「萌え」という言葉は、その発生段階において「燃え」へのアンチテーゼが含まれていたと思う。
文献によると(諸説あるらしいが)「萌え」という言葉は、1990年代前半に生まれた言葉だと言う。
発生原因にも複数説あって、当時有名だったアニメの登場人物の名前から取ったという説と、パソコンのかな漢字変換で「燃え」とする所を「萌え」と誤変換されたのが始まりという説があるらしい。
「萌え」という言葉のがどうやって生まれたのか、は、さておき。
私がこの言葉を初めて目にしたのは1990年代後半だったと思う。
その時、私が思ったのは「この言葉自体が『燃え』のパロディになっているんだな。つまり『燃え』という言葉、あるいはそれによって表されるある種の『感情』に対するアンチテーゼなんだ」という事だった。
1980年代、週刊少年ジャンプの編集方針として有名な三つの言葉「友情・努力・勝利」が実は、神話の構造を端的に表したものではないかという事は前の記事に書いた。
スターウォーズ以降ハリウッドは挙って神話の研究を始めたが、日本には別のアプローチから同じ結論に達したメディアがあった。
1980年代末、島本和彦を始めとする一部の漫画家たちが、そういう「友情・努力・勝利」的な物語展開や、その過程で表される情熱的な戦闘描写、登場人物たちの情熱的なセリフに対して「燃える」という言葉を盛んに使っていた。
「燃える」というのは、つまり読者として「情熱的な気持ちが湧き上がる」ような戦闘シーン、セリフ、話の展開などを表す言葉だった。
1990年代に入り、恐らく日本がバブル崩壊から長い不況に入ったという事も関係があるのかもしれないが、とにかく、この「燃える=情熱的な物語構造」に対して、人々が疲れ始めた。
この「努力して、戦って、敵を倒して、また努力して……」という物語展開に、人たちは食傷気味になっていたのだと思う。
そんな中で「可愛らしい少女の、可愛らしいしぐさ、可愛らしい立ち居振る舞いを唯々ひたすら『愛でる』ことで癒される」というカルチャーが急速に立ち上がって行ったのではないだろうか。
つまり「もう『燃える』とか、そういうの疲れたよ。俺はただただ可愛らしいものを愛でていたいんだよ」という。
『燃える』に代表される暑苦しいカルチャーへのアンチテーゼが「萌え」という言葉には含まれていたのではないだろうか。
私の個人的な意見を言わせてもらえば、「大きな物語」への志向と「美しいもの、可愛らしいものをひたすら愛でる」感情というのは、エンターテイメント業界全体としては両方とも必要だと思う。
ただし、これは一つの作品の中に両方が存在するというよりは「燃え」志向の作品と「萌え」志向の作品が別々に、バランスよく存在してこその健全なエンターテイメント業界だと思う。
「邪悪なドラゴンの生贄になりそうな美しい姫と出会って、知略を巡らせてドラゴンを倒し、美しい姫の愛情と『聖なる剣』の両方を手に入れる」という神話(スサノオとヤマタノオロチ)と、「春は夜明けが美しい」(枕草子)という「美しいものをひたすら愛でる」という感性の両方を我々日本人は古来より有していたように思う。
エンターテイメントにはどちらも必要だ。
ただし、2015年現在、やや軸足が「萌え」の方に偏っている気がする。
このあたりで、そろそろ「大きな物語」の出現を人々は無意識に待ち望んでいるのではないだろうか。
今年のスターウォーズへの盛り上がりにしても(もちろん製作元のディズニー社の周到な「ブロックバスター宣伝戦略」が背景にあるにせよ)人々が「大きな物語」を欲し始めているという表われではないか、そんな気がする。
*以下、宣伝。
青葉台旭・作
ハーレム禁止の最強剣士!
自作の小説です。よかったら読んでみてください。