リビングデッド、リビング・リビング・リビング

出発。(その8)

 運転席に座った大剛原おおごはらに、助手席の結衣ゆいが聞いた。
「父さん、大丈夫?」
「大丈夫だ。少し動悸どうきがするだけだ。すぐに落ち着く」
 言いながら、大剛原は脂汗あぶらあせにじんだ額を拭こうとして、どこかでハンカチを落とした事に気づいた。
(ゲートボール場……便所の前か)
 思わず拾いに戻ろうとドアを開けかけた大剛原を娘が引き止めた。
「どこ行くつもり?」
「ハンカチを落とした……去年、お前に買ってもらったやつだ……取りに行く」
「良いって、そんなの……また猫とか現れたら、どうするの? ハンカチなんかより命のほうが大事でしょ」
 結衣は、外へ出ようと腰を浮かしかけた父親のひじを引っ張って、強引に運転席に戻した。 
 娘の言葉に大剛原も我に返り、運転席に座り直してドアを閉め、鍵を掛けた。
「すまん……せっかくのプレゼントを……」
「気にしないで。命を危険にさらすくらいならハンカチなんかどうでも良いよ」

 * * *

「危なかったですね」
 後ろのSUVを振り返って見ながら、禄坊ろくぼう太史ふとしが後部座席から風田かぜたに言った。
「それにしても飛び上がった猫の頭を空中で撃ち抜くなんて……大剛原さんの射撃の腕は半端じゃないですね。僕だったら絶対に外してますよ。僕だったら猫に噛まれて今頃はうつろな目でその辺をウロウロ歩いているだろうな」
「あの大剛原さんの射撃って、やっぱり大したもんなんだ?」
 風田の問いに、太史が興奮した声で答える。
「そりゃ、そうですよ。初弾が外れたと見るや、すかさずダブル・アクションで確実にヘッドショット決めてますから。もの凄い腕前か……もしだったとしたら、もの凄くうんが良かったって事になります」
「ふうん……禄坊くんて、銃とか結構くわしそうだね……お父さん狩猟ハンティングが趣味だって言ってたけど、ひょっとして禄坊くんも猟銃の免許持ってるとか?」
「ああ、いや、一部の例外を除いて、銃の所持が認められるのは二十歳からです。親父は『太史も二十歳になったら免許取って一緒に狩りに行こう』なんて言ってますし、僕も興味が無い訳じゃないですけど……ここだけの話……時々、親父に『今から扱いを覚えておけ』とか言われて、猟銃を持たされるんです」
「ええ? 本物の銃を、かい?」
「もちろん、実弾の入っていないからの銃ですよ……あっ、この話は大剛原さんには黙っていてくださいよ。違法行為ですから」
「じゃあ、基本的な操作方法は知っているって訳だ」
「まあ、知識だけは……風田さんはどうなんです?」
「俺は、そういうのは全然だな……ああ、そういえば何年か前に一度だけ……東京の会社に務めていた頃、プロジェクト明けの休みに部署のみんなとグアムに行ったなぁ」
「そこの射撃場シューティング・レンジで?」
「ああ。撃たせてもらったよ……イタリア製のやつで、ベレ何とかって拳銃があるだろ?……ハリウッドのアクション映画で必ずヒーローが持ってる銃」
「ありますね。米軍に制式採用された拳銃ですね」
「記念にあれを撃ってきたよ。それと、44フォーティーフォーマグナム」
「ベレのオートマチックと、44フォーティーフォーマグナムのリボルバー……定番ですね」
「ま、俺、そういう所はミーハーだからさ。ひと通り操作のレクチャーは受けたけど、それっきりだね」
 言いながら、風田はすぐうしろに駐車しているSUVの様子をルームミラーで確認した。
 運転席の大剛原は、まだ少し動揺しているようだった。助手席の娘と何か話している。
(そろそろ出発したいが)
 確認も兼ねて、後ろのSUVに大剛原の様子を見に行くか、と、運転席のドアを開け、思い直してドアを閉めた。
 大剛原に飛びかかった猫を見た直後では、丸腰で車外へ出る気になれない。
 メインスイッチを押し、セレクターを前進に入れて後ろのSUVと少しだけ車間距離をあけ、ハンドルを切りながら後退してSUVの横にピタリと並ぶ形で車を停車させた。対向車線をふさぐ格好だが、どうせ自分たち以外に田舎道を走るクルマなんぞ無いだろうと決めつけた。
 手元のスイッチを操作して助手席側の窓を開けると、それを見て大剛原もSUVの窓を下ろした。
 公衆便所から帰って再び眠りに落ちた沖船おきふね由沙美ゆさみ頭越あたまごしに、風田は隣のクルマに乗る大剛原に声を掛けた。
「大丈夫ですか?」
「ああ……」
 うなづく大強原に、風田が重ねて聞いた。
「運転できそうですか?」
「もう出発するのか?」
「大剛原さんさえ良ければ、って事ですけど。ここは過疎の村の、それも集落と集落の中間地点で一番人気ひとけのない場所ですが、絶対に『噛みつき魔』に遭遇しないとも言い切れない。銃声の事もあるし」
「銃声? 例の『音に寄って来る習性』という奴か」
「まだ仮説の段階ですけど、音が連中を引き付けている可能性は充分にあります。何にせよ、用心に越した事はない。こんな山道でも大勢に囲まれたら厄介やっかいだ」
「わかった。もう大丈夫だ。少し娘と話をしていたんだ。それだけだ」
「それじゃ、また俺が先導するって事で、良いですか?」
「ああ。頼む」
 そう言って、大剛原は窓を閉めた。
 風田もウィンドウのスイッチを操作して助手席の窓を上げ、ゆっくりとアクセルを踏み込んだ。
 後ろから太史が聞いてきた。
「大剛原さんの様子、風田さんはどう見ました?」
「問題なさそうだったよ。安全なクルマの中に入って娘さんの隣に座ったから、ホッとしたんだろ」
「安全なクルマの中に入ったことで、かえって緊張の糸が切れた、って事ですか?」
「次々に困難が襲って来たり、次々にやるべき事が出てきた時のほうが、案外、緊張が途切れずにちゃんと動けるものさ」
「そんなものですかねぇ……」

 * * *

 緩いカーブの続く農道を十分ほど走ったところで、太史が「そろそろ次の集落に入ります」と言った。
「道の両側に合わせて十軒ばかり農家が並んでいるだけの小さな集落です。しかも、その半分が空き家だ」
「詳しいね」
「例の元村長さんの家があるんですよ。親父と一緒に何回か訪ねた事があります」
「なるほど……」
 カーブの向こうから、集落の最初の家が現れた。
 ……家の前に男が倒れていた。
 農道の左側車線をふさぐように仰向あおむけになっていた。
和夫かずおさん……」
 太史がうめいた。
 右にハンドルを切りながら風田がたずねた。
「知り合いか?」
弦四河げんしかわ元村長の息子さんです。死んで……います、よね?」
「ああ。多分な」
 ハイブリッド・カーは一旦いったん反対車線に出て、死体の横をゆっくりと通過した。
 仰向けの死体は四十歳前後の男だった。右の頬に親指を突っ込んだような穴が開き、周囲の肉がクレーター状にめくれていた。赤い肉の奥に砕けた頭蓋骨が見えた。
 右半分だけを破壊された、目をそむけたくなるような酷い顔だった。
 再度、太史が呻いた。
「スラッグ弾だ」
「スラッグ?」
「散弾銃用の一発玉の事です。散弾ではなく、一度に一発だけ弾丸を発射します」
「散弾銃なのに散弾じゃない? 良く分からんが、とにかく、この人は銃で撃たれて死んだって訳だ。猟銃で誰かに殺された……しかも一人だけじゃない。禄坊くん、前を見ろ」
 風田の言葉に、太史は顔を上げてフロントガラスの向こうを見た。
 数メートル先に、女と、小学校高学年くらいの少年が倒れていた。二人とも頭部を破壊されていた。
「お、奥さんです……和夫さんの奥さんと、一人息子のタクヤくんだ」
「つまり、一家皆殺しという訳か?」 
 路上に倒れている母親と息子のすぐ近くで、風田はハイブリッド・カーを一時停車させた。
(見たくはないが……死にざまを確認しておく必要がある)
 窓越しに死体を見下ろした。母親も、息子も、父親と同じ酷い銃創だった。
「可愛そうに……少年のほうは隼人くんと同じくらいの年齢としだな……あの傷からして即死だったろうから、それがせめてもの救いか」
みんな、口の周りが血で汚れているみたいですが……」
「一概には言えんさ。これだけ頭部の損傷が酷いと、銃創から出た血なのか、誰かを『噛んだ』ときに付いた血なのか、断定は出来ない」
「そ、そうですね。銃弾が入った衝撃で体内の圧力が高まって口から血を吐く事もあるらしいし」
 言いながら、太史は無意識に母親と少年の体を観察していた。
 すぐにそのが見つかった。
「か、風田さん!」
「……ああ。俺も今、気づいたよ」
 母親の細い首に傷があった。銃や刃物の傷ではない。明らかに『噛み跡』だった。
 少年の着ているシャツの左肩にも血がにじんでいた。
(間違いない。彼らは『噛みつき魔』に噛まれ、自分たちもその同類に成り果てて……その後、何者かに銃殺されたんだ)
 風田はそう思いながら、クルマを再発進させようと視線を前方に移した。
 さらに十数メートル先に老婆が倒れていた。
 クルマが移動するにつれて左側の家の玄関が見えてきた。
 扉が半開きになって、初老の男が上半身を家の外に投げ出す格好でうつぶせになっていた。
 右側の家の庭では、老夫婦が三メートルほどの間隔をおいて倒れていた。
 皆、頭部を銃弾で破壊され、周囲に血をき散らしていた。
 太史がゾッとしたような声で聞いてきた。
「ひょ、ひょっとして集落まるごと皆殺しですか? だ、誰がそんな事を……」
「まだ分からんさ。どこかに生き残っている人が居るかも知れない」
 答えながら、風田は心の中で付け加えていた。
(仮に生き残りが居たとしても見捨みすてる……見捨てて先へ進む)