青葉台旭のノートブック

「怪談牡丹灯籠・怪談乳房榎」を読んだ

作 三遊亭圓朝

角川ソフィア文庫版(kindle)

ネタバレ注意

この記事には、ネタバレが含まれます。

ネタバレ防止の雑談

『屍介護』を読んだ」というブログ記事の中で、私は次のように書いた。

仮に、至高のホラーを以下のように定義しよう。
『どう足掻(あが)いても恐怖の対象から逃れられず、最後に主人公が破滅する物語』

その一方で、アクション・エンターテイメントの王道は以下のようなものだ。
『正義の名の下に、主人公が必ず勝つ物語』

両者は本来、あい入れないジャンルだ。

いま読み返しても的外れだとは思わないが、少々了見の狭い原理主義的な物言いだったな、と反省している。

しょせんジャンルはジャンルだ。とりあえずの分類に過ぎない。
ホラーであろうが、なかろうが、純粋であろうが、なかろうが、物語は面白ければそれで良い。

また同じ記事の中で、私は次のようにも書いた。

結局のところスティーブン・キングを始めとする『モダン・ホラー』とは何かと言えば、純粋なホラーをあきらめる代わりに、『爽やかな読後感』『努力は必ず報われる』『正義は必ず勝つ』『勇気をふり絞って恐怖に立ち向かう姿勢は尊い』というエンターテイメントのお約束を手に入れたジャンルの事かも知れない。

この部分に関しては間違っていた。
よくよく考えてみれば、怪奇趣味と勧善懲悪を組み合わせた神話・伝説・創作は、古今東西、常に存在していた。
スティーブン・キングが最初でもないし、モダン・ホラーの専売特許という訳でもない。

酒呑童子の物語は、時の権力(みかど)に仕える英雄(=正義の味方)によって鬼が討伐され一件落着となる。

仏教が世に広まり善悪の基準になった時代、例えば「安達ケ原の鬼女伝説」では、物語の最後、鬼女は徳の高い僧侶によって調伏され、あるいは改心し、成仏する。

中世ヨーロッパなら、ドラゴンを倒すのは、敬虔なキリスト教徒の騎士だ。

江戸時代の物語なら、ヒーローは主君の仇を討つ忠義の人であり、親の仇を討つ孝心の人となる。

物語のラストで怪異(=ホラー)は正義の味方によって討ち取られ、世界は平和と秩序を取り戻す。
いつの時代も、これが大衆エンターテイメントの王道。
時代時代によって善悪の基準が違うだけ。
現在エンターテイメント界隈で主流の『正しさ』も、たまたま今の時代それが勧善懲悪の基準になっている、というだけの話だ。

勧善懲悪だからといって、即それが良い物語を保証する訳でもないし、即それが駄目な物語のレッテルという訳でもない。
反・勧善懲悪(=勧悪懲善?)の物語だからといって、良い物語という訳でもないし、駄目な物語という訳でもない。

以上、ネタバレ防止の雑談でした。

以下、ネタバレ。

まずは結論

「怪談牡丹燈籠」は面白かった。
「怪談乳房榎」はイマイチだった。

怪談と題されているが……

題名に「怪談」とあるが、現代の感覚からすると怪談要素・ホラー要素は少ない。
現代の感覚でホラーを期待すると肩透かしを食らう。

「牡丹燈籠」のメイン・プロットは、あくまで旗本飯島家のお家騒動と主人公・孝助の仇討ちであり、中国の「剪灯新話」を元ネタにした幽霊話はサブ・プロットに過ぎない。
しかも、メイン・プロット(仇討ち)とサブ・プロット(幽霊話)は、ほとんど交わらない。

「乳房榎」も同様だ。
やはりこちらもメイン・プロットは仇討ちであり、怪異と言えば菱川重信の幽霊が現れるくだりと、重信の妻おきせの乳房に出来た腫瘍を切ったら中から膿(うみ)といっしょに異形の鳥が現れる場面くらいだ。
(このシーンは非常にグロテスクであり、印象深い)

この時代の「怪談」は、「不思議な物語」あるいは現代で言うところの「ファンタジー」をも含んだ広い概念だったのだろう。

不思議な運命の糸に操られて人々が望みを達成する物語、あるいは逆に破滅へと突き進む物語も含めて「怪談」だったのかも知れない。

『牡丹灯籠』の面白さ

上で述べた通り、その題名に反して『牡丹灯籠』のメイン・プロットは主人公・孝助の仇討ちであり、夜な夜な牡丹をあしらった灯籠を持って現れる女幽霊の話はサブ・プロットに過ぎない。

現代の『ホラー』を期待すると肩透かしを食らう。

それでも、私は『牡丹灯籠』の物語を楽しんだ。
この面白さは何処(どこ)から来るのだろうか?

牡丹灯籠の魅力その1、文体

まず第1に、文体の味わいだ。

『牡丹灯籠』も『乳房榎』も、三遊亭圓朝の実演を速記し、活字に起こした物らしい。
そのため、明治半ばの作品でありながら、口語体で書かれている。

圓朝の声を実際に聞くことは叶わないが、活字で読んでも充分に味わい深い。

牡丹灯籠の魅力その2、登場人物の心の弱さ

第2の魅力は、根っからの極悪人でもないのに(状況に流されて)大罪を犯してしまう登場人物たちの、その心の弱さだ。

まず主人公・孝助を『忠義・孝心』の純粋な体現者、いわゆる『正義の味方』として設定し、その対局に純粋な悪の体現者、今で言うところのジョーカー的なヴィランとして源次郎を配置する。
両者の葛藤が物語の本筋だ。

この部分だけに注目すると、単なる「良いもんが悪もんをやっつける」という話でしかなく、正直、現代の感覚だと御都合主義にさえ思えてしまう。

この物語を面白くしているのは、それ以外の登場人物だ。
善悪両者の間で右往左往する、聖人にも極悪人にも成り切れない人々。
不思議な運命の綾から、そして何より彼ら自身の愚かさ・意思の弱さ・欲深さから、殺人の大罪を犯してしまう人々。
彼らの描写が、何とも言えない味わいをこの物語に与えている。

落語という表現形式

落語に関して、私は全く詳しくない。

何となく、落語というのは1幕ものの会話劇(喜劇)で、登場人物も2人か3人程度だと思い込んでいた。

しかし実際この「牡丹灯籠」を読んでみると、悲劇的な色調の強い壮大なドラマだった。

登場人物が多く、シーンの切り替わりも非常に多い。
これをひと晩で語り切っていたのかと驚いたが、よくよく調べてみると、どうやら何晩にも渡って分割して語られていたらしい。
今で言う、連続テレビドラマのような感覚だったのだろうか。

江戸の怪談

現代のホラー、特にJホラー・ブーム以降の作品は、以下のような仮説に基づいて作られていると思う。
「因果応報のホラーは怖くない。『理由もなく呪われる』のが真のホラーだ」

これはこれで的を射ていると今でも思っている。

その一方で、今回はじめて『牡丹灯籠』を読み、江戸〜明治初期の怪談には現代のJホラーとは別の面白さがあると知った。

現代の定義に照らしてこれが怪談であるか否か、ホラーであるか否かは関係ない。
壮大なドラマとして、また文体を味わう芸術として、とても良い作品だった。

運命に操られ破滅へと向かう人間の弱さ愚かさを描くという点で、ちょっとシェイクスピアを思い出した。
いや、シェイクスピア以上に本作品の登場人物は弱くて愚かだ。その如何(どう)しようも無さこそが魅力だ。

2022-07-17 19:01