放浪剣士ゾル・ギフィウスと仮面の妖魔

18、ゼレキン、アルマ、ジャギルス

「まったく何を言い出すかと思えば……」

 ヴァルタン医師が出て行った部屋の扉を酔った目で見つめながら、行政長官ガバナーゼレキンが言った。
「筋力が増大して、地下牢のあの太い鎖を人間が引きちぎるなどと……」

 酒にひたりきった行政長官ガバナーの頭では、息子が〈妖魔〉に取りかれている事に……にまで、気が回らないらしい。……あるいは、あえてその事から目を逸らしたいがために、酒におぼれているのか。

「本当です!」
 妻のアルマが、あいづちを打つ。
「まったく毎回、毎回、適当な報告をするだけで、本気でザックを治療しようという意志が見えません。主治医として充分な報酬を支払っているというのに……これだから田舎医者は嫌なのです。……みやこなら、あんないい加減な医者は、とっくに廃業へ追い込まれている事でしょう……ああ、みやこが懐かしいわ……あなたが行政長官ガバナーとして地方に赴任すると言った時には、何年かしたら帰れると思っていたのに……」

「アルマ……忘れたのか? 帝国はのだぞ。噂によるとみやこは、もはや人間の住める場所ではないそうだ。我々には帰る場所が無いという事だ……このカールン州と、州都カールンの町に骨をうずめるしかないのだ」

 当然のことを言われ、しばらくアルマはグッと唇を噛んで夫をにらみつけていたが、やがて「ふんっ」と言って、部屋の出口へ向かった。
 妻は、書斎を出た直後に振りかえり、かつてみやこで「秀才の中の秀才」と言われ今は飲んだくれて廃人同然になっている夫に激しく軽蔑のこもった一瞥いちべつを投げ、「バタンッ」と大きな音を立てて扉を閉めた。

 * * *

 書斎から廊下に出た行政長官ガバナー夫人は、しばらく所在なさ気にしていたが、メイドにハーブ茶でも持って来させて暖炉の前でくつろごうと、居間へ向かった。

 居間の扉を開け、てっきり誰も居ないと思っていた部屋の中に人の気配を感じて、一瞬ぎょっとする。

 赤々と燃える暖炉の前、この屋敷のあるじ以外座ることを許されない大ぶりの椅子に、一人の男がだらしない格好で座っていた。

 サイドテーブルには、勝手に戸棚から出したとおぼしき酒の壺があった。

 せ型のゼレキンに比べると、椅子に座っている男は大柄で筋肉質だった。年齢としは四十代半ば……ゼレキンより十歳若く、アルマと同じくらいの年齢に見える。いかにも精力の強そうな脂ぎった顔に、剛々ごわごわとした顎鬚あごひげを生やしていた。

 そして、厚い筋肉の胸板を覆う軽装革鎧かわよろいめられた『帝国の紋章』

「ジャ……ジャギルス……驚かさないでください」
 言いながら、アルマはのか、後ろ手に居間の扉を閉め、カチリと鍵をかけた。

「その椅子は、行政長官ガバナー閣下専用ですよ。いくら警備兵士団の団長でも、座って良いものではありません……それに、お酒まで勝手に出して飲むなんて!」
 そう叱りつける口調は妙に形式的で、アルマらしい鋭さが無い。
 無礼にも無断で夫の椅子に座る警備兵士団団長の方へ、行政長官ガバナー夫人は、ゆっくりと歩いて行った。

「それは、それは……ご無礼いたしました……行政長官ガバナー閣下のお席でありましたか」
 自分の方へ近づいてくるアルマを見上げながら、ジャギルスがおどけるように言った。
「どうりで、フカフカとして座り心地が良いわけだ……しかし、この一年間、酒浸りで頭ん中がちまって、満足に公務も出来ないような男に見つかったとしても、もはやこのジャギルス様にとっては、どうという事もない、な」

 いきなり、ジャギルスが、アルマの手首をつかみ、椅子に座ったまま強い力で引き寄せた。

「あっ!」
 アルマは軽く叫んで、バランスを崩し、座っているジャギルスの太ももの上に尻を乗せるようにして倒れこんだ。

 警備兵士団の団長は、自分の体の上に倒れた行政長官ガバナー夫人の体を、太い腕でギュッと抱きしめ、逃げられないようにする。

 ジャギルスの顔とアルマの顔が、互いの息が掛かるくらいの距離に近づいた。

「ゼレキンは、もう終わりだ……頃合いを見て始末し、このカールン州は俺が頂く……安心しろ、アルマ……お前を悪いようにはしないさ」

 ジャギルスの、酒と性欲で充血した視線がアルマの顔の上を這う。

「この一年間ずっと飲んだくれていたせいで、行政長官ガバナーおつむどころか股間の一物いちもつも酒でちまって使いものにならないんだろう? ほてった体を持て余してるんじゃねぇのか? ええ? アルマ奥様よぉ……になれよぉ……その欲求不満の熟した体を狂わせてやるぜぇ……」
 ジャギルスは強引にアルマの唇を吸った。

 アルマは、抵抗するどころかジャギルスの背中に両手を回し、そのたくましい肉体を強く抱きしめた。

 その夜、行政長官ガバナー夫人と元やくざの警備兵士団団長は、あろうことか夫の居る屋敷の中で、夫の座るべき上等な椅子の上で、堂々と服を脱ぎ、裸になって痴態の限りをつくした。