発生。(その5)
「義兄 さんが? 義兄 さんが姉貴を殺したって、そりゃ一体どういう意味だ」
その時、停車したクルマの直 横の玄関が開いて、少女が二人飛び出て来た。一人は隼人と同じ小学校高学年にみえる。もう一人は県立N高校の制服を着ていた。
二人とも恐怖で顔が引きつっている。
姉妹だろうか?
二人は手をつないで隼人たちの方へ走って来た。奇妙な事に妹らしい少女の方が、姉を引っ張るようにして走っていた。
ハイブリッド・カーのところまで辿 り着き、妹が必死の形相で隼人の座る後部座席のドアをばんっばんっと叩く。
その向こう……さっき少女たちが飛び出した玄関口から、夫婦らしき中年の男女が出て来た……ヨタヨタとした夢遊病者の足取りで。
とっさロックを外そうとする甥を、運転席の風田が制した。
「隼人くん、まて!」
「何でですか? 後ろから来る大人二人は確実に『噛まれて』いますよ! たぶん姉妹の両親だろうけど、このままだと確実に彼女たちも噛まれますよ」
「その二人も『噛まれて』いないという保証は無い」
「たすけて!」
隼人と同い年のように見える少女が叫んだ。
「ちゃんと日本語をしゃべっていますよ! 意識もしっかりしているようだし、絶対に噛まれていませんよ!」
「だとしても、万に一つのリスクも冒すわけにはいかない。第一、その少女たちは我々の家族でも何でもない。たすける義理が無い」
「そんな……」
その時、通りの両側に建つ家々のドアが一斉 に開き、住人たちがハイブリッド・カーに向かってヨタヨタと歩いて来た。このままだとクルマごと取り囲まれてしまう可能性があった。
「何だ? 急に『噛まれた』奴らが家から出てきたぞ? ……何を切欠 に……少女たちの叫び声? ……そうか……音に反応しているのか」
風田がつぶやく。
「そんな事より、女の子たちを」
叫ぶ隼人を振り返って見る。
「まったく……」
溜 め息を吐 きながら風田は前を向いた。
「女の子たちを中に入れろ」
風田が言うか言わないうちに隼人が後部座席ドアロックを外した。
フロントガラスの向こうを見た。
前方からも明らかに「噛まれた」と分かる挙動の人間たちがハイブリッド・カー目指して歩いて来る。
風田は主電源 ボタンを押した。
システム起動。
パーキング・リリース。
セレクタ―・スイッチを前進 へ。
少女たちが車内に入って来た。ドアが閉まる。運転席でドアをロック。彼女たちの両親らしき男女がドアノブをガチャガチャやる。それを無視して右足をブレーキからアクセル・ペダルに踏み替えた。
発車。前方を夢遊病者のように歩く人間をギリギリで避 けて通りを走る。
角を曲がり、裏道を通って二車線の道路に出た。
「これから、どうするか……」
ハンドルを握る風田が低い声で言った。
隼人が答える。
「とにかく街から出ましょう。夕方のラッシュアワーが始まる前に市街地から出てしまわないとヤバい。街の中心部はこれからどんどん混乱して行きますよ」
「街から出ると言っても、東に行けば良いのか、西に行けば良いのか、北か、南か」
「なるべく早く街を出られる方向が良いと思います。人間が少なくて、クルマも少なくて、道幅が広くて行き止まりじゃない所が良い」
「そんな都合の良い場所があるかよ」
駐車していたトラックの陰から、いきなり歩行者が飛び出して来た。急ブレーキを踏んでギリギリで停車する。
歩行者は、あやうく轢 き殺されそうになったというのに恐怖の表情を浮かべるでもなく、呆けたような顔でぼんやりとこちらを見ている。運転している風田と目が合うと、ふらふらとした足取りで運転席の側に周り込んで窓ガラスをどんっ、どんっと叩き始めた。
「くそっ! 『噛まれた』奴か。こっちは心臓が止まりそうな思いをしているってのに、良い気なものだ」
ハイブリッド・カーのドアノブを弄 っている歩行者を無視して風田はクルマを発進させた。ドアノブに入れていた指を強引に外されて、歩行者が尻もちを突いた。ドアノブから指が外れる時に「ごきっ」という音が聞こえたような気がした。
後輪が何かを踏んだような感触があった。ひょっとしたら足首かも知れない。
「もう、構っていられるか」
『噛まれた』人間が交通ルールを無視して危険な行動をとる以上、彼らが多少の怪我を負っても仕方が無いと覚悟を決める。
「感染者が増えていますね」
車窓から通りを見ながら隼人が言った。
「それも物凄い勢いで増えている。このまま行くと明日の朝までに全市民に感染してしまうかも知れない」
「感染者? 隼人くんは、あれを細菌やウィルスによる感染症だと思うのか?」
しばらく黙り込んだあと、隼人は答えた。
「……もうすこし落ち着いたら、全て話します」
ハイブリッド・カーが全国チェーンのステーキ・レストランの前を通り過ぎた。
通りに面した全面ガラス張りの窓の向こうで、従業員と客たちが互いに相手の喉笛を噛みちぎっていた。
白衣を血に染めた料理人がウェイトレスに噛みつき、ウェイトレスが客に噛みついているのが見えた。
「ステーキを食いに行って自分が食われてりゃ世話ぁ無いぜ」
風田がボソリとつぶやいた。
血まみれの人間たちはステーキ・ハウスの中だけでなく、今や街のあらゆる場所に居た。
人間が人間に噛みつき、噛まれた人間が、また別の人間に噛みつく。
(確かに隼人くんの言う通り、数が増えている。それも急激に増えているな)
国道から比較的整備された県道に入る。
しばらく走ると住宅地が終わり、広い稲作地帯に出た。水田の向こうに低い山脈が見えた。
(やれやれ……事故やら渋滞に巻き込まれる事も無く、市の中心部から出られた)
夕暮れの光に赤く染まった田園風景を見ながら風田は思った。
(運が良かった。ここまで来れば周囲は見渡す限りの田んぼ。遮蔽物も無い。物陰から誰かが飛び出してくることも無ければ、角を曲がったら事故車で道が塞 がっていたなんて事も無い。ひと安心といった所か……当面の問題は、これから何処 へ向かうべきか、ってことだが)
「何処 へ向かっているんですか?」
後部座席の隼人が聞いてきた。
「正直、分からんよ。いったい何処 へ行けば良いのか、こっちが聞きたいぐらいだ」
しばらく考えてから、隼人が言った。
「市営の無料キャンプ場はどうですか? たしか方角もこちらだったはずです」
「なるほど……〈丘の上キャンプ場〉か。悪くないな。あそこなら公衆トイレもある」
日が沈み、周囲が急速に暗くなっていく。
クルマのヘッドライトを点 けた。
「くわしい事情は落ち着いてから話すとして」
暗い車内、かろうじてルームミラーに映る少女たちのシルエットに向かって、風田は尋 ねた。
「お互い、ここらで簡単な自己紹介をしておきたいんだが……どうかな?」
少女たちが顔を見合わせたのが分かった。
「まずは、言い出しっぺの俺からだな。俺は風田 孝一 。三十一歳。二年前まで東京の大手メーカーに勤めていたけど、訳あって今は地元の業務用機械販売会社で営業やっている。以上。次のかた、どうぞ」
後部座席の少年少女たちが、次は誰が話すべきかと互いの顔を見た。
三人のうち、最初に手を挙げたのは隼人だった。
「僕は、速芝 隼人 。十二歳。N市立第三小学校六年生」
「わ、私は、沖船 奈津美 。十二歳。第二小学校六年生」
それを聞いて、隼人は少女たちが飛び出してきた家の通りを思い浮かべた。
(あの辺は、ちょうど第二小と第三小との境目……ぎりぎり第二小の学区だったっけ)
次は年上の少女の番だ。
……何も言わない。口を開こうとしない。日が落ちてほとんど見えなくなった外の景色を眺めているだけだ。
「あ、あの、この人は私のお姉さんで、沖船 由沙美 って言います」
かわりに年下の少女が言った。
「じゅ、十六歳。県立N高校の一年生です」
それまで窓の外を見ていた年上の少女……沖船 由沙美 が、妹をギロリと睨 んだ。
(余計なことを喋 るな、とでも言いたそうな顔だな)
ミラーを見て思いつつ、沈みがちな車内の空気が少しでも明るくなるように意識的に高い声を出した。
「それじゃ、沖船 由沙美 さん、奈津美 さん、よろしくな。……ちなみに、君たちの隣に座っている速芝 隼人 少年は俺の甥だ。そして俺は隼人少年の叔父って事になる。念のために言っておくけど、俺らは怪しい人間じゃないよ」
クルマは県道を外れ、街灯一つ無い真っ暗な山道を登っていく。
ヘッドライトの光の中に、わざと素人っぽい細工で素朴さを演出した看板が現れた。
「N市市営〈丘の上キャンプ場〉はこの先五百メートル」と書いてあった。
その時、停車したクルマの
二人とも恐怖で顔が引きつっている。
姉妹だろうか?
二人は手をつないで隼人たちの方へ走って来た。奇妙な事に妹らしい少女の方が、姉を引っ張るようにして走っていた。
ハイブリッド・カーのところまで
その向こう……さっき少女たちが飛び出した玄関口から、夫婦らしき中年の男女が出て来た……ヨタヨタとした夢遊病者の足取りで。
とっさロックを外そうとする甥を、運転席の風田が制した。
「隼人くん、まて!」
「何でですか? 後ろから来る大人二人は確実に『噛まれて』いますよ! たぶん姉妹の両親だろうけど、このままだと確実に彼女たちも噛まれますよ」
「その二人も『噛まれて』いないという保証は無い」
「たすけて!」
隼人と同い年のように見える少女が叫んだ。
「ちゃんと日本語をしゃべっていますよ! 意識もしっかりしているようだし、絶対に噛まれていませんよ!」
「だとしても、万に一つのリスクも冒すわけにはいかない。第一、その少女たちは我々の家族でも何でもない。たすける義理が無い」
「そんな……」
その時、通りの両側に建つ家々のドアが
「何だ? 急に『噛まれた』奴らが家から出てきたぞ? ……何を
風田がつぶやく。
「そんな事より、女の子たちを」
叫ぶ隼人を振り返って見る。
「まったく……」
「女の子たちを中に入れろ」
風田が言うか言わないうちに隼人が後部座席ドアロックを外した。
フロントガラスの向こうを見た。
前方からも明らかに「噛まれた」と分かる挙動の人間たちがハイブリッド・カー目指して歩いて来る。
風田は
システム起動。
パーキング・リリース。
セレクタ―・スイッチを
少女たちが車内に入って来た。ドアが閉まる。運転席でドアをロック。彼女たちの両親らしき男女がドアノブをガチャガチャやる。それを無視して右足をブレーキからアクセル・ペダルに踏み替えた。
発車。前方を夢遊病者のように歩く人間をギリギリで
角を曲がり、裏道を通って二車線の道路に出た。
「これから、どうするか……」
ハンドルを握る風田が低い声で言った。
隼人が答える。
「とにかく街から出ましょう。夕方のラッシュアワーが始まる前に市街地から出てしまわないとヤバい。街の中心部はこれからどんどん混乱して行きますよ」
「街から出ると言っても、東に行けば良いのか、西に行けば良いのか、北か、南か」
「なるべく早く街を出られる方向が良いと思います。人間が少なくて、クルマも少なくて、道幅が広くて行き止まりじゃない所が良い」
「そんな都合の良い場所があるかよ」
駐車していたトラックの陰から、いきなり歩行者が飛び出して来た。急ブレーキを踏んでギリギリで停車する。
歩行者は、あやうく
「くそっ! 『噛まれた』奴か。こっちは心臓が止まりそうな思いをしているってのに、良い気なものだ」
ハイブリッド・カーのドアノブを
後輪が何かを踏んだような感触があった。ひょっとしたら足首かも知れない。
「もう、構っていられるか」
『噛まれた』人間が交通ルールを無視して危険な行動をとる以上、彼らが多少の怪我を負っても仕方が無いと覚悟を決める。
「感染者が増えていますね」
車窓から通りを見ながら隼人が言った。
「それも物凄い勢いで増えている。このまま行くと明日の朝までに全市民に感染してしまうかも知れない」
「感染者? 隼人くんは、あれを細菌やウィルスによる感染症だと思うのか?」
しばらく黙り込んだあと、隼人は答えた。
「……もうすこし落ち着いたら、全て話します」
ハイブリッド・カーが全国チェーンのステーキ・レストランの前を通り過ぎた。
通りに面した全面ガラス張りの窓の向こうで、従業員と客たちが互いに相手の喉笛を噛みちぎっていた。
白衣を血に染めた料理人がウェイトレスに噛みつき、ウェイトレスが客に噛みついているのが見えた。
「ステーキを食いに行って自分が食われてりゃ世話ぁ無いぜ」
風田がボソリとつぶやいた。
血まみれの人間たちはステーキ・ハウスの中だけでなく、今や街のあらゆる場所に居た。
人間が人間に噛みつき、噛まれた人間が、また別の人間に噛みつく。
(確かに隼人くんの言う通り、数が増えている。それも急激に増えているな)
国道から比較的整備された県道に入る。
しばらく走ると住宅地が終わり、広い稲作地帯に出た。水田の向こうに低い山脈が見えた。
(やれやれ……事故やら渋滞に巻き込まれる事も無く、市の中心部から出られた)
夕暮れの光に赤く染まった田園風景を見ながら風田は思った。
(運が良かった。ここまで来れば周囲は見渡す限りの田んぼ。遮蔽物も無い。物陰から誰かが飛び出してくることも無ければ、角を曲がったら事故車で道が
「
後部座席の隼人が聞いてきた。
「正直、分からんよ。いったい
しばらく考えてから、隼人が言った。
「市営の無料キャンプ場はどうですか? たしか方角もこちらだったはずです」
「なるほど……〈丘の上キャンプ場〉か。悪くないな。あそこなら公衆トイレもある」
日が沈み、周囲が急速に暗くなっていく。
クルマのヘッドライトを
「くわしい事情は落ち着いてから話すとして」
暗い車内、かろうじてルームミラーに映る少女たちのシルエットに向かって、風田は
「お互い、ここらで簡単な自己紹介をしておきたいんだが……どうかな?」
少女たちが顔を見合わせたのが分かった。
「まずは、言い出しっぺの俺からだな。俺は
後部座席の少年少女たちが、次は誰が話すべきかと互いの顔を見た。
三人のうち、最初に手を挙げたのは隼人だった。
「僕は、
「わ、私は、
それを聞いて、隼人は少女たちが飛び出してきた家の通りを思い浮かべた。
(あの辺は、ちょうど第二小と第三小との境目……ぎりぎり第二小の学区だったっけ)
次は年上の少女の番だ。
……何も言わない。口を開こうとしない。日が落ちてほとんど見えなくなった外の景色を眺めているだけだ。
「あ、あの、この人は私のお姉さんで、
かわりに年下の少女が言った。
「じゅ、十六歳。県立N高校の一年生です」
それまで窓の外を見ていた年上の少女……
(余計なことを
ミラーを見て思いつつ、沈みがちな車内の空気が少しでも明るくなるように意識的に高い声を出した。
「それじゃ、
クルマは県道を外れ、街灯一つ無い真っ暗な山道を登っていく。
ヘッドライトの光の中に、わざと素人っぽい細工で素朴さを演出した看板が現れた。
「N市市営〈丘の上キャンプ場〉はこの先五百メートル」と書いてあった。