なぜ映画「座頭市」で北野武は髪を脱色したのか?
*ネタバレ有り
時代劇なのに、なぜ髪を脱色しているのか
北野武の「座頭市」が公開されたころ、なぜ主演の北野武は時代劇なのに髪を脱色しているのかという疑問を投げかける人が少なからず居た。知り合いからの「また聞き」だが、これを観た欧米の観客たちも「なぜ時代劇なのに金髪なのか」というミスマッチ感を指摘する声が少なからずあったという。
しかし、私は、すぐにその理由が分かった。
子供時代、私が住んでいた家の近所に、座頭市そっくりのオジサンが居たからだ。
子供の頃、家の近所に座頭市そっくりのオジサンが住んでいた。
そのオジサンは、「お爺さん」と呼ぶ程の高齢ではなく、せいぜい中年と呼ぶべき年齢にもかかわらず髪の毛が真っ白だった。また肌の色も、とても白かった。いや、白というよりはピンク色だった。
そして、いつも「仕込み杖」ならぬ視覚障碍者用の白地に赤のストライプが入った杖をついて歩いていた。
母親に「あのオジサンは何をしている人なのか」と聞くと、「マッサージ師のオジサンよ」と答えた。
そのオジサン……それほどの年齢でもないのに頭髪が真っ白で、肌も白く、視覚障碍者用の杖をついているマッサージ師のオジサン……を現実に知っている私は、北野武が座頭市を演じるにあたって髪を真っ白に脱色した意味をすぐに理解した。
むしろ「何で『髪に色素が無い』という意味が分からないんだ?」と、「時代劇なのに金髪」という事の意味が分からない人たちに対して思っていたくらいだ。
これは、座頭市がアルビノ……先天性の色素欠乏症だという意味だ。
色素欠乏症の人は、しばしば視力も弱い。
訓練しだいで触覚のみを頼りに出来るマッサージ師(按摩)の仕事は、かつては視覚障碍者の人がよく従事している仕事だった。だから、座頭市(視覚障碍者である市)はマッサージ師なのだ。
そして、先天性色素欠乏症の人たちは、しばしば視力が弱く(完全に見えない訳ではなく、多少は見えているらしい)、彼らもまたマッサージ師の訓練を受け、その職業に就く傾向があった。
二十一世紀の現在、そういう特定の障害を持つ人が特定の職業に就くという伝統というか傾向が残っているのか、いないのか、私には分からない。
少なくとも江戸時代においてはそうだったし、私が子供時代まで、そういう事はあった。
それが良い事なのか悪い事なのかは分からないが、とにかく私の近所の色素欠乏症で視覚障害を持ったオジサンは、マッサージ師だった……まさに座頭市のように。
結局、座頭市は目が見えていたのか? いなかったのか?
物語のラスト、敵の親分に「てめえ、目が見えていたのか」と聞かれた座頭市が、初めてカッと目を見開く場面がある。その時の座頭市の目は、虹彩が真っ白だ。
私は医学的な知識はゼロなので軽率な事は言えないが、座頭市がアルビノで、虹彩に全く色素が無かったと仮定すると、カメラでいう所の「露出補正」が適切に行われず常に明るい光にさらされているという可能性がある。
彼は「完全な盲目ではないが、極端に視力が弱く、またサングラスの無かった当時、日差しの強い昼間は目蓋(まぶた)を閉じて(あるいは薄開きにして)暮らしていた」という設定は充分に有りうる。
市の目が見えていたか、いなかったか、という点についての私の解釈は、こうだ。
「完全な盲目ではないが、極端に視力は弱く、薄目でものを見る習慣が身についていた」
完全な盲目でもなく、さりとて健常者のようには見えていない、という事だ。
だから一番最後のシーンで、夜道でつまづいて転んでしまったのだろう。
物語を理解するには、ある程度の教養、つまり知識の共有が必要だ。
上にも書いた通り、私は、世の中の少なからぬ人たちが「時代劇なのに髪を脱色する意味が分からない」と思った事に驚いた。かつて座頭市そっくりのオジサンの近所で子供時代を過ごした私には、その意味が一瞬で理解できたからだ。
小説でも映画でも何でもそうだろうが、ある物語を表現するには、作者と読者、作り手と受け手の間に、一定ラインの知識の共有……つまり教養……が必要だ。
とくに映画では時間的な制約により、くどくど説明を入れる訳にはいかないので「時代劇なのに金髪→これは『市は先天性色素欠乏症』という意味」と、観客が一瞬で理解してくれないと困る。
最近思うのは、そういう日本全体での知識の共有=教養のレベルが下がっているのではないかという事だ。
かつては作り手と受け手の間で一瞬で分かり合えた事が、今では、いちいち全てを懇切丁寧に説明しないと分からなくなっている。
これは単に娯楽の作り手と受け手という話だけでなく、現代の日本社会の中で、いろいろな社会グループ間の断絶が深刻になりつつある、その表れではないか、と心配をしてしまう。