ハーレム禁止の最強剣士!

アラツグ、朝稽古を再開し、セシリア、朝稽古の邪魔をする。

1、アラツグ

 日の出前。
 掛け布団を払いのけてベッドから起き上がる。
 日中は随分ずいぶん暖かくなったが、一日で一番気温の下がるこの時間帯は、いまだにく息が白い。
 アラツグは手早く寝巻きを脱ぎ下着を換え、戦闘服を着た。
 戦闘長靴を履き、ベッドのヘッドボードに立てかけてあった長剣を左手に持ち、部屋を出て回廊をまわり階段をりる。
 中庭に出て、空を見上げた。
 まだ暗いが、真っ暗という訳でもなかった。空の黒さにわずかに青みが差しつつある。
 夜明けが近い。
 さやを腰に下げて、剣を抜く。
 構える。
 構えた所で気づく。この七日間一度も剣を抜いていなかった事に。
「ずいぶん長い間、剣から遠ざかっていた気がするよ。……すまんな」
 構えた剣のさきに向けてつぶやいた。
 誰に謝ったのか。愛用の長剣か、自分自身に対してか。
 両腕の筋肉を動かして、剣を中段から上段へ。そこで一旦全身の力を抜く。
 まずは型どおりの素振すぶりから始める。ゆっくりと、そして徐々に速く。剣を振り続ける。
 一振りごとに剣の走るさまが鮮やかに鮮やかになっていく。
 理性が薄れ、眠っていた本能がゆっくりと起き上がる。
 五感が研ぎ澄まされていく。
 すでに長剣は決まりきった型を離れて自由自在に空中を駆けていた。
 もはやアラツグはアラツグではなかった。この世界で最強のけものに変化していた。
「剣士」という名の獣。その本能がアラツグの体を動かし続ける。
 やがて夜が明ける。
 そらが少しずつ光で満たされ、中庭を囲む建物の白壁が、井戸を覆う天蓋が、回廊の手すりが、夜の闇に埋もれていた全ての物が朝日を浴びて姿を現す。
 ……と、その時……
 中庭に人間が侵入してきたことをアラツグは感知した。
 アラツグの体内で理性と本能の主従が瞬時に入れ替わり、剣を振っていた体の動きが停止する。
 剣をだらりと下げ、気配のした方を向いた。
 女が立っていた。
 朝の寒さを防ぐためだろうか、春のこの時期としては少々大げさに見える厚手のロングコートを羽織はおっている。
 右手に湯気の立つポット、左手に大きめのカップを持って、時々それを口元へ運んでいる。
 大家おおやの妻、セシリア・パナデッロだった。
(何してんだろ? 大家の奥さん……)
 ただ、中庭の隅に立ってジッとこちらを見ているだけだ。
 面倒めんどうくさいが挨拶あいさつをしない訳にもいかない。
 中庭を横切って歩いてセシリアの所へ向かう。
「おはようございます。パナデッロの奥さん」
「おはよう。ブラッドファング君」
「あの、何してるんですか?」
「別に。ただ立ってるだけ」
「立ってるだけって……」
「良いじゃない。別に。さわやかな春の日の朝に、自分んの中庭に立っていたって。ささ、ブラッドファング君は、私にかまわず稽古けいこを続けてちょうだい」
「な~んか、気になるなぁ」
 しかし、それ以上気にしていてもしょうがない。アラツグは言われたとおりセシリアの事は気にせず稽古を続けようと、もとの場所に戻ろうとした。
「あ、ちょっと」
 大家の奥方が呼び止める。
「何ですか?」
「そっちだと、ちょっと見づらいのよね。井戸が邪魔で。反対側で稽古してくれる?」
「はあ?」
「いや、だから、この位置からだとブラッドファング君の姿を見づらいのよ。だから、立ち位置を変えてちょうだい」
「何で、俺が奥さんの都合で立ち位置変えなきゃいけないんですか? そもそも、奥さん、俺の稽古を見るためにわざわざ早起きしてここに立っているんですか?」
「そうよ。文句ある?」
「……いや……別に、文句は無いですけど……」
 何だか分からないが、立ち位置くらいはどっちでも良いと、アラツグは言われた方へと歩き出した。
「ああ、ちょっと、ブラッドファング君」
 セシリアが再度、アラツグを呼び止める。
「今度は何ですか。奥さん」
「……脱いで……」
「な、何、言うんですか! いきなり!」
「だから、脱いで。はだかになって」
「い、いや、わ、訳わかりません。何で俺が服を脱がなきゃいけないんですか! 朝っぱらから物騒ぶっそうなこと言わないでください! 万が一、だんなさんに聞かれて、変に誤解されたらどうするんですか!」
「エステルに聞いたわよ。あなた、朝の稽古のときはいつも全裸だったって」
「それは真夏まなつの話でしょ! こんな肌寒い朝に裸になれますか! そう言う自分は、ロングコート着てるくせに。だいたい、全裸じゃありません! 上半身だけ脱いでいただけです。何ですか、その、都合つごうい勘違いは! 全裸で剣なんか振り回してたら、まんま危ないヘンタイでしょう! 治安衛兵に通報されますよ!」
「良いじゃない。別に。ホラ、古代のつぼとかにもいてあるでしょ? 振りチンで戦う剣士の絵とか……」
「ふ、振りチンとか、い、良い大人の女性が、そんな下品なこと言っちゃ、いけません!」
「いや?」
「いやです! 絶対に、いやです!」
「ちぇっ」
「まったく、何を考えているんだ」
 ブツブツ言いながら、アラツグは中庭を歩いて、セシリアから離れる。
「くそっ。朝のすがすがしい気分が台無だいなしだよ」
 気を取り直して剣を構える。
 相変わらずセシリアはカップのハーブ茶を飲み飲み、こちらをジッとみていた。
 あえて、その姿を無視して稽古に打ち込もうと決める。
 剣を振ろうとしたとき、中庭に別の人の気配がした。
 構えを解いて、そちらを向く。
 エステルだった。
 寝ぼけまなこで回廊を歩いて女子便所へ向かう。
 ふと顔を上げ、アラツグと目が合った。
 エステルが戸惑とまどったような顔でぎこちなく微笑む。
 アラツグも笑みを返す。
「あの日怒鳴どなったことが未だに尾を引いているなぁ……ちゃんと謝らなきゃなぁ。って言っても、何て説明するかなぁ……本当のことを言うのも嫌だし。急にお腹が痛くなって、来ちゃって……とか、言ったら納得するかな? ああ、いかん、いかん。今は剣に集中、集中!」
 ゆっくりと構え直し、剣を振る。
 先程のようにはなかなか集中できない。
 それでも、すこしずつ雑念は薄れ、五感が研ぎ澄まされていった。
 この中庭のあらゆる光、あらゆる音、あらゆる風の動きを感知できる。
「ああ、エステル。ちょっと、こっち来なさい。良いもの見せてあげるわ」
 用をして出てきたエステルを母親が呼び止めた。
 その声をアラツグはえて無視した。
「集中しろ、集中しろ、集中しろ……」
 それでも研ぎ澄まされた耳が、無意識のうちに二人の会話を捕らえてしまう。
「エステル……よ~く見ておくのよ」
「見るって……何を?」
「ブラッドファング君よ。ああして、一生懸命稽古に打ち込んでいる姿……素敵すてきでしょ?」
「う~ん……まあ、ね」
「あれが、ね……あれが……私たちおんなが一生のうちに一度見られるか、見られないか……もしくは、知らず知らずのうちに見ていたとしても、そうと気づかずに終わってしまう究極の生命体……」
「ええ? 何言ってるの? 母さん」
「この世界で最もセクシーな生き物……、よっ!」
 エステルの寝ぼけた目が、好奇心で輝き始める。
「この世で……もっとも……セクシーな生き物……」
「たぶん、子孫を残すためのメカニズムなんでしょうね。失恋でどん底まで落ち込んだ男が、復活に転じるときに出るんだわ。フェロモンが。もんのっごい濃厚のうこうなやつが。若い頃は、男性フェロモン研究家としてぶいぶい言わせてた私が言うんだから間違いないわよ。ああ久しぶりでドキドキしちゃう。若い男が失恋して立ち直る途中を目の当たりにするの、何年ぶりかしらね」
(ああ! もう! 何言ってんだ! あのおばさんは! 全っ然、集中できねぇだろっ!)
 さすがに怒ったアラツグ、ズカズカと歩いて大家の母娘おやこに近づいて行った。
「あ、あら、ブラッドファング君……どうしたの? おっかない顔して? わ、私たちの事は気にしないで、稽古を続けてて、い、良いのよ?」
「良い加減にしてください! 人のことを『究極の生命体』だの『セクシーな生き物』だの……それじゃあ、まるで『夏休みに早起きしたら真っ白なセミの羽化うかが見られてラッキー』みたいじゃないですか! 俺は絶滅寸前の希少動物ですか!」
「え? き、聞こえてたの? ブラッドファング君、け、結構、耳、良いのね? オホホ……ホホホホ。じょ、冗談よっ! 冗談に決まってるじゃない……エステル、あとはまかせた!」
 母親、三歩後ろに下がると、いきなり後ろを向いて足早に建物の中へ逃げていった。
「ちょ、ちょっと、母さん!」
 稽古の邪魔をした本人がさっさと逃げてしまって、ある意味えを食った形のエステルとアラツグが二人ポツンと残された。
「や、やあ……」
 とりあえず、アラツグが曖昧あいまい挨拶あいさつをする。
「ど、どうも……」
 エステルも曖昧あいまいに返す。
「こ、この間は、ごめん。いきなり怒鳴どなちゃって……あ、あの時、実はお腹壊なかこわしててさ。それで、用をしたかったんだけど……女の子に言うのが恥ずかしくて、つい……」
 アラツグの言い訳に、エステルが首をブンブンと横に振った。
「ううん……いいよ……言い訳しなくても。本当は、あの化け物と関係があるんでしょ? あのあと何日かして、お父さんのところへ『エステルさんが見聞きしたことは口外こうがいしないでください』って頼みに来たでしょ?」
「う、うん……」
野次馬やじうまも多かったけど、いま思い返してみると、みんな化け物が死んだ後に集まって来たのよね。つまりブラッドファングさんが化け物を殺した現場を見ているのは、私と、あのおじいさんだけなんだ。……正直、あのご老人は瀕死ひんしの重症で助かる見込みは薄そうだったし、そうすれば、私さえ黙っていれば、誰が化け物を殺したかなんて分からないよね。……それで何となく感じっちゃった……これは私みたいな子供が首をんじゃいけない出来事なんだな、って。考えてみたらブラッドファングさん、剣士だもん。人に言えないこと……私なんか関わらない方が良いことも、あるよね」
「うん……まあ……それは」
「だから、さ。私、気にしてないから。あのときの事……」
「ごめん……ありがとう。そう言ってくれると助かるよ」
「じゃあ、私、そろそろ部屋に戻るわ。今から二度寝にどねしたら寝坊する可能性大だけど。そしたら母さんに予備塾へ提出する『遅刻届』を一筆書いてもらうわ。私を置いてさっさと逃げたつぐないにね。ああ、そうだ、つぐないっていえば、ごめんなさい。ブラッドファングさん……母さんが無神経なこと言って……」
「ああ。いや、気にしてないよ。もう」
「それじゃあ」
「うん」
 最後にニッコリ微笑んで、エステルも建物の中に消えた。
「さてと……」
 一人残され、アラツグがつぶやく。
「これから、どうするかな。なんか気分ががれちゃったけど。朝飯にはちょっと早いし。気を取り直して再開するか」
 右手にぶら下げた長剣、その柄をギュッと握り直す。
 その手を肩の高さまで持ち上げ、さきを天に向けた。
「結局、俺にとっちゃ、なんだな」
 愛用の長剣をまじまじと見ながらつぶやく。
を振るために俺は生まれてきたようなものだ。そして、死ぬまでを振り続ける。たぶん、そうなんだ」