リビング・デッド、リビング・リビング・リビング

発生。(その1)

「○○航空6666便ロサンゼルス行きは、ただ今ご搭乗の最終案内を致しております。66番ゲートより、ご搭乗ください」
 成田空港のターミナルに搭乗案内のアナウンスが響いた。
「ねぇ、ミーくん大丈夫かな?」
 ボーディング・ブリッジを歩きながら、若い女が連れの男に言った。
「だって、せまい檻に入れられてロサンゼルスまで十時間以上も飛行機の貨物室でしょ? それに怪我けがもしているし」
 男は、やれやれといった感じで女の方を振り返る。
「心配ないって。怪我って言ったって、ちょっとしただろ。出発前の検疫だって無事通過したじゃないか。専門家でさえ見過ごすくらいの小さな傷さ」
「だと良いんだけど」
「しかし、まあ、ミーくんもツイてないよなぁ……まさか渡航前日に野良猫とケンカして傷を負うなんて」
「うん……」
「でも物は考えようで、僕たちにとってはツイていたと言えるかもね」
「ツイていた? なんで?」
「だって、野良猫とケンカをしたのは、渡航前の健康診断を動物病院で受けただったろ? 診断を受けた時点では傷ひとつ無い健康猫さ。書類にはケンカの傷のことは書いてない。だから検疫も早かったし、検疫官もお座成ざなりな検査で傷を見落としてくれたんだよ」
「なーんか、ミーくんの健康より出国手続きの方が大事みたいね」
 女が少し不機嫌げに言う。
「そ、そういう意味じゃないよ。考え過ぎだって」
 二人はブリッジを渡り終え、客室乗務員の挨拶あいさつを受けながら旅客機のハッチをくぐり抜けた。

 * * *

 毎週水曜日の夜、N市市民会館の一室で市民講座〈小説創作教室〉が開かれていた。
 N市の教育委員会が主催する〈生涯学習プログラム〉の一環として、ウェブや同人誌に投稿している市内のアマチュア小説家などを対象に、一年間のカリキュラムを組んで講義を行っている。
 ある春の夜。
「……では、前回の宿題『小説のタイトル』を皆さんに発表してもらいましょう」
 チョークを手に黒板の前に立った市民講座〈小説創作教室〉の女性講師が、十二人の生徒たちに向かって言った。
「それでは……そうですね、風田かぜた孝一こういちさん、どうですか?」
「はい」
 廊下側に座っていた中肉中背の男が、少し緊張した様子で立ちあがった。
 年齢は三十歳くらい。
「えーっと……よ、『よみがえったゾンビの悲劇』……です」
「はあ?」
 女講師が首をかしげた。
 椅子に座って風田を見上げていた〈小説創作教室〉の生徒たちも一斉いっせいに戸惑い顔になった。
「なんですか? ゾンビって……」
「ゾ、ゾンビというのは、ハイチ共和国などで信仰されているブードゥー教の魔術の一種で……ある種の粉を振りかけることにより死人をよみがえらせて……」
「ブードゥーねぇ……うーん」
 講師の女がに指を当てながらうなった。
「風田さん……先週、私が教えたことをおぼえていますか?」
「はい……だいたいは……」
「では要約して言ってみて下さい」
「えっと……『分かりやすい言葉を使って、一目で内容の分かるタイトルにしなければいけない。でないと、読者に興味を持ってもらえない』というような事を言われたと思います」
「そうですね。では『ゾンビ』という言葉は『分かりやすい』と思いますか?」
「し、知っている人は知っていると思います……ブードゥー教の中では比較的有名な魔術ですから……」
「知っている人だけ知っていても意味が無いでしょう」
 そこで女講師は生徒たちを見渡した。
「ここに居る皆さんの中で『ゾンビ』なる言葉を聞いたことがある人は、手をげてください」
 誰も手を挙げない。
「分かったでしょう? 十二人の生徒さんたちの中でその言葉を知っているのは、風田さんだけですよ」
「はあ……」
「それから『景気』と『売れる小説』は逆の傾向になるというのも教えましたね?」
「はい」
「世の中の景気が良い時には、人々は重厚壮大で悲劇的なロマンスを好み、逆に現実社会の景気が悪い時には、軽く読めて明るい気持ちになれる喜劇が好まれる……前回私は、そう言ったはずです」
「はい……憶えています」
「風田さん、今の日本は景気が良いですか?」
「……いいえ」
「では不景気の日本で好まれる小説は『悲劇』ですか?」
「違います。喜劇だと思います」
「分かっていて、なぜ小説のタイトルに『悲劇』と入れたのですか?」
「……」
 女講師が白けた顔で言った。
「風田さん、どうぞ着席してください……それでは次は……山水やまみさん」
「はい……」
 二十代半ば位の女が立ちあがって自作の小説のタイトルを発表した。
 創作教室の生徒全員がタイトルを言い終わり、授業は次の課題に移った。

 * * *

 一時間半後、授業が終わって市民会館の駐車場を自分の車へ歩く風間孝一に、同じ教室の山水が声をかけた。
「風田さん、肩を落とさないで下さい」
「ああ、山水やまみさん。『肩を落とさないで』って……俺、そんなに雰囲気暗かったですか?」
「少し、ね」
「今日は先生にコテンパンにやられたから」
「あの先生、厳しい過ぎるっていうか、ちょっと言い方に思いやりが無いような気がするなぁ」
「まあ指摘された点も言われてみれば最もだし、仕方ないかな」
 そう言って風田がエヘヘと笑った。
 山水が自分のあごに人差し指を当てながら言った。
「ええと、何だっけ……ブードゥー教? 私は面白そうだと思ったけどな。その……」
「ゾンビ」
「そう。それ……ゾンビ」
「確かに、いきなり『ゾンビ』なんて書いてあっても、何の事だか分かんないよね。こんなマイナーな言葉をタイトルに付けようなんて……やっぱり俺、センス無いのかな」
「そんなこと無いって。誰も知らない言葉だからこそ『あれ、何だろう』って人目を引くことだってあると思うし」
「山水さんは優しいな」
「風田さんて、怪奇小説とか好きなの?」
「うん。あんまり飲み会とかで言える趣味じゃないけどね」
「じゃあ、ホラー映画とかもよく見るんだ?」
「まあ、そこそこは」
「ゾンビって、ハリウッドのホラー映画とかに良く出て来る題材なの?」
「全然無いよ。俺は観たことも聞いたことも無い。たぶん、死体がよみがえる映画って今まで誰も作っていないと思うよ」
「あ、今、良い小説のネタ思いついた!」
「どんなやつ?」
「私たちの住むこの世界とほとんど同じ別世界の話で、唯一違うのはゾンビっていう怪物の名前が物凄ものすごく有名なの。『何とか何とかゾンビ』とか『何とか何とかオブ・ザ・デッド』とかいう映画や小説が毎年何本も発表されているような世界。……それで、主人公の風田孝一っていう人が、その異世界に飛ばされてゾンビ小説を書くっていう話」
「正直、何か面白くなさそうな話だなぁ」
 風田が運転席のドアの前に立つと、山水が感心したような声を出した。
「へええ、風田さん、ハイブリッドに乗っているんだ……すごい」
 山水のクルマは隣の軽自動車だった。
 風田が苦笑いしながら答える。
「会社の車だよ。俺、営業なんだけど、今日は上司に言って出先から直帰の許可をもらったんだ」
「ふーん。そうなんだ……実は、ね。私のお祖父じいちゃんもハイブリッドに乗ってるの」
「これと同じやつ?」
「クルマのことは良く分からないけど……形が似てるから、多分そうだと思う」
「やっぱり、これと同じブラグイン?」
「プラグインって、何だっけ」
「家とか会社の専用ケーブルから充電できるタイプの事」
「うん。多分。車庫の中で電線みたいなのを繋げているのを見たことある」
「へええ。法人はともかく、個人でプラグインの設備を家に設置するなんて、なかなか進んだお祖父じいさんだね」
「まあ……お祖父じいちゃんはエコとか、そういうの好きだから」
「ところで山水さんは、怪奇小説とか読むの?」
 ハイブリッド・カーのドアを開けながら、風田が聞いた。
「正直、今までは全然読んだこと無かったけど……興味は、ある……かな?」
「そうか……そういう怪奇小説マニアではない読者の感想が欲しいと思ってたところなんだけど、読んでもらえないかな?」
「良いよ。風田さんがどんな小説書くのか興味あるし」
「今度の土曜日とかは? どこかでお酒でも飲みながら」
「土曜日かぁ……予定入っていたかなぁ……あとで、連絡するって事で、良い?」
「うん」
 連絡先を交換したあと、N市市民講座〈小説創作教室〉の生徒、風田と山水やまみはそれぞれのクルマに乗って駐車場を後にした。