「今日は、昼飯に牛丼を食べたよ」と家族に報告するときと、「世界の中心で何かを叫ぶ」時じゃ、モードは変えるでしょう
SNSは閉鎖空間が基本だが、全ユーザーに向けての情報発信機能も必ず実装してある
SNSというのは、基本的には特定の相手、特定のグループ内(家族、職場、学校、サークルなど)でのコミュニケーションを支援するサービスである、とは思う。
つまり「全世界に声が届く」インターネット空間において、「登録制の閉ざされたコミュニケーション空間」を作り出すサービスな訳だ。
しかし、多くのSNSでは、自身のプロフィールや投稿した記事が(そのSNSユーザー)全員に公開できるようになっている。
これは「開かれたインターネット上に、閉ざされたコミュニケーション空間を作る」というSNSの本質から見ると奇妙なように見える。
ただ、SNSが作ろうとするコミュニケーション空間は「閉ざされては居るけれど、静的ではない」
現実のフットサル・サークルのメンバーが入れ替わるように、SNSに形作られたサークルやら、コミュニケーションのネットワークも生々流転する。そのように機能しなければいけない。
そのためには、SNS上に存在する個人なり団体が「誰かを発見し、誰かに発見される必要がある」
だから、全SNSに向けて、プローフィールや投稿した記事を公開し、他人から検索をかけてもらって自分を発見してもらう必要がある。
そもそも、そのSNSに登録した直後の、最初のログイン時においては、誰しも「たった一人のユーザー」としてしか、存在しえない。
そこから、自分なりのネットワークを構築するには、そのSNS空間で家族を探し、友人を探し、職場の同僚を探し、同じ趣味を持つ者を探さなければいけない。
そのために、周囲に対して「探知音」を発信する必要がある訳だ。
だから、全てのSNSには「プロフィールと投稿記事を全SNSメンバーに向けて公開する機能が必ずある」
閉鎖したコミュニケーション空間を作るのが主目的であるにも関わらず。
不特定多数に情報を発信することがSNSの目的ではない。しかし、全てのSNSは、その機能を持つ
不特定多数に向けて情報を発信することはSNSにとっては、主たる機能ではなく、あくまで副次的な機能だが、「そういう便利な機能があるなら使わない手はない」とばかりに、不特定多数へむけた情報発信を主目的に、SNSを積極的に使おうという人たちが出てくるのは、仕方のない事だ。
それは主に企業や政府、地方自治体などの公な団体、あるいは芸能人や政治家など「公な個人」だろう。
しかし、「個人対個人、あるいは比較的小さな団体の中でコミュニケーションする」という欲求と、「不特定多数へ均一なメッセージを届ける」という欲求、この二つの欲求をひとつのサービスで満たすことが、果たして良い事なのだろうか?
つまり、
「きょうは、昼飯に牛丼を食べた」「トシヒコ、肉ばっかり食べてないで、ちゃんと新鮮な野菜も食べなさい」
という小さなコミュニケーションと、
「俺は今、こんなことを考えている! 世界中のみんな! 聞いてくれ!」
という不特定多数に向けた発信を、同じ次元で扱うというのは、本当に便利な事なのだろうか?
広い意味では、どちらも「コミュニケーションの一種」なのだろうが、同じ人間でも、「牛丼食べた」という時と「世界のみんな、おれの考えを聞いてくれ!」という時では、「モードが違う」のではないだろうか。
この二つが、同じタイムラインに並ぶのが、良い事なのか。