リビング・デッド、リビング・リビング・リビング

発生。(その8)

「どうする……どうすれば良い……」
 大通りを走る小型SUVの中で大剛原おおごはら栄次郎えいじろうは一人ブツブツつぶやいていた。
「け、県警だ。と、とにかく県警本部と連絡を取らないと。しかし……基幹系の無線が使えないとなると……そ、そうだ……一一〇番通報をすれば良いんだ」
 そこで気づく。
(しまった……携帯電話は署のロッカールームの中だ)
 今さら、あの血まみれの職場に戻る気にはどうしてもなれなかった。
 ならば公衆電話を探すしかない。
 大通り沿い、市役所などの公共施設、公園、ショッピングモールなどの大型商業施設……
 とりあえず、手近な所に無いだろうかと左右の歩道を見回した。
 見当たらない。
 男が歩道を歩いていた。若い男だ。
 大通りに面した小さな酒屋の前を通った。
 最近めずらしくなった昔ながらの商店だった。酒屋の中から店の主人らしき男がフラフラと出てきて、通りを歩いていた若い男の頬に噛みついた。
「ギャッー」という悲鳴。
 反射的にSUVを道路際に停めた。
 ホルスターから拳銃を出しながらガードレールを乗り越え、酒屋の主人に呼びかける。
めなさい! 今すぐ噛みつき行為をめるんだ」
 言いながら自分で自分を滑稽に感じていた。そんな事を言ったところでめるはずが無いと、言った本人が一番良く分かっている。
 通りの反対側で悲鳴が上がった。
 老婆が小学生の孫に噛みつかれていた。小学生は祖母の枯れた腕の肉を、まるで骨付きフライドチキンを食べる時のように首を左右に振って噛みちぎっていた。
 物音に気づいて、こちら側の若者と酒屋の亭主に視線を戻す。
 若者が立ちあがっていた。すでに目が虚ろだった。さっきまで被害者と加害者だった二人の男が、そろって大剛原に向かってくる。
 大剛原は再びガードレールを飛び越え、車道に出て自分のクルマに潜り込んだ。すぐにドアをロックしてエンジンを掛け、発進する。
 もはや状況は自分の手に負えないのだと悟った。
(そうだ……結衣……)
 他の誰も助けられないとしても、一人娘だけは絶対に助けるんだ。
(大学か? それとも官舎に帰っているか?)
 時計を見る。既に授業は終わっている頃だ。キャンパスでぶらぶらしているか、どこか寄り道をしているか、真っ直ぐ帰っているのか……
(ここからなら官舎はそれほど遠くない。とりあえず帰ってみよう)
 無事でいてくれと祈るような気持ちで交差点を曲がった。
 交番の前を通ると、複数の男女に囲まれて両手の指と喉と眉毛の辺りの肉を噛みちぎられている警察官の姿が見えた。目をそむけて前を向き、娘の安否だけに意識を集中させた。
 道路に目立ち始めた事故車両を避け、せまい裏道を通って官舎へ向かう。
 一分ごとに状況は悪化していった。
 路上で人間を食う人間。突然飛び出してきた人間に驚いて事故を起こす運転手。渋滞、乗り捨てられたクルマ。
 突然、脇の路地から女が飛び出してきた。
「助けて!」
 言いながら大剛原のクルマに走り寄る。
 恐怖の色が浮かんだ目は、噛まれてしまった人間たちのように虚ろではなかった。つまり人間という事だ。
 同じ路地から口と胸を真っ赤に染めた男が出てきた。
「お巡りさん! 早く助けて!」
 大剛原の制服を見て女が叫んだ。
 女が何とかボディの突起に指を引っ掛けたのを無視してアクセルを踏んだ。クルマが加速してボディに引っ掛けた女の指が外れる。
 バックミラーで確認すると、女は痛みの余り逃げることも忘れて右手を押さえ、その場にうずくまっていた。指を骨折したか、関節を外したか、少なくとも爪の二、三枚はがれているだろう。
 後ろから追いかけてきた男が、女に襲いかかった。
 娘を助ける……当面の目的をその一点に絞って以降、善良な市民の安全を守るという職業意識を捨てた。
 今のこの状況下で、全ての人を救う事は出来ない。むしろほとんどの人間を見捨てざるを得ない。ならば最愛の家族を助けることに集中すべきだ。
 官舎が見えてきた。正面玄関前に車を停め、走って自動ドアに向かった。
 驚いたことに大剛原おおごはら結衣ゆいは玄関ロビーに居た。
 隣の部屋に住んでいる山村の妻が、結衣の体を壁際に押し付けていた。見ようによっては強引な男が女を壁際に追い詰めてキスをせまっているような感じだった。
 暗証番号を入力する。ガラスの扉が開いた。
「結衣!」
 叫びながら、山村の妻のふくらはぎを狙って拳銃を発砲した。松塚と同じく、痛がる様子も怯む様子も全くなかった。
(急所を狙うしかないのか……)
 娘に当たらない射線を選んで、二人の横にまわる。
 結衣は噛みつこうとする山村の妻の喉を両手で押さえていた。通常なら気道がつぶれて窒息するはずだ。しかし、噛みつこうとする山村の妻の体から力が失われる事はなかった。
(ありえない……この噛みつき女は息をしていないとでも言うのか?)
 もはや躊躇ちゅうちょしているひまは無い。
 さっきは、どうしても松塚の額を撃ち抜くことが出来なかった。
 しかし今は違う。娘を、松塚や山村の妻や、通りで見た噛みつき人間たちの同類にするわけにはいかない。娘を救うためなら他の誰が犠牲になろうと構わない。
 大剛原はリボルバーの銃口を山村の妻の耳に突っ込んだ。
 引き金を引く瞬間、目を閉じてしまった。
 銃声。何かが倒れる、どさっ、という音。
 目を開けると、山村の妻の体がホールのゆかタイルの上に横向きになっていた。真っ赤な血の海に灰色の脳が散らばっていた。
 娘が口に手を当てている。足がガタガタ震えていた。
 エレベーターが開き、ジャージ姿の男がホールに出てきた。
「貴様! そこで何をやっている!」
 官舎の二階に住んでいる加藤巡査だ。今日は非番なのだろう。
「山村さんの奥さんじゃないか! 大剛原さん! あんた、自分が何をやったか分かっているのか」
 無言で38口径の銃口を加藤に向けた。
 にらみつける加藤の額に脂汗が噴き出た。
 右手に持った銃を加藤に向け続けたまま、呆然としている娘の手首を左手でつかみ、半ば強引に自動ドアの外に連れ出した。
「クルマに乗れ!」
 助手席のドアを開けながら娘に向かって叫んだ。
「お父さん……いったい……」
「いいから、早く乗るんだ!」
 結衣を助手席に押し込んで運転席にまわり、ドアを開けて自分も乗り込む。
 エンジン始動ボタンを押そうとして、はじめて自分が拳銃を握りっぱなしだと気づいた。固くなった手を無理に広げて、拳銃をももの上に置き、エンジンを掛ける。
 自動ドアが開いてジャージ姿の加藤巡査が出て来るのが見えた。拳銃を警戒しているのか、大剛原親子のクルマに近づいては来なかった。
 立ち尽くす加藤巡査を置いて、大剛原は小型SUVを発車させた。