エルフ、魔力を使って怪物と闘い、怪物、毒を使ってエルフと闘う。(前編)
1、スュン
潜冥蠍 が少年を喰らう少し前、その場所から丘を二つ越えた森の中。
小さな泉のほとりにある平らな岩の上に、二人のダーク・エルフが座っていた。
「エリク、一人で大丈夫かな?」
スュンが呟 いた。
「心配か?」
ヴェルクゴンが聞き返す。
「まあ、ね。責任もあるし」
「ゼンキの谷じゃあるまいし、この辺りに危険なんて全く無いさ。ああ、そうか……スュンは〈こども〉を持つのは初めてだったな」
ダーク・エルフの少女が頷 く。
ヴェルクゴンが言葉を続けた。
「少し気負い過ぎだな。もうちょっと楽になったほうがいいぞ。……しかし、まあ、な。私もスュンくらいの年齢 に最初の〈こども〉を持ったときは、いちいち、そいつの言動にハラハラさせられたものだ。もう百年近く前の話だが……子供なんて適当に相手をして適当に放っておけば勝手に育っていくものだと、そのうち達観するよ」
「でも、命の危険が無くても、たとえば毒性のある木の実を食べたりしたら?」
「ふふん、そりゃあ、良い。いまごろエリクのやつ、腹を抱えてのたうち回っているかもな。……心配するな。あれくらいの年頃は、多少、冒険をして痛い目にあうのも良い薬なんだ。幼い頃の私が、そうだったよ。それも百年以上まえの話だがな。それに私は『毒消し』の魔法も少しは心得ている……素人に毛の生えた程度だが、腹痛 くらいは何とかするさ」
「へええ……ヴェルクゴンは、治癒魔法も使えるのか。何でも出来るんだな」
「何でも出来るが、何でも中途半端ってやつだ。毒消しの魔法なんて『出来る』部類には入らんよ。せいぜい『出来なくはない』といったところだ。……スュン、お前はどうなんだ? 最近まで魔法剣士の下で育っていたそうだが、やっぱり、攻撃魔法一辺倒か?」
「だいたい、そんなところだ。刀傷を負った時の『止血』の魔法と『痛み止め』くらいは教わったけど」
「お互い、治癒系の魔法は『らしくない』って所か。……治癒魔法って言えば……スュン、おまえ、子供の頃『なんで治癒魔法は自分自身に効かないのだろう?』って思ったことはないか?」
「さあ? 考えたこともない」
「防御魔法や浮遊魔法は自分自身に作用するのにな。なぜか治癒魔法は他人にしか効果が無い」
「良く分からないけれど、体の外側に作用する魔法と内側に作用する魔法では、原理が違うんじゃない?」
「へええ。面白い仮説だな。今度、長老会で発表してみろよ」
「それは、無い無い」
そこで、スュンが大きくため息を吐 いた。
「らしくない、って言えば……私、〈こども〉を持つのに向いてないのかも。ここだけの話だけど、私、エリクのことを心の底から思いやることができない。……やっぱり、今まで魔法剣士の修行に明け暮れてばかりで、他のエルフとあんまり付き合ってこなかったからかな? 同胞を思いやる気持ちが薄いというか」
そんなスュンの様子を見て、ヴェルクゴンは『やれやれ』という風な顔を作った。
「なんだ? こりゃ重症だな。そんなに思い詰めるなと言っているだろう。エリクの年齢 を考えてみろ。奴は十三才だ。すでに半分大人と言っても良い。あと三年もすればお前の身長を抜くぞ。……いきなり、そんな相手が家族として自分の所にやって来たんだ。思いやりの気持ちが湧 かなくて当然だ。……ただ『責任』を淡々とこなせば良いだけの話さ。……それに、あのエリクという少年、どこか精神的にいびつというか、近くにいて嫌悪感をいだかせるものがある。正直、私も好きになれないよ」
2、エルフと家族
……エルフにとって「家族」という概念は、人間とは全く違うものとしてあった。
エルフは、人間のように男女の性行為によって子供を作るわけではなかった。
生物学的には、そのようにして子供を産むことは可能だったが、一般のエルフが自然の行為によって勝手に子供を作ることは、固く禁じられていた。
それは、共同体の長老たちだけが知る「秘儀」によって生産されるべきものだった。
長老たちの手で人工的に「生まれた」エルフの子は、男女一組の成熟した大人のエルフに預けられ、教育を任される。
育て役の男女のエルフ、預けられる子供、この三者の組み合わせも長老たちが決め、平均五年おきにシャッフルされる。
組み合わせは、無作為 のように思われた。そこに何か意味があったとしても、それが長老以外に知らされることはない。
指名された大人のエルフは、共同体に所属するものの義務として、これを拒否できない。
スュンは、去年まで〈こども〉の立場で、ある魔法剣士の男女の下 で育った。
十七才になって、エルフの成人としての権利と義務を与えられ、今回初めて、ヴェルクゴンと組んで教育する立場になった。
教育を任された大人の男女のエルフと教育される側の未成熟なエルフ、この三人一組は便宜上〈家族〉と称され、大人のエルフは未成熟エルフを〈こども〉と呼び、〈こども〉のエルフは大人のエルフを〈おや〉と呼んだ。また大人同士の男女は互いを〈いとこ〉と呼び合う。
しかし、これらは、あくまで便宜上の呼び名であり、エルフ達の間に人間が言うような「家族愛」が存在するわけでは無かった。
あるのは、共同体に対する義務感だけだ。
そもそも、エルフの社会では、感情は卑 しい心の表れであり、まして人間が持つような男女の愛情や家族愛などというものは、不道徳で忌 み嫌うべきものだった。
「エルフたるもの常に感情を抑え、理性的、論理的に行動し、ただ共同体への奉仕と責任のみを行動原理とせよ」と、長老達は若いエルフに強要していた。
それでも子供のうちは、エルフといえども本能のまま自分勝手に行動しがちだ。それを抑えるのも大人のエルフ……〈おや〉の役目だった。
そういう意味では、心配すぎる自分もどうかと思うが、逆にヴェルクゴンは放任過ぎる、とスュンは思った。
「それに、な」
ヴェルクゴンが言いながら、懐から青い石の玉を取り出す。
「これと一対の魔法石の首飾りをエリクに着けさせてある。エリクの身に危険があれば、それを察知して、これが赤色に変色……」
言っている間に、手のひらに載せた青い石が、みるみる紫、赤へと変色していった。
ヴェルクゴンとスュン、二人の〈おや〉の顔に緊張が走った。
「ヴェルクゴン!」
厳しい目つきでスュンが相手の顔を見る。
「ああ。方角は分かっている。急ごう。『空中浮遊』は使えるか?」
「当然だ」
言うなり、スュンは空へ飛んだ。
3、潜冥蠍
潜冥蠍 は、しばし恍惚 となって頭を空へ向けた。
久しぶりの「耳の大きな毛の無い猿」……エルフの味。
しびれる程に、旨かった。
前回「耳の大きな毛の無い猿」……エルフを喰らったのは、いつだったか。
だいぶ昔の事だ。
そのときも旨いと思ったはずだが、これほどだったか?
前回、喰らったのは確か大人のエルフだった。
ひょっとしたら、未成熟な子供のエルフだったから、これほどまでに旨かったのか?
確かに、エルフは危険な存在だ。
この森で、唯一自分の命を奪える種族と言っても良い。
しかし、これほど旨いのなら、もう一度、いや何度でも自分の身を危険にさらしても良いと、潜冥蠍 は思った。
首を下に向ける。
死体から血の匂いが立ち昇って、嗅覚をくすぐる。
少年のエルフ……エリクの抜け殻が、仰向けに横たわっている。
全身に細かい傷があり、服に血が滲 んでいるが、どれも致命傷というには程遠い。
安らかに眠っているようだ。
……異様に歪 んだ顔さえ見なければ。
カッと開いた目蓋 。
その開かれた両方の眼窩 の奥に、ふにゃふにゃと萎 れたように収まっている眼球の成れの果て。
滑稽 でもありグロテスクでもある。
潜冥蠍 の食性は脳髄専門だ。
肉に、用はない。
背骨に沿って骨髄を吸い取った今、もはや、この少年に価値は無かった。
……と、その時。
潜冥蠍 の聴覚が、空を裂いてこちらに向かってくる何者かの飛行音を捕らえた。
音の出所 は、二つ。
鳥か?
屍食 性の大型猛禽類が、エルフの放つ血の匂いをかぎつけて、早々と飛んできたのか。
……いや……違う。
何だ?
潜冥蠍 には、目が……視覚が無い。
周辺の状況は全て、音と匂い、それに捕食脚の触覚で知る。
潜冥蠍 は、エルフが空を飛ぶ音を聞いたことが無かった。
知っていれば、すぐにでも境界面に逃げ込んだだろう。
近づいてくる……
もうすぐ、頭上だ。
頭部を空に向ける。
梢 の先に、その音源が現れた瞬間、潜冥蠍 が、空に向けて探索の一声 を放つ。
……「毛の無い猿」……エルフだ!
オスとメス、二匹のエルフが頭上に浮いている。
メスの方は、右手に金属の棒状のものを持っていた。
「エリク!」
若いメスのエルフが叫んだ。
「近づくな」
年長のオスが言った。
「奴は爪の先から猛毒を放つ。ここから遠距離攻撃を仕掛けよう」
「でも、エリクが!」
「もう手遅れだ」
潜冥蠍 には、エルフ達の発する音声の意味は分からなかったが、どうやら状況が刻々と自分に不利なほうへ向かっていることだけは理解できた。
メスのエルフがこちらに突っ込んでくる。
「待て! 言うことを聞け!」
オスのエルフがメスに向かって叫ぶ。
後ずさりしつつ潜冥蠍 は尻尾の先端に意識を向けた。
背後に空間境界面を発生させる。
後ろへ下がりながら、その中に逃げ込もうとした。
……その時……
メスのエルフが地面に降り立った。潜冥蠍 が喰らった子供のエルフの脇に跪 く。
その息遣い……肉体のわずかな震え……これだけ近ければ、探索音を発しなくても認識できる。
若いメスだ……たった今喰らったエルフとそれほど違わない、まだ子供と言っても良い。
あの、我を忘れるほどの旨さ……快感……が、潜冥蠍 の記憶に蘇る。
空間境界面へ逃げ込む足が止まった。
喰いたい……あのメスを……喰いたい。
捕食者としての本能と、自らを防衛する本能がせめぎ合い、一瞬、動きが止まった。
致命的な一瞬だった。
空中のエルフ……ヴェルクゴンが両手を潜冥蠍 に突き出す。
開かれた十本の指、その一本一本から、光の線が潜冥蠍 向けて放たれる。
音は、無い。
それがどんなに輝こうとも、音もせず、実体のない光を、目を持たない潜冥蠍 は認識できなかった。
輝く十本の線は潜冥蠍 の口の周囲にある十本の捕食脚それぞれに絡まり、自由を奪った。
まるで『光る蛇』のように、くねくねと動きながら捕食脚に絡みつく。
圧倒的に不利な状況に気づいた潜冥蠍 が、再び空間境界面へと後ずさる。
「逃がさん!」
空中から、エルフの叫ぶ声が聞こえた。
同時に、捕食脚の自由を奪っていた光の蛇は、一方の端を脚に絡ませたまま、もう一方の端を周囲の木々に向けて伸ばす。
実体のない純粋な魔力の発現である光の蛇は、どこまでもその先端を延ばすことが出来た。
蛇たちは、木々の幹にしっかりと絡みついた後、今度は自らの体を引き絞り、ギリギリと潜冥蠍 の脚を広げていく。
抵抗する潜冥蠍 の力に耐えかねて、木々が根こそぎ持っていかれる前に、空中のエルフは二の矢、三の矢を放ち、次から次へと別の木々に捕食脚を縛り付けた。
潜冥蠍 は必死に抵抗するが、強力な捕食脚でも魔法の光る蛇を引き千切ることは不可能だった。
空中のエルフは、今度は両腕をダラリとたらし、何かを念じるように目を閉じた。
やがて、エルフの胸あたりに、黒い球体が現れる。
カッと目を開くと同時に黒い球体は地上へ放たれ、潜冥蠍 の移動脚の一本、その関節の甲羅 と甲羅 の間に命中、爆散した。
移動脚の膝 にあたる関節から先が吹っ飛ぶ。
潜冥蠍 が苦痛に悶 える。
再び、エルフが目を閉じる。
さらに、もう一発……こんどは反対側の脚の一本が吹っ飛んだ。
六本の移動脚のうち、二本。
もう一本失ったら、歩行不能に陥る 可能性があった。
前方から、メスのエルフが金属の棒……銀剣……を振り被 りながら迫り来る。
その時……潜冥蠍 にとって幸運にも、拘束された十本の捕食脚のうち一本だけ、縛り付けられていた木が根元から抜け、自由を取り戻した。
まさか拘束が解けるとは思っていないであろうメスのエルフは、近距離から確実に潜冥蠍 を仕留めるため、間合いを詰めている。
充分、射程範囲内。
毒液を振りまきながら、先端の爪が、エルフの乳房を薙 いだ。
革鎧 が裂け、その裂け目からのぞく左の乳房の皮膚にも、赤い線が走る。
浅い。
かすり傷だ。
メスのエルフが一閃、剣を振る。
刀身から三日月状の光が走り、たった一本だけ自由になった潜冥蠍 の捕食脚を断ち切る。
だが……
突然、メスのエルフの全身から力が抜け落ち、くたくたと地面に跪 いた。
神経毒が体に回り始めたのだ。
剣が地面に落ち、石ころに当たって「キンッ」という金属音を立てた。
動けないメスのエルフは放って置いて、潜冥蠍 は空中へ向け探索音を放ち、敵の位置とその姿形を確かめ、ヒルのような口を細く長く伸ばした。
移動脚への二発の攻撃には、時間的空白があった。
つまり、連射は出来ない。
しかも相手は精神を集中するために目を閉じている。それが、探索音によって確認できていた。
次の攻撃を受ける前に……
蛭 のような伸縮自在の口管を、細く長く伸ばす。
しかし、口管は肉体の一部だ。実体の無い〈魔法の蛇〉とは違う。
どんなに細くしても長さに限界があった。
届かない。
……だが……
ここまで近づけば、充分。
肺を一気に収縮させ、唾液を……少年の脳をドロドロに溶かした溶解液を高圧で発射。
溶解液は、本来、神経細胞にだけ作用する。皮膚に触れても、せいぜい軽いやけどを負わすだけだ。
それでも、皮下の末梢神経に多少なりとも浸透すれば、相手は激痛に見舞われ、空中でのた打ち回ることだろう。
神経が集中する顔面を狙った。それが裏目に出た。
一瞬早く、魔力の集中を完了したエルフが目を開ける。そして、本能的に顔を逸 らして毒液を避 けた。
溶解液はエルフの大きな耳に当たり、しゅうう、と音を立てて、微かに蒸気を立ち昇らせた。
発射の瞬間に精神集中を散らされた〈魔法の爆破弾〉は狙いを外れ、拘束された捕食脚の根元付近に当たった。
捕食脚は、移動脚に比べれば細く、甲殻も薄い。
爆発で二本同時に弾 け飛んだ。
「がああ!」
空中のエルフが、耳を押さえて叫ぶ。
魔力への集中が弱まったのか、徐々に高度が下がっていく。
捕食脚を拘束していた光る蛇の力も、僅 かだが弱まっている。
だが潜冥蠍 の受けた傷も大きい。
先の攻撃で移動脚のうち二本を失い、メスのエルフの攻撃で捕食脚を一本失い、さらに今、二本を失った。
捕食脚のちぎれた根元から、毒液と体液がボタボタと垂 れている。
地面に降り立ったオスのエルフは、地面にへたり込んでいるメスのエルフを抱きかかえると、最後に残った浮遊力をふり絞って、どうにか潜冥蠍 との間合いを取った。
エルフ達も潜冥蠍 も、どちらも動かない。
いや、動けない……
小さな泉のほとりにある平らな岩の上に、二人のダーク・エルフが座っていた。
「エリク、一人で大丈夫かな?」
スュンが
「心配か?」
ヴェルクゴンが聞き返す。
「まあ、ね。責任もあるし」
「ゼンキの谷じゃあるまいし、この辺りに危険なんて全く無いさ。ああ、そうか……スュンは〈こども〉を持つのは初めてだったな」
ダーク・エルフの少女が
ヴェルクゴンが言葉を続けた。
「少し気負い過ぎだな。もうちょっと楽になったほうがいいぞ。……しかし、まあ、な。私もスュンくらいの
「でも、命の危険が無くても、たとえば毒性のある木の実を食べたりしたら?」
「ふふん、そりゃあ、良い。いまごろエリクのやつ、腹を抱えてのたうち回っているかもな。……心配するな。あれくらいの年頃は、多少、冒険をして痛い目にあうのも良い薬なんだ。幼い頃の私が、そうだったよ。それも百年以上まえの話だがな。それに私は『毒消し』の魔法も少しは心得ている……素人に毛の生えた程度だが、
「へええ……ヴェルクゴンは、治癒魔法も使えるのか。何でも出来るんだな」
「何でも出来るが、何でも中途半端ってやつだ。毒消しの魔法なんて『出来る』部類には入らんよ。せいぜい『出来なくはない』といったところだ。……スュン、お前はどうなんだ? 最近まで魔法剣士の下で育っていたそうだが、やっぱり、攻撃魔法一辺倒か?」
「だいたい、そんなところだ。刀傷を負った時の『止血』の魔法と『痛み止め』くらいは教わったけど」
「お互い、治癒系の魔法は『らしくない』って所か。……治癒魔法って言えば……スュン、おまえ、子供の頃『なんで治癒魔法は自分自身に効かないのだろう?』って思ったことはないか?」
「さあ? 考えたこともない」
「防御魔法や浮遊魔法は自分自身に作用するのにな。なぜか治癒魔法は他人にしか効果が無い」
「良く分からないけれど、体の外側に作用する魔法と内側に作用する魔法では、原理が違うんじゃない?」
「へええ。面白い仮説だな。今度、長老会で発表してみろよ」
「それは、無い無い」
そこで、スュンが大きくため息を
「らしくない、って言えば……私、〈こども〉を持つのに向いてないのかも。ここだけの話だけど、私、エリクのことを心の底から思いやることができない。……やっぱり、今まで魔法剣士の修行に明け暮れてばかりで、他のエルフとあんまり付き合ってこなかったからかな? 同胞を思いやる気持ちが薄いというか」
そんなスュンの様子を見て、ヴェルクゴンは『やれやれ』という風な顔を作った。
「なんだ? こりゃ重症だな。そんなに思い詰めるなと言っているだろう。エリクの
2、エルフと家族
……エルフにとって「家族」という概念は、人間とは全く違うものとしてあった。
エルフは、人間のように男女の性行為によって子供を作るわけではなかった。
生物学的には、そのようにして子供を産むことは可能だったが、一般のエルフが自然の行為によって勝手に子供を作ることは、固く禁じられていた。
それは、共同体の長老たちだけが知る「秘儀」によって生産されるべきものだった。
長老たちの手で人工的に「生まれた」エルフの子は、男女一組の成熟した大人のエルフに預けられ、教育を任される。
育て役の男女のエルフ、預けられる子供、この三者の組み合わせも長老たちが決め、平均五年おきにシャッフルされる。
組み合わせは、
指名された大人のエルフは、共同体に所属するものの義務として、これを拒否できない。
スュンは、去年まで〈こども〉の立場で、ある魔法剣士の男女の
十七才になって、エルフの成人としての権利と義務を与えられ、今回初めて、ヴェルクゴンと組んで教育する立場になった。
教育を任された大人の男女のエルフと教育される側の未成熟なエルフ、この三人一組は便宜上〈家族〉と称され、大人のエルフは未成熟エルフを〈こども〉と呼び、〈こども〉のエルフは大人のエルフを〈おや〉と呼んだ。また大人同士の男女は互いを〈いとこ〉と呼び合う。
しかし、これらは、あくまで便宜上の呼び名であり、エルフ達の間に人間が言うような「家族愛」が存在するわけでは無かった。
あるのは、共同体に対する義務感だけだ。
そもそも、エルフの社会では、感情は
「エルフたるもの常に感情を抑え、理性的、論理的に行動し、ただ共同体への奉仕と責任のみを行動原理とせよ」と、長老達は若いエルフに強要していた。
それでも子供のうちは、エルフといえども本能のまま自分勝手に行動しがちだ。それを抑えるのも大人のエルフ……〈おや〉の役目だった。
そういう意味では、心配すぎる自分もどうかと思うが、逆にヴェルクゴンは放任過ぎる、とスュンは思った。
「それに、な」
ヴェルクゴンが言いながら、懐から青い石の玉を取り出す。
「これと一対の魔法石の首飾りをエリクに着けさせてある。エリクの身に危険があれば、それを察知して、これが赤色に変色……」
言っている間に、手のひらに載せた青い石が、みるみる紫、赤へと変色していった。
ヴェルクゴンとスュン、二人の〈おや〉の顔に緊張が走った。
「ヴェルクゴン!」
厳しい目つきでスュンが相手の顔を見る。
「ああ。方角は分かっている。急ごう。『空中浮遊』は使えるか?」
「当然だ」
言うなり、スュンは空へ飛んだ。
3、
久しぶりの「耳の大きな毛の無い猿」……エルフの味。
しびれる程に、旨かった。
前回「耳の大きな毛の無い猿」……エルフを喰らったのは、いつだったか。
だいぶ昔の事だ。
そのときも旨いと思ったはずだが、これほどだったか?
前回、喰らったのは確か大人のエルフだった。
ひょっとしたら、未成熟な子供のエルフだったから、これほどまでに旨かったのか?
確かに、エルフは危険な存在だ。
この森で、唯一自分の命を奪える種族と言っても良い。
しかし、これほど旨いのなら、もう一度、いや何度でも自分の身を危険にさらしても良いと、
首を下に向ける。
死体から血の匂いが立ち昇って、嗅覚をくすぐる。
少年のエルフ……エリクの抜け殻が、仰向けに横たわっている。
全身に細かい傷があり、服に血が
安らかに眠っているようだ。
……異様に
カッと開いた
その開かれた両方の
肉に、用はない。
背骨に沿って骨髄を吸い取った今、もはや、この少年に価値は無かった。
……と、その時。
音の
鳥か?
……いや……違う。
何だ?
周辺の状況は全て、音と匂い、それに捕食脚の触覚で知る。
知っていれば、すぐにでも境界面に逃げ込んだだろう。
近づいてくる……
もうすぐ、頭上だ。
頭部を空に向ける。
……「毛の無い猿」……エルフだ!
オスとメス、二匹のエルフが頭上に浮いている。
メスの方は、右手に金属の棒状のものを持っていた。
「エリク!」
若いメスのエルフが叫んだ。
「近づくな」
年長のオスが言った。
「奴は爪の先から猛毒を放つ。ここから遠距離攻撃を仕掛けよう」
「でも、エリクが!」
「もう手遅れだ」
メスのエルフがこちらに突っ込んでくる。
「待て! 言うことを聞け!」
オスのエルフがメスに向かって叫ぶ。
後ずさりしつつ
背後に空間境界面を発生させる。
後ろへ下がりながら、その中に逃げ込もうとした。
……その時……
メスのエルフが地面に降り立った。
その息遣い……肉体のわずかな震え……これだけ近ければ、探索音を発しなくても認識できる。
若いメスだ……たった今喰らったエルフとそれほど違わない、まだ子供と言っても良い。
あの、我を忘れるほどの旨さ……快感……が、
空間境界面へ逃げ込む足が止まった。
喰いたい……あのメスを……喰いたい。
捕食者としての本能と、自らを防衛する本能がせめぎ合い、一瞬、動きが止まった。
致命的な一瞬だった。
空中のエルフ……ヴェルクゴンが両手を
開かれた十本の指、その一本一本から、光の線が
音は、無い。
それがどんなに輝こうとも、音もせず、実体のない光を、目を持たない
輝く十本の線は
まるで『光る蛇』のように、くねくねと動きながら捕食脚に絡みつく。
圧倒的に不利な状況に気づいた
「逃がさん!」
空中から、エルフの叫ぶ声が聞こえた。
同時に、捕食脚の自由を奪っていた光の蛇は、一方の端を脚に絡ませたまま、もう一方の端を周囲の木々に向けて伸ばす。
実体のない純粋な魔力の発現である光の蛇は、どこまでもその先端を延ばすことが出来た。
蛇たちは、木々の幹にしっかりと絡みついた後、今度は自らの体を引き絞り、ギリギリと
抵抗する
空中のエルフは、今度は両腕をダラリとたらし、何かを念じるように目を閉じた。
やがて、エルフの胸あたりに、黒い球体が現れる。
カッと目を開くと同時に黒い球体は地上へ放たれ、
移動脚の
再び、エルフが目を閉じる。
さらに、もう一発……こんどは反対側の脚の一本が吹っ飛んだ。
六本の移動脚のうち、二本。
もう一本失ったら、歩行不能に
前方から、メスのエルフが金属の棒……銀剣……を振り
その時……
まさか拘束が解けるとは思っていないであろうメスのエルフは、近距離から確実に
充分、射程範囲内。
毒液を振りまきながら、先端の爪が、エルフの乳房を
浅い。
かすり傷だ。
メスのエルフが一閃、剣を振る。
刀身から三日月状の光が走り、たった一本だけ自由になった
だが……
突然、メスのエルフの全身から力が抜け落ち、くたくたと地面に
神経毒が体に回り始めたのだ。
剣が地面に落ち、石ころに当たって「キンッ」という金属音を立てた。
動けないメスのエルフは放って置いて、
移動脚への二発の攻撃には、時間的空白があった。
つまり、連射は出来ない。
しかも相手は精神を集中するために目を閉じている。それが、探索音によって確認できていた。
次の攻撃を受ける前に……
しかし、口管は肉体の一部だ。実体の無い〈魔法の蛇〉とは違う。
どんなに細くしても長さに限界があった。
届かない。
……だが……
ここまで近づけば、充分。
肺を一気に収縮させ、唾液を……少年の脳をドロドロに溶かした溶解液を高圧で発射。
溶解液は、本来、神経細胞にだけ作用する。皮膚に触れても、せいぜい軽いやけどを負わすだけだ。
それでも、皮下の末梢神経に多少なりとも浸透すれば、相手は激痛に見舞われ、空中でのた打ち回ることだろう。
神経が集中する顔面を狙った。それが裏目に出た。
一瞬早く、魔力の集中を完了したエルフが目を開ける。そして、本能的に顔を
溶解液はエルフの大きな耳に当たり、しゅうう、と音を立てて、微かに蒸気を立ち昇らせた。
発射の瞬間に精神集中を散らされた〈魔法の爆破弾〉は狙いを外れ、拘束された捕食脚の根元付近に当たった。
捕食脚は、移動脚に比べれば細く、甲殻も薄い。
爆発で二本同時に
「がああ!」
空中のエルフが、耳を押さえて叫ぶ。
魔力への集中が弱まったのか、徐々に高度が下がっていく。
捕食脚を拘束していた光る蛇の力も、
だが
先の攻撃で移動脚のうち二本を失い、メスのエルフの攻撃で捕食脚を一本失い、さらに今、二本を失った。
捕食脚のちぎれた根元から、毒液と体液がボタボタと
地面に降り立ったオスのエルフは、地面にへたり込んでいるメスのエルフを抱きかかえると、最後に残った浮遊力をふり絞って、どうにか
エルフ達も
いや、動けない……