出発。(その6)
「目が覚めたか……具合はどうだ?」
運転席の
「のど、かわいた」
由沙美が幼稚園児のような言葉づかいで言った。ねばつくようなガラガラ声だった。
「
隼人が荷室に手を伸ばして炭酸入りのグレープ・ジュースを取り、
「なんか、カロリー高そう。ゼロ・カロリー無いの?」
由沙美がペットボトルのラベルを見て言った。
風田が苦い顔になる。
「ダイエットは女子高生の必修科目って訳か? 安心しろ……これから食いたくても食えない日々が始まる。とにかく今はそれで我慢するんだな」
少女はボトルのキャップを
「あまり一気に飲むなよ。小便したくなるぞ。安全な場所が見つかるまで車外に出ない方が良いからな」
風田が注意した
「まじかよ……」風田が
「あ、あの……」
太史が後部座席から会話に割り込んだ。
「も、もうすぐ村営の……今は市営ですけど……ゲートボール場が見えてくると思います。ぼ、僕の記憶違いじゃなけりゃ、そこに公衆トイレがあったはずです……ナ、ナビには載ってないかも知れないけど」
「そりゃあ、助かる」
太史の助け舟に感謝したあと、風田は横目で由沙美を見た。
「そこまで我慢できるか?」
風田の問いに答えず、由沙美はプイッと窓のほうへ顔を
はっきり「我慢できない」と言わなかったから多少の余裕はあるのだろう、と、風田は勝手に解釈した。
二分ほど走った先に、〈村営・森の民ゲートボール場〉という看板があった。
「森の民ゲートボール場っていうのも、すごい名前だな」
「とにかく何でも良いから村営の施設に民話伝承っぽい名前を付けておけ、っていう時期があったみたいです」
「なるほどね」
小さな運動場のような、あるいはネットの無いテニスコートのような四角形の広場の隅に、ベンチと公衆便所があった。
ハイブリッド・カーを停車させる。
急いでドアを開け外へ出ようとする由沙美を、風田は「ちょっと待て」と言って呼び止めた。。
「良いか、周囲を良く見ながらトイレまで歩くんだぞ……人間の姿が見えたらとにかく逃げるんだ。人間と、猫の姿が見えたら、な」
最後に「わかったか?」と念を押す風田を無視して、由沙美は車外に出てドアを閉め、のろのろした足取りでトイレへ向かった。
「まったく、相変わらず反抗的で
運転席でぼやいた風田を、太史が「風田さんっ」と言って
ルームミラー越しに風田と
本当の事だとしても、
風田は振り返って、奈津美に「ごめん」と謝った。
* * *
前を走るハイブリッド・カーが停車したのを見て、事前の打ち合わせ通り、
ハイブリッド・カーの助手席側ドアが開き、女子高生がゲートボール場の公衆トイレへ向かうのが見えた。
「なるほど……あの女子高生、やっと
良い機会だから、少し前から我慢していた自分自身の生理現象も解消して置こうと、大剛原は運転席のドアを開けた。
「
車外に出ながら助手席に座る娘に声を掛ける。
「私も便所へ行ってくる。大きいほうだからな。少々時間が掛かる。なかなか便所から出て来なくても心配するな」
大剛原結衣が気まずそうな顔をして、小さな声で「そんな事わざわざ言わないで」と言った。
ドアを閉める直前、父親は助手席を
「時間が掛かると言っても、普段の結衣の半分で済ませて来るよ」
「もうっ、早く行って来て!」と怒り顔で言う娘の声をドアで遮断して、大剛原は、沖船由沙美の後を追うようにして公衆便所へ向かった。
歩きながら周囲に視線を配る。人影も、猫の姿も見えない。無意識に腰のホルスターに手を当てた。拳銃の存在に少しだけ勇気づけられた。残弾二発のリボルバーでも、丸腰でクルマの外を歩くよりずっとましだった。
* * *
「ねえ、
運転席のドアが閉まったのを確認して、
「えっと……本題に入る前に……大剛原さん、これから『結衣』って呼んで良い? 私も『玲』で良いわ」
助手席の大剛原結衣が
「どうぞ……よろしくね。玲」
「こちらこそ、よろしく……それじゃ、あらためて美遥、結衣……縁あって同じクルマに乗り合わせた同い年の女として、二人に相談があるの」
「相談?」
美遥と結衣が同時に聞き返す。
二人の顔を交互に見ながら、玲が話を続けた。
「相談、っていうより『提案』ね……大剛原警察官……結衣のお父さんが居たから話し
この女は何を言い出すのか、と、思いつつも、結衣は玲の問いかけに小さく
さらに玲が話を続けた。
「……結衣のお父さんには悪いけど、私の見方は違う……政府も警察も自衛隊も、もはやこの世に存在していないと思う……つまり、世の中の秩序を……大げさに言えば『文明社会』を維持管理する組織は、もう
「それは……ちょっと……そう結論づけるのは、まだ早すぎるんじゃないかな?」
結衣が反論した。
玲が「うーん」と
「じゃあ……良いわ、『仮の話』として聞いてちょうだい。仮に、警察も自衛隊も、政府そのものが消滅したとして、これから世の中は、人類はどうなると思う?」
「どうなる……って言われても……」
首を
「原始時代の暮らしに戻ると思う。最終的には文明も文化も
「そんな、いくらなんでも論理が飛躍し過ぎなんじゃ……」
結衣の端正な顔が、あきれ半分、
玲は、いかにも冗談めかして軽口を叩くような表情を浮かべていたが、その瞳は笑っていなかった。
「飛躍し過ぎ? そうかな? 私は、そうは思わないけど……まあ、今のところは『仮の話』って事で良いわ……で、ここからが本題なんだけど、『おちんちん
「お……おちんちん……」美遥が
「シェ……
おうむ返しに聞き返す二人に向かって、玲が
「そう。大事な事だから二度言うけど、『おちんちん
「レム……ああ、ハーレムの事か」
つぶやいた結衣の顔に、玲の視線が移った。
「高校時代、男子の一部が『ハーレム、ハーレム』言ってるの見て、『うわ、気持ち悪い』って思ってたけど……人類が文明も文化も失ってお猿さんに退化するっていうのなら、われわれ女から見ても、案外、ハーレムって悪い話じゃないよね……って、そういう逆転の発想よ」
玲が交互に女子大生二人の顔を見た。
「人類がお猿さんに戻ってしまった世界で……私たち女にとって……あえて言うけど、私たちメス猿にとって、一番大事な事は、何?」
二人の女子大生は「さあ?」といった感じで首を横に振った。
玲が自分の問いに自分で答える。
「いかにして、群れのリーダーつまり『猿山のボス』の
玲の仮説に、結衣が反論した。
「そんな……そりゃ……その考えは、ちょっと非人間的すぎるんじゃないかなぁ」
「そうね。人類が文明を維持できていれば、こんな考えは許されないでしょうね」
玲は、結衣の反論に
「でも、人間が人間的に生きるための文明という基盤が失われてしまったら? そう仮定したら、それも一つの考え方だ、って思わない? 正直わたしは、そう思う」
玲は「古い観念に
「さて、ボス猿の寵愛を受けるのがメス猿たちの目標になったと仮定して……メス猿たる我々は、その事とどう向き合ったら良いのか? 一匹のオスを巡って、血で血を洗う抗争を始める? でも、それってリスクが高すぎると思わない?」
「そ、それで、一匹のオス猿を……」美遥が言った。
「仲良く共有しましょう、って訳ね」結衣が言った。
「そういう事」玲が言った。
「何かの縁で一緒に行動する事になったこの
「うーん……」と美遥が
「まあ、理屈は……」結衣が玲を見て言った。「理屈としては、玲の言う事も一つの考え方だと思うけど……事実、自然界では良く見られるパターンなんだろうし……でも、そう上手く行くかな? 第一、その『ボス猿』? が、私たち三人を平等に愛してくれるという保証は無いでしょ?」
玲が「痛い所を突かれた」という顔をした。
「さすがね。思った通り、あなた頭が良いわ……おっしゃる通り、そこがこの理論の一番弱い部分。まあ今のところは……男が自制心を持って私たち三人を平等に扱ってくれる事と、私たち女どうしの信頼関係に期待するしかない、としか言えないわ」
「『男の自制心』と『女どうしの信頼関係』?」
結衣が
「そんな物、この世に存在するの?」