スペースオペラについて勉強している。
いわゆる「巨大ロボット」を使って宇宙でドンパチやりたくなって、スペースオペラについて勉強している。
最近読んだ小説、観たアニメ、映画
小説
アニメ
実写映画
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- ローグ・ワン
- フォースの覚醒
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- スター・トレック(2008年)
- スター・トレック イントゥ・ダークネス
- スター・トレック BEYOND
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とりあえず今のところ、これだけ読んだり観たりした(再読・再視聴ふくむ)
映像作品に関しては、私が購入したDVDの再視聴と、バンダイ・チャンネル、アマゾン・ビデオ、dtvでの視聴だ。
私自身は、それぞれのシリーズに関しては「好き」だが「すごいマニア」って程でもない。
ガーディアンズ・オブ・ギャラクシーに関しては、もともと1969年に同名のアメリカン・コミックが出版されていて、2008年に別の作者が別のキャラクターを使って同じ名前で出版し、映画は、この2008年版を元にしているようだ。
原作自体が「リブート」作品というやや複雑な出自であるガーディアンズ・オブ・ギャラクシー以外の作品は、ヤマトにしろスター・ウォーズにしろ、スター・トレックにしろ、40年以上の長い歴史を持つシリーズである。レンズマンはもう百年前の作品だ。人生の大半をシリーズのファンとして生きた人たちもいるはずで、私のような者が何かを言う立場にはないと思うので個別の感想は差し控えようと思う。
ただ一つだけ書いておきたいことがある。ヤマトにしろ、スター・ウォーズにしろ、スター・トレックにしろ、それぞれのシリーズの第一作(ヤマトとスター・トレックなら最初のテレビ、スターウォーズなら最初の映画)は、やはりその時代時代において傑出した作品だったということだ。
スター・トレックで気になった事。
スター・トレックに関しては1点だけ気になったことがあった。
「エンタープライズ号って、大気圏内航行・脱出能力ってあったっけ?」
公式の設定がどうなっているかは分からないが、最初のテレビ・シリーズ「宇宙大作戦」や、その流れをくむ初期映画シリーズには、エンタープライズ号が大気圏内を飛んだり、地上から発進するシーンは無かったように思う。
私の勝手な解釈だったのかもしれないが、てっきり、エンタープライズ号には大気圏突入能力は無いと思っていた。だからこそ、乗組員が地上に降下するときには転送装置を使ったり、ガリレオなどの艦載揚陸艇を使うものだとばかり思っていた。
だから「スター・トレック イントゥ・ダークネス」の冒頭シーンで海底軍艦ばりに海中から空へ飛んだ時には、思わず「え? そういう設定?」と思ってしまった。
なぜ、そんな事が気になったかというと、スペース・オペラについて考えれば考えるほど、その作品の背景となる世界観、とくに「科学技術がどれだけ進歩しているか」という事が気になったからだ。言い方を変えると「その世界における科学技術の進歩度合いをどう『そろえる』か」という問題だ。
スペース・オペラにおける世界観をどう設定するか。
宇宙戦艦ヤマト2199は、文字通り西暦2199年(今から180年未来)の設定で、スター・ウォーズの物語は「昔々……」というおとぎ話お決まりの枕詞で始まる。スター・トレックは(うろ覚えだが)「航星日誌2233点1122」(数字は適当)で始まる。仮に「2233点1122」という言葉が航星日誌に出てくれば、それは「西暦2233年11月22日」という事だろう。つまり、ヤマトやスター・トレックには明確な時代設定があり、スター・ウォーズは「架空の語り部を設定して、その語り部が、はるか昔の神話や伝説を話している」とうい形である。ガーディアンズ・オブ・ギャラクシーは現代の話だが、「我々地球人が知らないだけで、銀河には高度に発達した文明が既にある」という設定なのだと思う。
ここで「今から200年後に人間を瞬時に転送するような技術や、恒星間航法なんて実現されてるの?」というリアリティは、あまり意味が無い。大事なのは「その架空の世界では、とにかく転送という技術が確立されているということ。それを前提としてドラマが進行する」という事だ。
ただし、さすがに「屑鉄(くずてつ)屋にあったガラクタ宇宙船を少女が操縦してワープ航法で他の惑星へ行く」という所まで行ってしまうと「いや今から200年後程度じゃ、さすがにそこまでは行かないでしょ」と観客が思ってしまうので、スター・ウォーズのように「はるか昔の物語」=「はるか未来の物語」という仕掛けが必要だろう。
話が逸れるが、主人公のレイが砂漠の惑星に墜落したスター・デストロイヤーの残骸から使えそうな部品を集めて屑鉄屋に売るところから、BB-8と出会うところまでの一連のシーンが、私は「フォースの覚醒」で一番好きだ。
拾った部品をバイクに載せて屑鉄屋に行きタワシで磨くのだが、下っ端のエイリアンに「さっさとしろ」とか言われて一生懸命部品を磨くときの、健気(けなげ)な感じが良い。
それで「4分の1ポーションだ」とか言われて買い叩かれて、一瞬「え? それだけ?」みたいな顔をするけど、だからといって反抗するわけでもなく「仕方ない」みたいな感じでビニールに真空パックされた変な結晶みたいなものを受け取る、この時の諦め顔が良い。
視聴者である俺が「ああ、この星ではこれが通貨なんだな……それにしてもポーションて変な単位だな」などと思っているうちに、家(破壊されたAT-ATの内部だろうか)に帰った彼女は、そのポーションとやらを水に溶かしてプーッて膨らませて「ああ、そうか、この星は江戸時代の日本みたいに主食がそのまま通貨として通用する世の中なんだな」と分かるのだが、それを家の外に持って行って夕日を見ながらガツガツ食べる感じが、これまた良い。その孤独感が良い。
ちなみに後でポーションという言葉を調べたら『1人分の食事』という意味だった。4分の1ポーションは、4分の1食という意味か。
孤児というかストリートチルドレンというか、そういう最底辺の悲惨な人生を送っていて、とにかく日々を生きるのに精一杯で、まだ若いのにそんな最底辺の生活を受け入れて諦めてしまっている少女の切ない感じが出ていて、良い。
それで飯を食べ終わって皿を舐めていたら、夕暮れの空に上昇していく宇宙船の航跡が見えて、急いで捨てられていたXウィングのパイロットのヘルメットを被ってニヤニヤする感じが、これまた切なくて、良い。
いつかは自分も宇宙船のパイロットになりたいなーとか思いながら、でもそんなの叶わぬ夢なんだよなーっていう切ない感じが顔に出ていて、良い。
主演のデイジー・リドリーは当時22歳だったらしいが、少女と大人の中間にいる女優独特の勘の良さがあって素晴らしかった。
基本ボーイッシュ路線の役作りだが、いたずらに不良感を出したり有りがちな女マッチョイズム感を出したりせずに「素直でナイーブで優しい性格ゆえに悪徳商人に搾取されている若い底辺生活者で、夢はあるけど、どうせ叶わない」感が良く出ていた。(ローグ・ワンの囚人護送車の中で、手錠をはめられたフェリシティ・ジョーンズが大きな奥まった目でギロッと睨む、あの初登場シーンのヤサグレ感も捨てがたいが……)
それだけに、あっさりファルコン号を乗りこなしてワープまでしちゃうのは、ちょっと「アレ?」と思った。
まあ、パイロットになるのが夢で、日ごろからイメージ・トレーニングしていたから、って事なんだろうけど、その辺もうちょっと説明してくれても良かったんじゃないだろうか。
この時点で「スター・ウォーズの世界観における『恒星間宇宙航行』の難易度」を俺の頭の中で設定しなおす労力を強いられた。ちょうどスター・トレック イントゥ・ダークネスの冒頭で「ええ? エンタープライズ号って大気圏内で飛べるの?」という感じで頭の中の設定変更を強いられたのと同じ感じだ。
現実世界の延長線上にあるヤマトとスター・トレックでは、一般人は恒星間宇宙船を操縦できない。
たとえば現実の社会において本物の軍艦を操れるのは専門の訓練を受けた軍人だけであるのと同じ感覚で、あるいは、F15戦闘機を操れるのは専門の教育を受けた軍人だけであるのと同じ感覚で、ヤマトとスター・トレックの世界では最先端の技術である「恒星間宇宙船」を操れるのは軍人だけだ。古代進も島大介も森雪も軍人だ。ジェームズ・カークもスポックも軍人だ。
つまり、ヤマトの世界、スター・トレックの世界においては、恒星間宇宙船は「軍しか使えない最先端技術」であり、逆に言えば文明の発展度は「一般人が宇宙船を操る」ところまでは進んでいない、という事だ。
これがスター・ウォーズになると、恒星間宇宙船が屑鉄屋に捨てられていたり、密輸業者が使っていたり、まあ有りふれた技術なわけだ。逆に言うと「誰でも恒星間旅行ができるくらいに」文明度は発達しているわけだ。
それは宇宙船の大きさにも反映されていて、スター・ウォーズ世界には、デストロイヤーやらデススターなどという馬鹿でかい宇宙船が出てくる一方で、相当小さな船にもワープ装置が付いている。ファルコン号は劇中の人間との対比からしても、たとえばヤマトやエンタープライズ号とは比べ物にならないくらい「小さい」。現実世界で例えると、ちょっと大きめの漁船くらいのサイズか。要するにスター・ウォーズ世界においては、ワープ・エンジンというのは、現代に例えれば漁船のディーゼルエンジン程度の有りふれた技術という事だ。
スター・ウォーズの世界では異星人は有りふれた存在だが、スター・トレックの世界には実はほとんど異星人は出てこない。
例えば、酒場のシーンひとつを見ても、スター・ウォーズの酒場の客のほとんどは異星人だ。 それも種々様々なバリエーションに富んだ異星人だ。 スター・トレックに出てくる酒場には異星人はほとんど出てこない。皆、人間だ。
スター・トレックにはクリンゴンという異星人が登場するが、逆に言えば、地球人と同程度の文明社会を持った勢力はクリンゴンとバルカンくらいで、それ以外の異星人はほどんど出て来ないし、出てきたとしても「未開の星を探検したら、そこで変わった風習の現地人とファーストコンタクトした」という扱いだ。
これは、実は前章で述べた「その世界観においてワープ航法が有りふれた技術か」どうか、という事と関係している。
つまり、ワープが限られた地位・職業の人間にしか扱えない最先端の技術であれば、「他の星へ行く」という行為は、ほとんどの地球人が経験したことの無い「冒険」であり「探検」という事になるからだ。
「宇宙、それは人類に残された最後の開拓地」というあの有名な冒頭の決まり文句の通り、スター・トレックにおける銀河系は、かつての大航海時代の海のようなものだ。地球人類にとって銀河のほとんどが未踏の地(フロンティア)だ。そういう宇宙では異星人との出会いそれ自体がイベントになりうる。
一方、スター・ウォーズように、密輸業者などの犯罪者や屑鉄屋でさえ恒星間宇宙船を所有し操縦できるような世界観であれば「他の星へ行く」というのは有りふれた行為のはずで、その結果どうなるかといえば、宇宙開拓時代はとっくの昔に終わり、すべての星は既に開拓・探検しつくされ、あらゆる異星人と外交が成立し、貿易が盛んに行われているはずだ。現代で言うグローバリゼーションの時代に突入しているということだ。
だから、どの星の酒場に行っても、銀河じゅうのあらゆる種族が居る、と考えるのは自然だ。
ヤマトやスター・トレックのタイプより、スターウォーズやガーディアンズ・オブ・ギャラクシーのタイプの方が話を作るうえでは制限が少ない。
「ワープ航法は最先端の技術であるがゆえに軍人などの限られたエリートしか使えない」というヤマトやスター・トレックの路線で世界観を設定すると、話の系統としては「軍事アクション系」もしくは「秘境探検系」などに限定されるだろう。
一方、スターウォーズやガーディアンズ・オブ・ギャラクシーのように「宇宙船に乗って他の星へ行く」という行為を「改造したフォード・マスタングでアメリカとメキシコの国境を行き来する」程度の有りふれたものに設定しておけば「宇宙のギャングもの」「宇宙の密輸もの」「宇宙の刑事もの」などバラエティに富んだ話を作ることが出来る。
スター・ウォーズには、なぜ「転送装置」が出てこないのか
スター・トレックには「転送装置」というものが出てくるが、スター・ウォーズには出てこない。
スター・ウォーズの世界が、スター・トレックの世界より発達した科学文明を持っている設定なら、スター・ウォーズにも転送装置が出てきてもよさそうなものだが、一度も出てこない。
なぜか?
それは『スター・ウォーズの世界に転送装置は無い』と、最初にスター・ウォーズを作った人が決めたからだ。
そう最初に決めた以上、転送装置という概念はシリーズを通して使えない。使ってはいけない。それが「世界観を統一する」「科学文明の発展度を揃える」ということだ。
スター・ウォーズのコンピュータ画面は、なぜワイヤーフレームなのか。
例えば、最新作の「ローグ・ワン」や「フォースの覚醒」でさえ、タイファイターやファルコン号やXウィングのターゲット画面上に出てくる画像は、古くさい緑色のワイヤーフレームだ。
なぜか?
それは、第1作の1977年版スター・ウォーズにおいて、ターゲット画面をそのように描写したからだ。
1作目スター・ウォーズ以降の40年間で(現実世界の)何が一番発達したかと言えば、間違いなくコンピュータだろう。
この急速な発展ぶりは、どんなSF作家も予想していなかったに違いない。
結果として、未来のXウィングのターゲット画面が、現代のF22戦闘機のはるか下を行くローテク画面になってしまった。
では、なぜ「ローグ・ワン」や「フォースの覚醒」で、それらを最新の3D画面にアップデートしなかったのかといえば、それをやってしまっては、1977年の1作目との間で世界観の統一が取れないからだ。
スペース・オペラの世界では「科学文明の発展度を揃える」ことは大事だ。
一度ついた嘘はつき通すしかない。
もっとも、スター・ウォーズの世界観は「ローテク描写もまた味わい」と作り手も受け手も割り切っているので、コンピュータ画面が古くさいワイヤーフレームでも、それもまた味わいになるだろう。
同じことは「ヤマト2199」でも言えて、冒頭の宇宙艦隊戦シーンで、地球防衛軍の艦隊はサーチライトを使ったモールス信号で通信し、敵との距離を測るのに、光学式の測距儀を使っている。道路工事などで作業員さんたちが、しましまの棒を持ったり、その棒を道路の反対側から望遠鏡のようなもので覗いたりしているのをよく見るが、その望遠鏡みたいなアレだ。
世界観を統一した上で、こういう「ハイテクの中のローテク」というものを、わざと描写してみるのも、また楽しいものだ。
いずれにしろ、2017年のこの時代にスペース・オペラを書くなら、恒星間旅行が社会の中でどの程度浸透しているのかを考えると同じくらい、コンピュータの発達度をどの程度に描写するかは、重要な問題だろう。
そもそもスペース・オペラとは何なのか
20世紀始め~中期のアメリカには、パルプ・マガジンという質の悪い紙に質の悪い印刷で質の悪い娯楽小説を大量に掲載して大量に使い捨てるというメディアがあった。
下着姿の巨乳美女が叫び声を上げている稚拙な絵を表紙にした雑誌と、そこに掲載された小説群は、一方でインテリたちにバカにされながら、一方でお手軽な娯楽として大衆から一定の支持を得ていた。
西部劇やSFやハードボイルドやホラーなどアメリカのジャンル小説は、パルプ・マガジンに掲載されるような「扇情的で下らない娯楽読み物」を徐々に洗練させていく形で発達していったわけだが、SFが徐々に発達し洗練されていく過程で、それら「洗練された」SF小説の作り手たちは、かつてのパルプ・マガジンに載っていたよう下らない宇宙冒険活劇を見下して「スペース・オペラ」と名付けた。
つまり差別語であり、蔑称であったわけだ。
もともと、アメリカには石鹸メーカーがスポンサーになってラジオで放送されていた昼メロを軽蔑して「ソープ・オペラ」と言い、やはりパルプ・マガジンに掲載されていた下らないウェスタン小説を「ホース・オペラ」と名付けていた。
どうやら、その時代のアメリカには、大量生産される下らないジャンル小説を「○○オペラ」と名付ける習慣があったらしい。
典型的な(駄目な)スペース・オペラというのは、
- 頭が良くて機転が利いて勇気があって運動神経抜群の主人公がいて、
- その主人公を助ける正義の科学者がいて、
- おっぱいの大きな主人公の恋人がいて、
- そのおっぱいの大きなヒロインに横恋慕して誘拐する悪の科学者がいて、
- 主人公は、正義の科学者が作った光線銃を持って、正義の科学者が作ったロケットに乗って、悪の科学者を追いかけ、
- 途中、未知の惑星に立ち寄ってグロテスクな宇宙生物を光線銃で倒し、
- 最後は悪の科学者も倒して、おっぱいの大きなヒロインを取り戻し、おっぱいの大きなヒロインとチューして、めでたしめでたし。
という感じらしい。
原点回帰
たいていのジャンルは、勃興した初期の段階では荒削りで単純な姿をしているものだが、やがてそのジャンルの担い手たちの中に「もっと洗練しよう」「もっと複雑にしよう」「ジャンル外の奴らにバカにされないような高い芸術性を身につけよう」という志向が生まれ、どんどん洗練され複雑化していくわけだが、そうやって何十年もかけて洗練され複雑になったジャンルを見て、ふと誰かが「俺ら、昔はもっとシンプルで、ストレートで、理屈抜きに楽しんでたよね? あの頃に帰るべきなんじゃね?」と言い出す。
こういう「原点へ帰ろう」運動というか「理屈抜きに楽しかったあの頃を再現しようぜ」運動というのは欧米では定期的に出現するらしい。
例えばルネサンス運動なども、ある意味そうかもしれない。
「近代の小説の手法を使って、わざわざ中世的な魔法使いと騎士と姫の物語を書く」ゴシック小説などもそうだろう。
14世紀イタリアのルネサンス(文芸復古)運動や、18世紀イギリスのゴシック小説ブーム・ゴシック建築リバイバル・ブームを一言で表せば「誰も見向きもしなくなった大昔の芸術スタイルを、あえて現代の技術とセンスで蘇らせる」形式の芸術と言える。
SF、ファンタジー、ホラー、推理小説などは、みなゴシック小説の子孫だと言われている。
だとすれば、その血の中には「近代的な手法で、古くさい中世の物語を蘇らせる」という遺伝子が受け継がれているのだろうか。
そういう原点回帰への志向の中で、本来は蔑称であったはずの「スペース・オペラ」という言葉は、徐々に「理屈抜きに楽しめる宇宙冒険活劇」というポジティブな意味に変化していった。
細けぇことは、どうでもいいんだよ!
かつて、スター・ウォーズ第1作目を作ったとき「宇宙は真空だから音はしませんよ」と音響監督に言われたジョージ・ルーカスは「僕の宇宙には音があるんだ」と返したという。
つまり、現実の宇宙では音はしないという科学的正しさよりも、エンターテイメントとしての正しさを優先させよう、という事だ。
簡単に言えば「細けぇことにこだわるな、エンターテイメントに徹するんだ」という意味だ。
しかし、この「細かいことにこだわらない」というのが案外むずかしい。
理屈抜きにエンターテイメントに徹して作ろうぜ、という意味では細かいことにこだわってはいけないのだが、一方で、荒唐無稽な世界に読者を没入させるために「世界観の統一」には細部に至るまで徹底的にこだわらなくてはいけないからだ。
何に「こだわらず」にバッサリ切り落とし、何に「こだわって」作り込むか……この見極めがむずかしい。
SFの、SへのこだわりとFへのこだわり。
「(良い意味での)スペース・オペラは娯楽だ。小難しい理屈にこだわったSFじゃねぇんだ」と言った場合、二つのこだわりへの拒否があると思う。つまり、
- 正確な科学考証(S=サイエンス)へのこだわりを捨てて、派手なギミックやアクション重視の設定にせよ。
- 複雑で、ともすると陰鬱になりがちな「文学的な」ストーリー(F=フィクション)へのこだわりを捨てて単純明快な勧善懲悪ものを目指せ。
という事だ。
しかし当然のことながら、何にもこだわらずに、ただアホみたいに話を書いていれば良いものが出来上がるという訳でもない。
小難しい科学考証や、文学的で陰鬱なだけのストーリーは捨てるとしても、緻密な計算や膨大な裏設定という表面には現れない土台は絶対に必要だろう。
S=科学考証へのこだわりは必要ないが、世界観の統一には徹底的にこだわるべきだというのは、前章までに述べた。
では、F=「人間のドラマ」へのこだわりは、どうだろうか?
もちろん「スペース・オペラは娯楽だ」といったとき、それを鑑賞する者が求めているのは、とにかくスカッと気持ちよくなりたい、小難しい話はナシにして欲しいという事だが、じゃあ、人間ただ楽しければそれで良いのかといえば、そうとも言い切れず、やはり最後のページを読み終えて本を閉じるとき、あるいは二時間の映画を観終わって映画館から出てくるとき、心の中に何かを残したいと……要は「感動」を持って帰りたいと思っているのではないだろうか。
コメディとシリアスのバランス。
ギリシャ仮面劇の昔から、物語の二大ジャンルと言えば「喜劇」と「悲劇」だ。
現代においても、小説だろうと映画だろうと、娯楽の二大要素は「喜劇=コメディ」要素と「悲劇=シリアス」要素だろう。
ただし、現代の娯楽作品において、完全なコメディも、完全なシリアスも、実は少ない。コメディものでも最後にちょっとした感動シーンを入れて幕を下ろすのが定番の作りだし、重厚でシリアスな物語にも、幕間にはちょっとした小噺が挿入されているのが一般的だ。
宇宙戦艦ヤマト2199、スター・ウォーズ、スター・トレック、ガーディアンズ・オブ・ギャラクシーの四つの作品のそれぞれの「コメディ」と「シリアス」の比率を単純化すると、
- ヤマト……基本路線は「地球を救う」というシリアス。しかし、話の途中にちょっとした掛け合いラブコメあり。
- スター・ウォーズ……悪の帝国から人民を救うというシリアス路線。しかし、ロボットたちやエイリアンたちとのちょっとした掛け合いがある。
- スター・トレック……基本はシリアス。しかし、カーク、スポック、そのほかブリッジ・クルーたちの掛け合い漫才はちょいちょい挿入される。
- ガーディアンズ……全体のストーリーは銀河を救うというものだが、基本はコメディ調。しかし、多くのコメディものがそうであるように、所々に「泣き=シリアス」ポイントがある。
私が注目しているのは、2008年にJJエイブラムスによってリブートされたスター・トレックだ。
リブートによって主要キャストの大幅な若返りを施すとともに、オリジナル・シリーズより明らかに喜劇に寄せてきている。
そして、JJの目論見どおり、前作まで下降する一方だったスター・トレック・シリーズはこのリブートによって一気に盛り返し、興行的にも大成功を収めたらしい。
人間とは矛盾した生き物だから、ガハハと大声で笑えて気楽にスカッと楽しめる娯楽を求め、同時に、心を震わせるような感動を求める。一人の中にこの二つが常に共存している。
ただ、現代を生きる人々が「コメディ」と「シリアス」のどちらを強く求めているかと言えば、2017年の現在、コメディを求める気持ちの方がやや勝ちつつあるように思う。
現代人は、「シリアス・ベースの中に、ちょっとした喜劇要素がある」作品より「コメディ・ベースの中に、ちょっとしたシリアス展開(あるいは『泣き』の要素)がある」作品を求め始めている……そんな傾向にあると思う。
海の向こうでは、スペース・オペラがちょっとしたブームらしい。
スター・ウォーズ、スター・トレック、ガーディアンズ・オブ・ギャラクシーなどの成功を受けてか、今、アメリカのスペース・オペラ市場は、にわかに活況を呈しているという。
スペース・オペラを大別して「シリアス系」「コメディ系」に分けるとすると、現代人が求めているのは「明るく楽しい東宝映画」ならぬ「明るく楽しいスペース・オペラ」だろう。つまり「コメディ系」だ。
加えて「シリアス系スペース・オペラ」の真ん中には「スター・ウォーズ」という名の横綱が、どんっ、と居座っている以上、こっちの土俵で勝負するのは分が悪いという計算も働くので、新しいスペース・オペラが作られるとしたら、基本コメディ寄りの作品が多くなるのではないだろうか。
昔の日本で言えば「ダーティペア」や漫画の「コブラ」路線か。「敵は海賊」なんかは、かつてのアニメはちょっと残念な出来だったが、あれをもう一度リメイクしてみても面白いかも知れない。
……ああ、この辺の作品はいつハリウッドのエージェントが買い付けてもおかしくないな……カウボーイビバップはネット配信ドラマとして既に製作に入ったというし。
マイアミ・バイスとかバッド・ボーイズみたいなオシャレ系バディ刑事ものをそのまま銀河系に持っていった感じの映画とか、ハリウッドなら明日にでも企画が通りそうな感じだ。
いずれにしろ、こういう軽妙洒脱なコメディタッチのスペース・オペラがこれからの基調路線だとすると、恒星間航行の難易度設定は、ヤマトやスター・トレックなどのような「ごく一部の軍人やエリートにしか扱えない最先端技術」ではなく、「ポンコツをブッ叩いたらエンジンが作動してワープしちゃった」くらいイージーなレベルにしないと駄目だろう。
だとすると必然的に、星系間の行き来はごく当たり前の事になるので「銀河系のグローバル化」は進んでいるということになり、結果、どの星へ行っても様々の種類のエイリアンが一緒に生活しているような社会になっている一方で、銀河は全て開拓しつくされ、前人未到の地を冒険・探検してエイリアンとファースト・コンタクトするというドラマは作れない、ということになるだろう。
しばらくは、現代で言うところのスパイ・アクションやクライム・サスペンスや運び屋ものや刑事ものの舞台をそのまま宇宙に置き換えたような、それでいて軽いノリでアクション重視の作品が作られ続けるのではないだろうか。