私立骸ノ森学園の事件簿

序章。

 少年が、仰向けに倒れていた。
 意識はあるが、指一本動かせない。
 かろうじて動かせるのは、目蓋まぶたと、二つの眼球と、呼吸のための筋肉だけだった。
 視界にあるのは、空と、森の木々と、自分が落ちた落差百メートルの崖。
 全身の骨が砕けてしまっている……五月下旬の青い空を見上げながら少年は思った。
(まだ、この技を試すのは早すぎたか……)
 垂直にそそり立つ岩肌を見た。
(自分の能力を過信してしまった)
 少年の名は明塚あきつか剣太郎けんたろう。もうすぐ十三歳になる。
 父の開発した格闘術理論を会得するため、ひとり森の奥深くで野宿をしながら修行を積んでいた。
 二か月前、研究所と住居を兼ねた小さな山小屋を出るとき「理論を完全に自分のものにするまでは二年でも三年でも森にこもる。それまで家に帰るつもりは無い」と、父に告げてあった。
 父であれ誰であれ、崖から落ちた自分を救助しに来る者がいるとは思えなかった。
(こうして何日も空を見上げながら飢えて死ぬのか……)
 崖の上に動くものがあった。
(……いや……飢え死にするより先に、森の獣どもに肉を喰われるか)
 崖の上の獣と目が合った。獣がサッと身を隠した。狼のようだった。
 しばらくして、森の下草をかき分けるガサガサという音が耳に入った。
 突然、視界の中に、狼の顔が現れた。鋭い牙。やや青みを帯びた灰色の毛並み。肉食獣特有の瞳が、興味深そうに自分を見下ろしている。
 狼にしては小柄だった。おそらく成体ではあるまい。やっと狩りを覚えた程度の若い個体か。
(くそ……何の反撃も出来ずに俺はこの子供みたいな狼に食われる……体がまともなら、怪我けがさえしていなければ、俺の方が狼を殺して食ってやったのに……)
 狼の顔が視界から消えた。しかし立ち去った訳ではなかった。一定の距離を置いて剣太郎の周囲をぐるぐる回っているのが、足音でわかる。
 足音がピタリと止まった。
(いよいよ、か)
 最初に喰いちぎられるのはのどぼとけか、内蔵か。
 が視界の中に現れた。先ほどの狼のように。
 少女だった。見たことも無いような美しい少女の顔が剣太郎を見下ろしている。黒く長い髪が顔の両側から垂れて、少年の頬をくすぐった。
 自分と同年代……十二歳か十三歳くらいに見えた。
 黒い大きな瞳が微笑んだ。美しい顔がゆっくりと下りてきて、少女のぷっくりとした唇が剣太郎の耳元でささやいた。
「助けてあげる」
 誰も居ないはずの森の奥で、美しい少女に出会い、救助される……しかし、頭の片隅で警告を発するもう一人の自分が居た。
(さっきの狼はどうした? まさかこの少女が追い払ったとでもいうのか? そもそも狼の足音は聞こえていたが、少女が近づいてくる音は聞こえなかった……そして、獣の足音がむと同時に、この美しい少女が現れた……)
 少女が続けて言った。
「私の一番大切なものを貴男あなたに上げれば、貴男あなたは助かるわ。
 ……でもタダでは上げられない。見返りが欲しい」
 少女の顔が少年の真上に来た。
 美しい瞳が剣太郎を見下ろし、少女の美しい瞳を剣太郎が見上げた。