性を獲得しようとする努力を暖かく見守るべきだ」という一文で締めくくろうと思ったのだが、それも何か違うような気がするので、書き直すことにした。
この物語が「少年たちが徐々に社会性を獲得して自ら大人になろうとする物語」だとしたら、やはり大人の役割は重要だろう。
大人とは、つまり親、教師、地域社会の大人たちだ。
少年たちの最終目的が、「大人社会」という名のプロリーグでそれぞれの居場所を見つける事だとすれば、やはり小学校リーグ、中学校リーグ、高校リーグそれぞれの段階でのコーチ(=大人たち)の役割は重要だ。
少年リーグでのコーチングで重要な事は、
- まずは安全性の確保が第一だ。危険なプレイをしないようコーチングし、彼らが安全圏を逸脱しないか常に監視の目を光らせ、彼らが危険なプレイをしようとしたら直ぐに強制的に介入して怪我を未然に防ぐ。
- ゲームの(ルールブックに明記された)ルールと、マナー(不文律)を教える。
- 基礎的なテクニックを習得させる。
- 子供それぞれの特性にあったプレイスタイルとポジションを探し、探させる。
という事だ。
この物語は、前半が小学校時代、後半が高校時代な訳だが、高校時代というのは、例えば3年生にもなれば一部の学生には選挙権が与えられる年齢で、もうほとんどプロリーグ・デビューが目前に迫っている時期だ。
自動車教習で言えば路上実習が始まっていて然るべきで、この時点で実社会で必要な社会性の八割くらいは持っていてるのが好ましい。
じゃあ何で、主人公たちが高校生にもなって「ボールのパス回し」程度の基礎的な能力獲得に四苦八苦しなければいけないかと言えば、物語の前半部、小学校時代に怪我をした・させてしまったからだ。
これは大人たちが未然に察知し、強制的に介入して防ぐべき事案だったはずで、それをしなかったのは大人たちの怠慢であり、コーチングの失敗だ。
そう言えばこの物語では、小学校教師がこれ以上無いっていうくらいに卑怯な悪者として描かれていたな。
これは教師個人個人の質の問題であると同時に、地域の教育委員会、都道府県の教育委員会、さらには文部科学省つまり国の統治能力の問題であろう。
これ以上は「大人の組織論」の話になってしまって、この映画のテーマから逸脱してしまうので、また別の機会に書きたいと思う。