リビング・デッド、リビング・リビング・リビング

出発。(その4)

 それから一時間近く、風田かぜた大剛原おおごはらが運転する二台のクルマは、森と平野部の境界線に沿って広域農道を走った。
「国道を飛ばせばN市からF市の中心部まで一時間三十分足らずだけど」
 前を走るハイブリッド・カーの運転席で風田が言った。
「さすがに農道をくねくね走ると時間が掛かるね」
 時々、ナビの画面で現在位置を確認する。
 今のところナビゲーション・システムにエラーは起きていない。
 太陽の光を浴びて発電し、遥か宇宙から電波を送る人工衛星にとって、地上のごたごたは縁の無い話という事か。
(それも何時いつまで持つことやら……宇宙のお星さまを心配しても始まらんが)
 使える物が使えるうちは目いっぱい使うだけだ、と風田は割り切る事にした。
 甥の速芝はやしば隼人はやとが後部座席から声をかけてきた。
「人を避けながらの運転だし、後ろのクルマとはぐれないようにスピードを調節しているから、余計に時間が掛かっているんじゃないかな?」
 最後に、低い声で付けたす。
を『人』って呼んでいいのかは分からないけど」
 過疎の農村部を走る幅広の広域農道。
 農家の庭に、畑に、水田に、路上に、ぽつり、ぽつり、と人間の姿が見えた。同じ場所にボーッと立っているか、目的も無くのろのろ歩き回っているか、そのどちらかだった。知性の欠片かけらも感じられない。
 健康な人間に気づいた時だけ、は「噛みつく」という目的のために動く。
 そして、足が遅い。
 市街地のように狭い範囲に密集していなければ、それほど恐ろしい存在でも無かった。
 田んぼの真ん中で風田たちのクルマに気づいたとしても、あぜ道を歩いて農道に出る頃には、クルマは遥か先へ逃げている。
 路上の〈噛みつき魔〉は少々厄介だが、道幅のある道路上で単独行動している奴なら、ちょっとしたフェイントを入れるだけで避けられた。
「彼らは人だよ。間違いなく人間さ」
 麦わら帽子の日焼けした農夫(口の周りが真っ赤だ)の横をすり抜けながら、風田は甥に言った。
「現在の彼らがどうであれ、生まれた時は確かに人間だったんだ……彼らは人間として生まれている。だったら人間として扱うしかないだろう」
「でも、もし襲われたら……」
 禄坊ろくぼう太史ふとしが反論した。
「っていうか、奴ら、健康な人間を見つけると確実に襲ってきますけど……こちらが奴らに反撃して……それで相手が傷ついたり、場合によっては……その……動かなくなってしまっても仕方が無いんじゃないですか? 正当防衛って事で」
「それはそれでまた別の話さ。健康で『まともな』人間だって他人を襲ったり傷つけたりする奴は居るだろ。その時は反撃しなくちゃ」
「〈噛みつき魔〉である、なし、に関わらず、向かってくるには反撃しろ、と?」
「言いたくないけど、になるかも知れない。国も警察も自衛隊も、誰も当てにできない世の中だ。『自分の身は自分で守れ』ってやつだ」
 風田は溜め息をいた。
「この田舎道周辺は〈噛みつき魔〉の数も少ないし、相手を傷つけずにすり抜ける空間的余裕があるけど……もし、かのギリギリの状況になったら、手加減なんてしていられない」
 路上に軽トラックが駐車していた。
 その横をハイブリッド・カーが通り過ぎる。
 隼人がトラックの運転席を見て叫んだ。
「叔父さん、中に人が閉じ込められている! 助けなきゃ!」
 風田はバックミラーを見た。軽トラのフロントガラス越しに男の顔が見えた。
「隼人くん、彼はもう『噛まれている』よ」
「え?」
 隼人は振り返り、ハイブリッド・カーの後部ガラス越しにもう一度軽トラックを見た。確かに運転席の男の目はうつろだった。フロントガラスを叩く動作も何処どこか変だ。
 禄坊太史が首をかしげる。
「でも、奇妙ですね……あの〈噛みつき魔〉は鍵の掛かったトラックに閉じ込められているようでした……いったい誰に閉じ込められたんだろう?」
「自分で、自分を閉じ込めたのさ」
「どういう意味ですか?」
「〈噛みつき魔〉には『ドアノブを出鱈目でたらめにガチャガチャ動かす』というくせがあるようだ。もしかしたら健康だった時の記憶が多少は残っているのかもしれない……しかし意図的に鍵を掛けたり外したりするほどの知能は無い」
「ドアノブをガチャガチャ動かすことは出来ても、鍵は外せない……」
「そうだ。そもそも『鍵』という概念を理解できるかどうかも怪しいもんだ。ドアノブをガチャガチャやるのは、ある種の条件反射みたいなもんだろう。これが第一点」
 ハンドルを握りながら、風田は左手の人差し指を立てた。
「二点目は、健康な人間が噛まれて〈噛みつき魔〉になるまでの時間だ。正確に測った訳ではないが、早くて一分くらい。長くて五分か、六分か、そんな所だと思う。つまり噛まれてから『噛む側』にまわるまで、僅かだが『タイム・ラグ』がある」
 言いながら二本目の指を立てる。
「この二つの事から、どんな仮説ストーリーが頭に浮かぶ?」
「正常な人間が噛まれてから〈噛みつき魔〉になるまでの時間は数分……〈噛みつき魔〉になると、鍵を外すだけの知能が失われる……ああ、なるほど」
「そうだ。あの男は、〈噛みつき魔〉か猫のどちらかに噛みつかれ、急いで軽トラの中へ逃げ込んで鍵を掛けた……」
「そして鍵の掛かったトラックの中で彼自身が〈噛みつき魔〉に変化へんげしてしまい、鍵を外すだけの知能も記憶も失って出られなくなった、という訳か」
「たぶん、ね」
「何か、悲惨というか……ちょっと切ない話ですね」
「そうだな」
 うなづきながら、風田は運転席のスイッチを操作して前後左右四枚の窓ガラスを五センチだけ下げた。
「今日は天気も良いし、しばらく車内の空気と春の風を入れ替えながら走ろう」

 * * *

 後ろを走るSUVの中で、大剛原おおごはらは運転席のスイッチを操作して前後左右四枚の窓ガラスを五センチだけ下げた。
「今日は天気も良いし、しばらく車内の空気と春の風を入れ替えながら走ろう」
 クルマには初老の男が一人と女子大生が三人。皆、昨日は入浴も着替えもしていない。下着もそのままだ。車内の空気がよどむのを必要以上に気にしていた。
 走行中の車内に春の穏やかな風が入って来た。
 降り注ぐ穏やかな日の光。田園と森の間に点在する農家。遠くの田んぼや畑に人影が見える。近づいて見れば血まみれの異様な姿なのだろうが、遠くから眺めている分にはボンヤリ日光浴でもしている風だ。
 棘乃森とげのもりれいの脳裏に、路上で格闘する老人と老婆の姿がよみがえった。
(〈噛みつき魔〉が〈噛みつき魔〉の肉を食べていた)
 恐ろしい程のあごの力で、老婆が老人の首の骨を噛み砕いていた。
 SUVの車内にまで骨の砕ける音が響いた。
 肉を喰い、肉を喰われながら転げまわる老人たちの凄まじい姿に、その時は思わず目をそむけた。
 あれから一時間近くが経過し、玲の中の記憶は、既に現実感を失いつつあった。
 いま思い出しても怖いとか気持ち悪いという感情が湧き上がってこない。
(ひょっとして、私、この状況に?)
 昨日、目の前で恋人が脳漿をまき散らして死んだとき、玲はパニックにおちいり頭の中が真っ白になった。
 我に返ったのは、日が暮れて暗くなった県道に置き去りにされた時だ。
 美遥みはると太史の三人でキャンプ場へ向かって歩き始めた所からは良く憶えている。
 それ以前の記憶はっすらと霧が掛かったようで、思い返しても現実感が乏しかった。
(心理的な防衛機能が働いているのかな……)
 自分自身の精神を守ろうとして、ショッキングな記憶を無意識のうちに曖昧あいまいにしているのかもしれない。
 これから玲たちはどれほど悲惨な状況を経験することになるのか?
 自分自身の深層意識が、悲惨な出来事をボンヤリと薄めて記憶してくれるというのなら、それはそれで、ありがたいことだ。
(感覚を麻痺させることで悲惨な現実に慣れていく? 上等よ……それで少しでも楽に生きられるのなら、その方がありがたい)
 玲は、もう一度窓の外を見た。
 水を張って苗を植えたばかりの水田。新緑の木々。穏やかな日差し。鳴く小鳥たち。
 どこまでも長閑のどかな田舎の景色……血まみれでうろつく人間を除けば、だが。
「国破れて山河在り、か」
 古典で習った漢詩が口をいて出た。
 ルームミラー越しに運転席の大剛原と目が合った。
「城春にして草木深し……杜甫かい?」
 大剛原が玲に言った。
「棘乃森さんみたいな若い娘さんが、そんな昔の詩を口ずさむとは、ね」
「『春望』くらい高校で習います。受験にも出てきます」
「私もその詩は好きだが……今ここで口ずさむのはじゃないかね?」
「どういう意味ですか?」
「まだ『国破れ』ちゃいないよ。日本このくにが無くなった訳じゃない」
 大剛原の言葉にあえて反論せず、クルマの窓から五月の青い空を見上げ、玲はボソッとつぶやいた。
「ヘリコプター……来ませんね……マスコミも、自衛隊も、政府のヘリも……」

青葉台旭

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