ファンタジーものの表現について

第四の壁

 ファンタジーものの表現について、その3。
 演劇には第四の壁という言葉がある。
 役者が演技をしているステージと、観客席の間に、目に見えない壁があると思いなさい……そして、その壁を決して超えてはいけません……という話だ。

 つまり、ステージの上の出来事と言うのは、観客のいる現実世界とは隔絶された、いわば別世界の出来事と仮定するのが、演じる役者と見る観客の暗黙の了解な訳だから、その(空想上の)次元の壁を乗り越えて、役者が観客に語りかけたり、観客が役者に語りかけたりするのはルール違反ですよ、ということだ。
 当然だな。そんなことをしたら、フィクションの世界はあっという間に壊れて、役者も観客も夢見心地のファンタジーから一気に現実に引き戻され、気まずい思いをしてしまう。

 ところが、たとえば時代劇小説なんかを読んでいると、けっこう有名どころの作家でも、この第四の壁を、さも安々と超えて読者に語りかけてくる。
 例えば、こんな風に。

 「電撃流免許皆伝の剣豪、佐々木剣四郎は、あずき姫を連れ去った盗賊『般若衆』の一味を追って、三島宿から東海道を一路、東へと向かった……
 ところで、三島の駅といえば、現代でこそ東海道新幹線の停車駅として東京までわずか二時間足らずで行くことのできる人口十一万余りを擁する都市だが、この当時は、まだ……うんたらかんたら……また、三嶋大社の創建は古く、『吾妻鏡』によれば治承4年、西暦1180年には……うんたらかんたら」

「小五郎佐は、幕府隠密の書状を携え、飛脚問屋へと走った。
 ところで、飛脚問屋とは、大名の手紙を受取って、各宿場町の中継所をネットワークでつなぎ、目的地へ書状を送る、いわば現代のインターネットにおけるアクセス・サービス・プロバイダーの役割を担っていたのである……うんたらかんたら」

 物語の途中で、いきなり地の文で、その土地の歴史やら何やらのウンチクが、しかも現代との対比で普通に書かれていたりする。

 架空の時代劇ともいえるファンタジー小説の表現に関しても、この、「第四の壁」をどう破るか、あるいは破らないか、ということをもう少し考えてみたい気がする。