映画「映画「第三の男」の感想
ネタバレ注意!
私が以前書いた以下のURLから転記した。 http://aobadai-akira.hatenablog.com/entry/2015/09/23/080856 http://aobadai-akira-2.hatenablog.com/entry/2015/09/23/080439
感想
だいぶ前に買って、棚に積みっぱなしだったのを、引っぱり出してみた。 古典的名作と言われていたが、今まで観たことが無く、これが初見だった。 結論から言うと、面白かった。
オーソン・ウェルズが、いたずら少年がそのまま大人になったような顔でニヤッと笑うシーンは、今見てもワクワクする感じがある。
オーソン・ウェルズというと、かなり昔に観た「市民ケーン」の「貧しい少年が大富豪になる一代記」という大河ドラマ的な話のウロ覚えのイメージしかなかったから、重厚な役柄が得意な俳優だとばかり思っていた。 オープニングの年老いたイメージが強烈だったし。でも、あれ、よく考えたら特殊メイクか。 ウィキペディアで調べたら「市民ケーン」を撮った時は、オーソン・ウェルズは若干25才だったそうだ。それで製作・脚本・主演。すごいな。
「市民ケーンは」さておき「第三の男」
ケーンに比べると、かなり軽妙な感じ。チターとかいう弦楽器の、あの有名なオープニング曲も軽やかだ。
オープニングでは、そのチターの、狭い間隔で平行に何本も張られた弦のドアップが、曲に合わせて震える。 その平行に張られた弦をノートの罫線に見立てて、スタッフ名が表示されるという、おしゃれな演出。ヒッチコックの「サイコ」のあの有名なオープニングをちょっと思い出した。ただし、サイコの凝りに凝った動きよりは、ずいぶんシンプルというか素朴な感じだ。
そのオープニングが終わると、第二次世界大戦終戦直後のウィーンの説明が入る。 アメリカ、イギリス、フランス、ロシアが分割占領していたそうだ。街は荒廃し、闇市が栄えたというから、かつての東京のような感じか。……もう、この時点で日本人としては身に積まされる。 かつてヨーロッパの文化の中心として栄えた都市が、敗戦とともに戦勝国たちに分割統治される。治安を守る警察官も、戦いに勝った外国人たち。 焼野原というほどには荒廃してはいないけれど、町のあちこちに破壊された建物とガレキの山。 不法移民のヒロインが住んでいるアパートも、かつては、かなり荘厳な建物だったようだが、今は一部が破壊されている。 そのヒロインの部屋に、外国の軍警察の男たちがズカズカ入って家探しする。 大家の婆さんが「この家は、かつて王子様や偉い政治家も泊ったのよ」みたいなことをわめくけど、軍警察の外国人は全然聞いていない。 そこでヒロインが、アメリカ人の主人公に、「大家さんにタバコをあげて。そしたら喜んで、怒りも収まるから」みたいなことを言う。つまり「豊富な物資を持っている豊かな占領国であるアメリカと、占領下にある貧しいオーストリア」という構図。
「かつては栄華を極めた文化都市も、戦車に破壊され、戦争が終わったら他国の軍隊に占領されてて、なんか、もう、おしまいだよね。 戦争に勝ったアメリカ人は偉そうに街を占領しているし、物資もアメリカ人だけは、いっぱい持っている」こういう情けない感覚が話全体に充満していて切なくなる。
この終戦直後独特の荒廃した空気感の中で、話は進んでいく。
この映画を観てから、ネットで映画の感想を色々読んでみたけど、 「サスペンスにしては展開が緩いし、ミステリーとしてのヒネリもイマイチだし、チターの陽気なBGMが鳴ると、緊張感が無くなってしまう」 みたいな評価を時々目にした。
チターのいかにも陽気な音色は、確かにサスペンス映画としては場違いに思える。 ただ、「戦争で建物を壊され、戦後は勝った国々によって分割統治されているヨーロッパの古い街の物語」という、ともすれば暗くなりがちな設定に対して、明るいチターのメロディが中和剤の役割を果たしているのではないだろうか。
チターは地元オーストリアの楽器という事で、アメリカの観客をウィーンに行ったような気分にさせる役割もあったのだろう。昔の映画には「観客に疑似観光旅行をさせる」という作用も期待されていたから。
また、そもそも、これはサスペンス映画なのだろうかといえば、私は違うと思う。
物語の前半部は、事故にあったハリーの体を路肩まで運んだ人間は何人だったかという謎解きを中心に話が進む。 ある証言者は「ハリーの体を運んだのは三人だ」と言い、実際にハリーの体を運んだ者たちは「ハリーの体を運んだのは私たち二人だけだった」という。 じゃあ、その三人目の男は一体誰なんだ? というこの「三人目の男」というのが映画のタイトルでもある。
しかし、その「第三の男」探しは物語の前半だけで、後半は別のテーマが物語を駆動する。そして、この後半部こそが、この映画の本当の見どころであると私は思う。
だから、この映画は一種の「看板に偽りあり」な映画であり、「謎の『第三の男』を探すサスペンス映画」としてこの映画をとらえるのは、ちょっと違うんじゃないかと思う。
サスペンスとかミステリーとしてのオチとかとは別の所に、この映画の本質があるような気がする。
感想(ネタバレ)
「第三の男」は、一応「サスペンス映画」の古典とされている。 しかし、本当に「第三の男」はサスペンス映画だったのだろうか? サスペンス映画だとすると、現代の感覚からすると、ちょっと展開がカッタルイ。 盛り上がるシーンになると必ず挿入される「陽気ではあるけれど気の抜けた」チターの音色は、かえって興ざめではないだろうか。
そもそも、この映画がタイトルにもある「第三の男」の謎をめぐる物語だとすると、現代のミステリーを読み慣れ人々にとって、これが「身代わり殺人」であることは、かなり早い段階で気づく程度のやさしいトリックだし、そもそも、そのトリックは、全体の三分の二ほど話が進んだ段階で早々と「第三の男は、実は、死んだと思われていたハリー自身でした。殺されたのは本当は、軍看護師のジョセフ・ルービンでした」と明かされてしまう。
そして、その時点から、映画は「第三の男とは誰なのか」という謎解きのストーリーから、ハリーという人物に対し、周囲の人々がどういう態度をとるかという物語に変化する。
私個人の感想としては前半部の、第三の男とは誰なのかというミステリーの物語部分より、第三の男の正体がハリーだったと明かされた後の後半部分の方が物語としての緊張感は上だと思う。
映画の中で、ハリーは、中学生で既にトランプのイカサマをやっていたような早熟なイタズラっ子として説明される。そして現在、闇取引や殺人にかかわり、偽装殺人を企てて恋人のアンナを捨てたと分かった後でも、アンナは、イタズラっ子がそのまま大人になったようなハリーの事を、憎むことが出来ない。
それは、主人公のホリーも同じだ。自分自身の安全のために、身代わりとして他人を殺し行方をくらましたハリーを、道徳的な意味でホリーは許すことが出来ない。しかし、一方で親友であるハリーを裏切って警察に協力することもできない。その間でホリーの決意は二転三転する。
ここで物語の核となるのは、ハリー自身のキャラクター設定だ。 ハリーはこの映画において「英雄的な人物」として描かれている。「神話的な人物」といっても良い。 ここで言う「英雄的な人物」というのは、人類の進歩に大きな業績を残した人とか、そういう、良い意味だけでなく、良い意味でも悪い意味でも平凡な人間の領域外にいる人物という意味だ。 多くの人間は良かれ悪しかれ、ある「枠組み」の中で生きている。 しかし、その「枠組み」の外で生きる事を運命づけられた人間も少数だが存在する。
日本人になじみの深い歴史上の人物に例えると「織田信長」とか、そういう人物の事だ。
ある時は、多くの人間がとらわれていた既成概念を打ち破った素晴らしい人物。 ある時は、自分の利益のために他人の権利を侵害して、何とも思わない人物。 それでいて、周囲の人間を魅了してやまない天性の魅力あふれる人物。 こういう多様な要素を全て内包した、良かれ悪しかれ平均的な人間とは著しくかけ離れた存在。
ハリーという、もの凄い悪人であり、同時に、人間的魅力に溢れる人物に出会ったとき、平々凡々な周囲の人間は、一体どう行動すれば良いのか。 彼を愛せばいいのか憎めばいいのか?
ハリーという「もの凄い悪人でありながら、同時に、もの凄く魅力的な人物」に出会ってしまった人間たちの迷いと決意こそが、この物語の真のサスペンスなんだと思う。
ハリーが最初に画面に現れた時の、あのニヤリッという笑み。人間一人を殺しておきながら、まるで、先生に見つけられたイタズラっ子のような魅力的な笑みを浮かべるというのは、彼のキャラクターを見事に表した、この映画のハイライトだったと思う。
あれほど魅力的な「悪人の微笑み」を見事に演じたオーソン・ウェルズ恐るべし。