青葉台旭のノートブック

映画「ドント・ルック・アップ」を観た

Netflix にて。

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脚本 アダム・マッケイ
監督 アダム・マッケイ
出演 レオナルド・ディカプリオ 他

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この記事にはネタバレが含まれます。

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ひとこと感想

良い映画だった。
皆さんは、最初の数十秒を観ただけで「あ、これは良い映画だ」と直感し、実際その通りだったという経験があるだろうか?
ごく稀(まれ)だが、そういう経験が私には何度かある。
この映画「ドント・ルック・アップ」が、正にそれだった。

何なんだろうね。始まってすぐに「良い映画だ」って分かっちゃうのって。
まさか超能力という訳でもあるまい。
カメラの構図とか、カットの割り方の上手さから、無意識にそう判断しているのだろうか。

久しぶりに観た、品の良いコメディ映画だった。
こんなに力のある監督は、ぜひ名前を覚えておこう……と思ったら「マネー・ショート」の人か。
「マネー・ショート」の時には、ブラット・ピットが伝説の相場師として出ていて、いかにも田舎臭いオッサン(実はインテリ)といった感じの、味のある演技をしていた。
本作品では、主演のレオナルド・ディカプリオが、やはり田舎臭いオッサン(実はインテリ)を演じていて、やっぱり味のある演技をしていた。
良い年齢(とし)をした大スターの「野暮ったい田舎のオッサン」演技って、ほんと良いよね。

ディカプリオだけでなく、脇を固める出演者たちも皆んな、芸達者で魅力的だった。
出てくるキャラクター(アメリカ上流社会の紳士淑女)たちが、揃いも揃って底の浅い俗物ばかりなのだが、それを演じる役者たちの実力が素晴らしく、「ああ、こういう奴って、本当に居そうだよなぁ」と思わせる。

アリアナ・グランデのテレビ出演→元カレのサプライズ出演→さらにテレビ出演中のプロポーズのくだりとか、もう最高に気持ち悪くて、最高。
そのアリアナが終盤にチャリティー・コンサートを開いて、そこでフィアンセとデュエット・ソングを歌う所も、すごく気持ち悪くて、最高。
それにしても……アリアナ・グランデの歌を初めて聞いたが、微妙に音痴な歌姫やな。
それとも、この「微妙に音痴な歌」も含めて、お馬鹿アイドル歌手というキャラ作り・役作りなのだろうか?
余談だが、同監督の「マネー・ショート」には、アイドル女優・歌手のセレーナ・ゴメスが本人役で出ていた。
今回のアリアナも、役名こそ違えど、アリアナ本人のパブリック・イメージを明らかに想起させる作りになっていて、ある種「お馬鹿アイドルを演じる、お馬鹿アイドル(と、世間では思われれいる)本人」というメタ構造になっていた。
言うまでもないが、アリアナ・グランデにしろ、セレーナ・ゴメスにしろ、メタ演技ができる時点で実際には単なる『お馬鹿アイドル』ではない。

アリアナ・グランデだけでなく、
『少年のようにピュアな心を持つ天才』のふりをしている、実際には金の亡者のIT経営者とか、
ゲストの立場が変わると、さりげなく接し方を変える男性ニュース・キャスターとか、
そういう、いかにもアメリカ上流社会に住んでいそうな「わりと知能が高くて学歴もあって洗練されているんだけど、どうしようもない俗物で金の亡者」な魑魅魍魎キャラクターを演じる芸達者な俳優陣の演技は、観ているだけで楽しい。
このニュース・キャスターはタイラー・ペリーって言うのか。

えっ? 最後の方に出てきた田舎の不良兄ちゃんって、デューンの超絶美形な若様なの?
まったく私は、役者の顔と名前を覚えられない。

大統領役のメリル・ストリープは、ちょっと演じ過ぎのような気がしたが、それ以外の役者たちの演技は総じて肩の力が抜けていて、押し付けがましい所が無く、それがこのコメディを上品なものにしていた。
品が良いといえば、シーンの切り替わりも品が良い。
ある1つのシーンの葛藤に決着が付く前に、その決着を最後まで見せず、スパッと次のシーンへ場面を切り替えていた。

余談(自分語り)

ある程度の数のハリウッド・エンタテイメント映画を観ると、話の構成にパターンがあるのではないだろうか? という疑いを持つようになる。

  1. まだ何者でもない主人公の、平凡で退屈な毎日。
  2. ある日、事件に巻き込まれる。
  3. わけも分からず必死の思いで事件の元凶を取り除き、その結果、一時(いっとき)ヒーローに祭り上げられる。
  4. いい気になって自分を見失う主人公と仲間たち。
  5. 有頂天になり自分を見失った結果、その『しっぺ返し』を食らい、一気に失意のドン底へ突き落とされる。
  6. ドン底で『本当に自分がやるべきこと』に目覚め、再び立ち上がる。
  7. 最後のクライマックス、ラスボスとの決闘。
  8. 大団円。

ざっと、こんなパターンで2時間の物語が進行している。
ファンタジーだろうが現代ラブコメだろうがスーパーヒーロー物だろうが、多くがこのパターンに従って進んで行く事に気づく。

そしてある時期、「ハリウッド脚本術」みたいな本を読み漁った私は、実際、ハリウッド映画が『お決まりのパターン』に従って作られている事を知って、ちょっとだけ冷めてしまう。

2時間の映画の開始30分あたりで、主人公と仲間たちが最初の「中ボス」を倒し、有頂天になって浮かれ騒ぎを始める様(さま)を観ながら、私はボンヤリと「いい気になっている主人公に、そろそろ手痛い罰が下される頃合いかな?」なんぞと思ってしまう。
主人公が浮かれて自分を見失っている描写は、その後に来る手痛い『しっぺ返し』の前振りなんだろうな、などと余計なことを考えてしまう。

物語のちょうど半分、1時間が経過したころには、ドン底に落とされ打ちひしがれている主人公を観て「そろそろ『本来の自分』を取り戻し、『本当にすべき事』を自覚して、再起を誓う頃合いかな?」などと思ってしまう。

2022-01-06 07:24