いわゆる「巨大ロボットもの」が書きたくなった。
YOUTUBEの「東映アニメーション60周年記念チャンネル」(もちろん、公式のチャンネル)
で、
マジンガーZ第1話と、ゲッターロボ第1話と、ガイキング第1話を見た。
私の世代だと、やはりガンダム以降のいわゆる「リアル系巨大ロボットもの」の影響が大きいので、
という印象が強い。(まあ、この図式も既に古くなってしまったが)
しかし、改めてこうして東映アニメーションの作品群を見ていると、1970年代中盤までは、むしろ東映アニメーションこそが巨大ロボットものを量産していたと分かる。
いや、ロボット物である無しに関わらず、70年代の日本において多種多様なテレビ・アニメーション番組を制作していたと分かる。
東映アニメーションは、さておいて。
マジンガー・ゲッター・ガイキングそれぞれの第1話を見ていたら、私自身が「巨大ロボットもの」の小説を書きたくなってしまった。
今、準備をしている。
ロボット物の主人公の年齢、あるいは職業について。
マジンガーZは高校生。
ゲッターロボは高校生。
ゲッターロボの第1話で、主人公三人組が高校生活を送る描写があったのには驚いた。あのフケ顔で高校生だったのか……
主役ロボットを操るパイロットが十代の少年(学生)か、大人(社会人)であるか、という事は、案外重要な要素のような気がしてきた。
多くの場合、主な視聴者に近い年齢、すなわち少年に設定されるわけだが……
アメリカン・コミックに目を移すと、高校生のスパイダーマンを除き、スーパーヒーローは皆大人だ。主な読者が少年なのは日米とも同じであるのに、その憧れというか自己同化の対象が日本では十代の少年であり、アメリカでは大人であるというのは、興味深い。
物心つく前から巨大ロボットアニメを観て育った元少年、今オッサンの私としては、ここらでオッサンが巨大ロボットを操縦する話があっても良いような気がしている。
永井豪の描く敵キャラ・敵ロボットはグロテスクだ。
敵ロボットなのだからカッコ悪くて当然だろ、という話なのだが、永井豪の敵キャラ・敵ロボットは「グロい」のだ。
生理的に観る者の心をざわつかせ、本能的に「こんなグロい奴らをマジンガーで破壊するのは理屈抜きで気持ちいい・こいつらをブッ殺すのは理屈抜きで正しい」という感情を見る者に与える。
それが、かえって新鮮だった。
念のために書いておくが、「エンターテイメントとして面白さ」あるいは「敵キャラ・デザインのセンス」と、「現実社会における善悪」とは別の話だ。
また、永井豪自身が、マンガ版デビルマンにおいて「敵キャラをグロテスクに描く(=嫌悪の対象として描く)」才能を利用して、「こんなにグロい敵なら無条件で殺しても良いよね」的な物語とは真逆の物語を紡ぎあげていることも書いて置かなければいけないだろう。
「架空の物語における善悪」というテーマは語りだすと文字数がいくらあっても足りないのでこの辺で止めて置くが、とにかく、ガンダム以降の「敵側のロボット・デザインもカッコイイ」というセンス、それは同時に「敵にだって、やむにやまれぬ敵なりの都合があったんだ。一方的に憎んだり破壊したり殺してはいけない」というドラマツルギーでもある訳だが、それが導入される以前の、「敵は敵。徹底的に嫌悪と憎しみの対象になるように外見をデザインし、性格を描写する」という単純明快さは、2016年に観返すと新鮮だった。
「剣と魔法」「ホラー」「巨大ロボット」この3つのジャンルで素晴らしい作品を書く事が、私の目的。
それぞれ難しさがある。
とくに「巨大ロボット」ものというのは、ある意味、「魔法使い」や「ゾンビ」以上に荒唐無稽で非現実的な存在だ。
まして、そこに「現実的=リアル」が付いて「リアル・ロボットもの」などというサブ・ジャンルになれば、これは、もはや矛盾のカタマリみたいなものだ。
それだけに、いつかは書いてみたいと思いつつ「敬して遠ざける」状態が続いた。
しかし今、書き始めるべき時が来たように感じている。