放浪剣士ゾル・ギフィウスと仮面の妖魔

2-19.三つの

 その時、扉の向こう側からが聞こえた。

「ううう……殺し……て……やる……うううっ」
 かすれたような弱々しい声だった。発音も不明瞭で何を言っているか聞き取りにくかった。
「お……前……ら、殺……して……やる」

 三つの声の中で一番よわく、にもかかわらず、三つの声の中で一番おそろしい声色だった。

 がたっ……
 突然、扉を押さえていた重厚な木製革張りの背もたれ椅子いすが動いた。

 がたっ……
 また動いた。

 廊下に居る……いや、三体の怪物たち……が、扉を押しているのだろう。その力に耐えられず、背もたれ椅子が部屋の内側へ、内側へと動いていく。
 がたっ、がたっ、がたっと椅子が動くたびに、少しずつ、少しずつ、少しずつ、扉が開いていった。

 商人ルッグも旅人ゾルも、そしてゾルの肩に乗る金色のトカゲも、椅子を押して徐々に開いていく扉を見つめた。

「くそっ! だから言っただろうが! 椅子なんか役に立たないって! このままじゃ……俺たちみんな殺されて喰われちまう……せっかく……」
 ルッグは頭を抱えた。
「せっかく、今まで上手くやって来たのに……」

「落ち着け」ゾルが、ルッグを横目で見て言った。「扉は関係ないと言っただろう。開いていようが閉じていようが関係ない。は入って来られない」

とやらの事か? 信じられるものか!」

 ついに扉が半分以上開けられた。
 その向こう……ランタンの光の届かない廊下の暗闇から「おお、人間がいるぞ」という初老の男の声が聞こえた。

 続いて「人間……人間が二人……ほほほほ」という中年の女の声が聞こえてきた。

 そして「殺し、て、やる……お、ま、え、ら……二人とも……殺し、てやる」という、暗くかすれた第三の声も……

 かさ……かさ……かさ……

 何かが動く音がした。一つや二つではなかった。
 無数の何かが同時に動いている音だった。

 暗闇の中から頭が……顔が一つ、ぬっ、と現れた。

「お……奥さま……」ルッグがうめく。

 廊下の暗闇を背にして、まるで宙に浮いているように見えるが、にっ、と笑った。

「おや……そこに居るのはルッグではないかえ?」この屋敷の主婦……ミイルンの母親の顔が言った。

 扉が、また何者かによって押された。
 椅子が、がたっ、という音を立てた。

 その扉の影から、男の顔が出てきた。
 やはり、体は暗闇に隠れていて見えない。顔だけが浮かんでいるように見える。
 ロウデン家の当主だった……いや……今となってはロウデン最後のあるじ、と言うべきか……
 相変わらずいやらしいニヤニヤ笑いの顔だった。
 不思議なのはロウデンの頭の高さだ。ミイルンの母親の顔よりも、ずっと下にある。大人の腹くらいの高さか。

 そして第三の頭が暗闇の中から現れた。ロウデンのさらに下……人間のひざくらいの高さから……
「ころ……して……やる……お前ら二人とも……」
 そう言いながら最後に現れた頭だけ、なぜか上下が逆さまだった。そして、頬、あご、片方の耳、片方の目……顔じゅうかじられ、肉をえぐられ、潰されていた。

「だ……だんなさま……」
 ひどく傷ついているが、間違いなく、かつてのルッグの主人……この屋敷のあるじの顔だった。

「こ……ろ……し……てやる……」
 上下逆さま、傷だらけの顔が言った。

 ルッグを見て言っているのでは、ない……その視線は、自分自身の上に浮かぶ不貞の妻と、浮気相手に向けられていた。

 がたっ……かさ……ずりっ……

 さらに扉が開き、ついに怪物たちのがランタンの弱い光に照らされ姿を現した。

「ぎゃあっ」
 たまらずルッグは幼い子供のように叫んだ。

 ……、だった。

 赤黒くて長い胴の両側から無数の足を二列に生やした大蜈蚣むかでだった。
 胴体のふとさは大人の男のももほどもある。
 まるで蛇のように鎌首をもたげた巨大な蜈蚣むかでの先端は三つ又に分かれていて、それぞれに、ミイルンの父親、ミイルンの母親、ロウデンの頭が付いていた。

 つまり三人の頭が、一匹の蜈蚣むかでの胴体を共有しているのだ。

 三つに分かれた蜈蚣むかでの長い首のうち、ミイルンの父親の上下逆さまになった首だけが、だらん、と力なく下に垂れ下がっている。
 しきりに「殺してやる、殺してやる……」とかすれた声でうめいているが、他の二つの頭に比べ明らかに弱っていた。

、だな……」
 旅人ゾルがつぶやいた。

共喰ともぐい?」ルッグが振り返ってゾルを見る。

「ああ……同じ一匹の妖魔の体を共有している三つの頭が、互いに互いを喰い合ったのさ……おそらく上の方の男女二つの頭が共謀して、下の方で上下逆さまに垂れ下がっている傷だらけの頭を攻撃して喰ったのだろう……喰われた男の頭は、もう反撃する力も残っていないようだ」

「そんな……じゃあ、あの三つの頭は、一つの体を共有したまま互いに憎しみ合い、殺し合ったというのか……」

「そういう事になるな」ゾルが小さくめ息をく。「何と、あさましい事よ」

 重い椅子で押さえられていた扉を力まかせにひらきランタンの光におぞましい姿をさらした三つ頭の大蜈蚣おおむかでは、しかし、それ以上、部屋の中に入ってこようとしなかった。

 戸口とぐちで三つの鎌首をゆらゆらさせているだけだ。

(入って来ない?)
 ルッグは内心驚いていた。
(じゃあ、このゾルとかいう男の話は本当だったのか? 『霊気』とやらのせいで部屋の中に入って来られないという話は……)