リビング・デッド、リビング・リビング・リビング

発生。(その17)

 荒木あらき毅殻ごうかくは右手に持ったリボルバーの銃口を下に向け、腹の前で左手の甲に重ねた。相手に攻撃の意志を表さず、しかし、いざという時は瞬時に射撃態勢に移行できる構えだ。
 さすがに銃口を前に向けて警察署に入るつもりは無かった。
 ガラス扉の向こうに人影は無く、不気味に静まり返っていた。
 ドアが開いた。
 ゆっくりと警察署の中に入る。
 小ぢんまりしたエントランスの奥を見ると、天井から案内板がぶら下がっていた。
 右へ行くと受付カウンター。左は関係者以外立ち入り禁止区域。
 リノリウムのゆかが血で汚れていた。血溜ちだまりと、血の足跡。
 嫌な予感がした。
 奥へ進む。
 向かって左を確認。廊下と、二階へ上がる階段が見えた。
 右を見た。カウンターが血で汚れていた。ゆかに無数の赤黒い足跡。
 せまい受付室には人の気配が無かった。
「誰か居ないか? 警察庁の荒木あらき毅殻ごうかく刑事だ」
 返事は無い。もう一度呼びかけてみる。
「誰か居ないか? このおびただしい血痕は何だ? 誰か居ないか! この街で一体いったい何が起きている?」
 思い切って受付室に入る。物陰に銃を突きつけ確認クリアリング。誰も居ない。
 青白い蛍光灯の下、窓の無いガランとした部屋の中央に立って、改めて室内を見回した。
 カウンターの向こうに血まみれの事務机。散乱する書類。破壊されたパソコンと液晶ディスプレイの残骸。
 荒木が入って来た玄関の方から、ゆっくりとした足音が聞こえてきた。一人ではない。少なくとも五人、六人、あるいはそれ以上。
 玄関に向かって左、受付とは反対側の部屋に誰か居たのかもしれない。あるいは二階に居た署員が、さっきチラリと見えた階段を降りて来たのか。
自分が入って来た部屋の入口を見返した。制服を着た警察官が入って来た。
荒木あらき毅殻ごうかく刑事だ。東京の警察庁……」
 警官の目がうつろだった。左の耳から頬にかけての肉が無かった。赤黒い血が顔にベッタリついている。
 ヨタヨタとした歩き方で荒木にせまった。
 その後ろから同じような歩き方、同じように血まみれの警官たちがぞろぞろと部屋に入って来る。六人、七人、八人……
 銃口を警官たちに向けて叫ぶ。
「止まれ! 止まらんと……」
(撃つのか?)
 撃てなかった。彼らが他人に危害を加えている所を見たわけではない。ただ、街中の「噛みつき魔」たちと似たような目つき、似たような歩き方をしているだけだ。
 無意識に警官たちから逃げることを選んでいた。
 待合室の奥へ向かった。かえって追い詰められるかもしれないという考えは頭の中から消えていた。
 安全確認クリアリング無しで、いきなりドアを開けた。
 ドアの向こう、至近距離に女が立っていた。血まみれの婦人警察官。頬骨周辺の皮膚と肉ががされていた。白い頭蓋骨が見えている。
 突然の出来事に荒木の右腕が反射的に動き、引き金の指に力が入った。理性を働かせる時間は無かった。
 銃声。
 婦人警官が隣の部屋の奥へ吹き飛ぶ。
 部屋に飛び込み、後ろ手にドアを閉め、鍵を掛けた。
 扉の向こうでは血まみれの警官たちが扉をどんどんと叩き、ノブをガチャガチャと回している。
 窓があった。すぐに駆け寄り、クレセント錠を開け、一階の窓から外に飛び出した。目の前にメタリック・ブルーのセダンがあった。銃をホルスターに仕舞しまいながら運転席に乗り込む。
「な、何があったんですか! 銃声が……」
「うるさい!」
 後部座席の若い男を一喝し、エンジンを掛け、急発進した。
 駐車場の向こう、表通りとの境にある門から「噛みつき魔」たちが次々に侵入し始めていた。
 コンビニの駐車場でやったように「噛みつき魔」たちを傷つけないよう走行していたら警察署ここからの脱出は不可能だろう。もはや、そんな余裕は無い。
(たった今、俺は同じ警察官を……仲間を殺してしまった)
 自分の中での切り替えが必要だった。
『他人に危害を加えようとする人間は、もはや善良な市民とは言えない』
 おととい同僚に言った、荒木自身のセリフが脳裏のうりよみがえる。
(あの婦人警官も、いま目の前にいるも、誰かに噛みついている所を俺はこの目で見ていない。血だらけの様子や歩き方から『たぶん、そうだろう』と勝手に思い込んでいるだけだ)
 思い込みで……見た目だけで判断して、人を殺すのか?
 しかし先手を打たなければ、自分たちが追い詰められるという事も直感的に分かっていた。
 ……次の瞬間、荒木あらき毅殻ごうかくは、自分で自分自身の心のを外した。
(殺しても良いんだ……全身を血に染めて、うつろな目をして、ヨタヨタ歩いている、その外見だけで、は殺されても仕方のない存在だ)
 アクセルを思い切り踏み込んだ。門に集まりつつある血まみれの人間たちの中にクルマで突っ込んだ。
 車内の若者たちが悲鳴を上げる。
 鼻の無い老人と、喉の肉をごっそりえぐりり取られた女を同時に跳ね飛ばした。老人と女が同時にボンネットの上でバウンドし、血まみれの顔がフロント・ガラスに当たって、べしゃっ、という嫌な音を立てた。顔面がつぶれる様をガラスの裏側からたりにした。
 助手席の女がひいひいと叫んだ。
 二人のを跳ね飛ばし、出来た隙間すきまから大通りに飛び出した。そのまま全速力で警察署を後にした。
 ウィンドウ・ウオッシャーとワイパーで血を洗い流す。防弾仕様のボディにも窓ガラスにも傷一つ付いていなかった。
(街を出るんだ。とにかく、この地獄まちから離れなければ)
 事故車両の間をすり抜け、渋滞をかわし、ナビを確認しながら、荒木毅殻は青いセダンを郊外へ向けて走らせた。

 * * *

 日が沈み周囲が急速に暗くなる頃、荒木たちのセダンは郊外の田園地帯を通過した。
 目の前に低い丘の連なりが見えた。
 助手席の女は何時いつまでっても、めそめそと泣きまなかった。
 後ろの男女は、暗い表情で窓の外を見ていた。
 警察署からここまで、誰も何も言わなかった。
 街の状況は一分刻みで悪化していた。
 人が人を襲い、噛まれた人間が、また別の人間に噛みつく。そんな地獄絵図が道の両側に延々えんえんと続いた。
 荒木は自分の感覚が次第に麻痺しつつある事に気づいていた。
 誰かが誰かに噛みついているさまを見ても、どうする事も出来ないし、何かをする気力も起きない。
 昨日までの自分のモットーに従って、噛みついている人間を射殺するか? しかし噛まれた方は、どうする? 数分後その噛まれた人間が「噛む側」にまわったら、すぐにそいつも殺すのか? ならば誰かを殺してまで、そいつを助ける意味が何処どこにある?
 既にこの現象は全市に広がっていて、収拾がつかない状況になっている。もはやトランク一杯の銃弾で何とか出来るようなレベルを超えていた。
(これから、どうするか?)
エヌエヌ〉とかいう合成ハーブなど、この際どうでも良い話だ。
(東京に帰るか……)
 一切の連絡手段が絶たれている以上、東京の特殊班地下本部に帰るのが最良だ。
 もちろん、同乗している若者たちを連れて帰るわけにはいかない。
 丘のふもとでウィンカーを点滅させ、県道の路肩にクルマを停めた。
 一台のハイブリッド・カーが荒木たちを追い越していった。
 ハイブリッド・カーのテールランプが見えなくなったのを確認して、荒木は若者たちに言った。
「おい、お前ら、クルマから降りろ」
 ルームライトの下で、後部座席の二人が顔を見合わせる。助手席の女が泣きんで荒木を見つめた。
 荒木はスーツの下から拳銃を出して助手席の女に銃口を向け「さっさと降りろ!」と怒鳴りつけた。
 女が慌てて助手席のドアを開ける。
 後ろの二人もクルマの外へ出た。
「諸君、ここらでお別れだ」
 荒木は一旦いったん自分も車外に出て、若者たちに言った。
「いつまでもタクシー代わりに使われたんじゃあ、自分の仕事が出来ねぇ。お前らはお前らで、自分たちの生きる道をさぐるんだな」
「待ってください!」
 再びクルマに乗り込もうとした荒木を、スカートの女が呼び止めた。
「け、警察官なのに、困っている市民を置いて行くんですか?」
 荒木は暗がりの中で女の顔を見返しながら「チッ」と小さく舌打ちした。
(この女、一見いっけんお嬢さま風に見えて、となると度胸がある……頭の回転もはええ)
 そんな事を考えながら、荒木はスカートの女に良い訳した。
「すまんな。俺には俺の『任務』ってもんがあるんだ。それに、お前らも街の様子を見ただろう? もはや俺一人の力じゃどうにもならない所まで来ちまっている。こうしてる間にも誰かに『噛まれて』いるだろう善良な市民を一人残らず助けることなど到底無理な話だ。市内の地獄からこの静かな丘のふもとまで連れて来てやっただけで良しとしてくれ」
 そう言って運転席に潜り込もうとして、思い出したように付け加えた。
「ああ、そうだ……お前らに一つだけ忠告して置く。おそらく市の行政機能はしばらく麻痺したままだろう。それは警察などの治安機関も同じだ。……つまり秩序の維持が極めて困難になるという事だ。いいか、できるだけ。噛みつき野郎どもは当然だが『健康な人間』にも、だ」
 そこで一瞬だけ次の言葉を言おうか言うまいか迷った。
「状況によっては、可能性も充分にある。出来る事なら人間の少ない所へ、少ない所へ、と移動し続けるんだな。それじゃあ、これで本当に最後の最後だ。あばよ」
 荒木はクルマに乗り込み、ドアを閉め、エンジンを掛けて一発空ぶかしをさせると、クラッチをつないでセダンを急発進させ、あっという間もなく夜の闇の向こう側に消えてしまった。