リビングデッド、リビング・リビング・リビング

発生。(その6)

 ハンドルを切って、矢印の方へ向かう。
 五百メートル先に駐車場があり、その先は整備された公園のようになっていた。田舎風デザインのトイレ、あずま屋、炊事場が見えた。丘の上キャンプ場という看板もある。
 駐車場の隅にクルマを停め、主電源を落とした。
「よし、トイレ休憩にしよう。用が済んだら、このクルマに戻ってくる事」
 四人は車外に出た。丘の上の空気は清々しくて、冷たかった。
 姉妹二人が早歩きでトイレに向かう。我慢していたのかもしれない。
 駐車場の反対側にアメリカン・タイプの大型バイクあった。
「……先客がいるのか……」
「叔父さん」
 隼人が呼びかける。
「この辺って、野良猫は居ませんかね?」
「野良猫? 隼人くん、そりゃ一体どういう意味だ」
「交番の近くで助けてもらう直前、猫がお巡りさんに噛みついたんです。そうしたら、お巡りさんの様子が変になってしまって……」
「別の誰かに噛みついた?」
「はい」
「つまり、この現象は猫が原因だというのか?」
「原因の全てじゃないと思いますけど、少なくともその一つだと……」
「……そうか。まあ、このキャンプ場なら猫がいる確率は低いんじゃないかな。……いわゆる〈家猫いえねこ〉は、人間の生活圏で生きるように進化適応しているから、人の居ない大自然の中では生きられないって話を聞いたことがあるよ。寒さに弱いから標高のある場所に行きたがらないって話も。聞きかじりだけど、ね」
 言いながら、周囲の暗闇に視線を配る。
「でも、そういう事なら、車外に長居は危険かもしれない。僕らも早く用を足してクルマに戻ろう」
 風田がふと隼人の足元を見る。
「隼人くん……裸足じゃないか。一体どうしたんだ?」
「無我夢中で家を飛び出してきたものだから、靴を履く時間が無くて……」
 隼人が困ったような顔になる。風田はそれ以上問い詰めない事にした。いずれ時がくれば隼人の方から全てを話すだろう。
 用を足してトイレから出るとき、隼人は、広いキャンプ場に一張ひとはりだけ小さなオレンジ色のテントを見つけた。
 テントの前では男が携帯ストーブを使って何か料理を作っていた。
 ライダーズベストを着た髭面ひげづらの男だ。年齢は三十歳前後、風田と同じくらいに見えた。
「噛まれては……いないみたいですね」
「ああ。そうだな」
 駐車場に戻ってハイブリッド・カーに乗り込む。
 少女たちはまだ帰ってない。
 風田は運転席に、隼人は助手席に乗り込んだ。風田がクルマの主電源を入れ、カーナビをいじる。
「AMだめ、FMだめ、テレビだめ……GPSは機能しているみたいだけど」
 フロントガラス越しに夜空を見上げる。
「いつまで持つことやら……携帯は早々に使えなくなったし、情報を得ようにも、これじゃあ……」
「キャンプ場の公衆トイレには電灯がいていましたね。電気は通じているんだ」
「それだって、いつ停電するか分かったもんじゃないぜ。電気が無くなれば、いよいよ文明崩壊だ」
「文明崩壊ですか」
「考えても見ろ。川から水を汲み上げるポンプだって電気式だろう。動かなくなれば水道が止まる。下水処理施設だって電気で動いているはずだ。オフィスや商店は当然の事。食料品店にある精肉や鮮魚の貯蔵庫が停止すれば、中の商品は数日で腐敗が始まるだろう。下水のことと合せて考えれば、人口密集地の衛生環境はどんどん悪化していくぞ」
 風田はさらに続ける。
「信号機が消えれば道路の混乱はさらに酷くなる。鉄道、空港の管制システムのダウン。ガソリン・スタンドの地下タンクの備蓄がどれだけだろうと、電動式のポンプが止まれば給油も出来ない。このクルマだっていつまで動くか……」
 窓の外を見ると、トイレの方から少女たちが歩いて来るのが見えた。
 集中ドア・ロックを外す。
「まあ、この現象が日本全体に及んでいればの話だけどね。この街周辺だけの局地的なものならすぐに政府が動き出して事態を収拾してくれるはずだ」
「本当に、そうでしょうか? テレビもラジオも携帯も使えないのは、大本おおもとのテレビ局や電話会社が駄目になったからではないでしょうか。それに、こんなに地上が混乱しているというのに、ヘリコプターひとつ飛んで来ない」
 姉妹が後部座席に乗り込んだ。
「今日はこのクルマの中で一夜を明かす」
 四人揃ったところで風田が言った。
「トイレなどで車外に出るときは必ず俺を起こす事。勝手にドアロックを外さないように」
「あのお」
 姉妹のあねの方、沖船おきふね由沙美ゆさみが初めて風田たちの前で喋った。
「いつ、安全な場所へ連れて行ってくれるんですか」
 ふてくされたような言い方だった。
 風田と隼人は同時に振り返って後部座席を見た。
 妹の沖船おきふね奈津美なつみが姉の袖を引っ張りながら「姉さん、めて」と姉に向かってささやく。
「正直に言って、一体この街の何処どこに安全な場所があるのか、俺にも分からないんだ」
 不機嫌そうな目でこちらをにらんでいる女子高生に風田が言った。
「充分な情報を得られない中で、俺なりに少しでもな場所は何処どこかと考えて、ここを選んだ。もちろん、もっと良い場所があるのなら、遠慮せずに教えてほしい」
「警察署とか、病院とか、いろいろ有るんじゃないですか?」
 姉の沖船由沙美が反論し、その言葉に、風田が重ねて反論する。
「今から市の中心部に帰るのはリスクが高い。まだ明るかった時でさえ市内は混乱していた。あれから〈噛まれた〉人の数はさらに増えているだろう……夜中に、見通しの利かない市街地へ戻るのは危険すぎる」
 風田の目に少しだけ厳しい光が宿った。
「混乱する交通網、密集した建物、密集した人間、密集したクルマ、細い路地……下手にクルマを乗り入れて、身動きが取れなくなったら、どうする? 現状、俺たちが安全に移動できる手段はクルマだけなんだぞ……それから、猫の事もある」
「猫?」
 同時に聞き返した姉妹に、風田が続けて言った。
「猫に噛まれた警察官に〈あの症状〉が出るのを、隼人くんが目撃している。その点からも出歩くのは得策じゃない。街には無数の野良猫が居る。猫は夜行性だろう? いまは猫の時間だ」
 反抗的な目で風田をにらんでいた由沙美がプイッと顔をそむけた。
 風田がさらに続ける。
「まあ、俺も情報収集のために一度は市内に戻るべきだとは思っている。しかし今は駄目だ。動くのは日が昇ってからにする」
 最後に運転席の背もたれを少しだけ倒しながら「さあ、寝るぞ」と言って、それっきり黙ってしまった。
 隼人もならおうと、後ろに座る由沙美に「あの、少しだけシートを倒しても良いですか?」と聞いた。
 由沙美は何も言わなかった。
 恐る恐る、少しだけシートをリクライニングさせる。
 由沙美は文句も言わなかった。
 ほっとしながら隼人は目を閉じた。なかなか眠れない。
 夜と言っても、まだ早い。いつもならテレビを見るかゲームでもしている時間だ。眠れる訳がなかった。
「姉さん、大丈夫?」
 後ろで沖船姉妹のいもうと、隼人と同い年の奈津美が小さな声で言うのが聞こえた。
 それから、さらに声を低くして姉に何かささやいた。
 よく聞き取れなかったが、隼人には「姉さん、まだは出てない?」と奈津美が言ったような気がした。