青葉台旭のノートブック

ドラマ「刑事コロンボ 殺人処方箋」を観た

U-NEXT にて。

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脚本 リチャード・レヴィンソン、ウィリアム・リンク
監督 リチャード・アーヴィング
出演 ジーン・バリー 他

刑事コロンボ・シリーズの記念すべき第1作。

1968年放映。

ジーン・バリーは、1953年『宇宙戦争』で主演を務めている。

ネタバレ注意

この記事にはネタバレがあります。

ネタバレ防止の雑談

どの国であれ、外国映画を観る動機の一つに『異国情緒』(エキゾチシズム)があると思う。

ストーリーがどうだとか、カメラ・アングルがどうだとか、俳優の演技がどうだとか以前に、まず何より『外国の映画である』という事自体が、そもそも一つの魅力なのだなと思う。

そこに映し出される知らない街の風景が、視聴者にとっては既に魅力だ。

たとえ現実社会・現代社会が舞台であったとしても、外国であるというだけで、ある種の『異世界ファンタジー』なんだと思う。

一方で、『実際その国へ行けば、我々と大して変わらぬ人々が、我々と対して変わらぬ平凡な日常を送っているのだろうな』とは、頭の片隅の何処(どこ)かで常に思い続けているが。

人は常に『ここではない何処か』を探し求めている。
しかし、どんな非日常も、そこで暮らし続けていれば日常になる。
私が旅先で感じた非日常は、現地の人々にとっての平凡な日常だ。

海外のインターネット・ミーム(=ネット上の流行語)に、こんな物がある。
『我々は、地球を探検するには生まれるのが遅すぎた。宇宙を探検するには生まれるのが早すぎた』

グーグル・マップとストリート・ビューが全世界を網羅(もうら)し、世界中ありとあらゆる場所にマクドナルドとスターバックスの看板が並ぶ現代に於(お)いて、真の意味での『秘境』は地球上から消滅してしまった、そんなものはもう何処にも存在しない、という意味だ。

エベレストの山頂でさえ観光地化され、押し寄せた観光客たちの捨てたゴミが至る所に散乱している、という話も聞く。

我々が外国映画に感じる異国情緒(エキゾチシズム)も、今では薄れてしまった。

「そもそも異国情緒などという物を外国映画に求めること自体、映画の鑑賞方法として不純だ。邪道だ」
と言われれば、「おっしゃる通りです。反論の余地もございません」と謝るしかない。

以上、ネタバレ防止の雑談でした。

以下、ネタバレ感想です。

1968年のロサンゼルス

本作品が放映された1968年のロサンゼルスが、なんだかレトロで、エキゾチックだ。

今(2021年)から53年も前の、アメリカ映画産業のお膝元。

やけに平べったく無駄に大きな『アメ車』が街の通りを埋め尽くしている。

我々の住む現代社会と地続きでありながら、どこか現実離れした風景が心地良い。

53年前といえば、もはや『時代劇』『歴史劇』の範疇だからなー。

日本初の大衆時代小説『大菩薩峠』の連載開始が1913年。
その大菩薩峠の舞台となった時代が、安政5年(1858年)
その差、55年だ。

当時リアルタイムで新聞連載を読んでいた読者にとって『大菩薩峠』が遠い過去の物語(=時代小説)だったというのなら、現代に生きる我々にとっての『刑事コロンボ』も、もはや充分に『時代劇』と言って良いのかも知れない。

逆に言えば、『大菩薩峠』連載当時の読者と主人公・机龍之介との距離感は、我々とコロンボくらいの距離感でしかなかったという事か。

倒叙ミステリー

推理小説(ミステリー)には『倒叙もの』と呼ばれるサブ・ジャンルがある。

まず物語冒頭、周到に計画された犯行の様子を描き、その完璧と思われた犯行計画を、あとから登場した探偵が徐々に切り崩していくタイプの推理小説だ。

通常の推理小説とは物語の描かれ方が逆になっているから、『倒置された叙述=倒叙』という訳だ。

一見、完璧に思われた犯行計画が徐々に切り崩され、犯人がだんだん追い詰められていく様子を見て楽しむジャンルだ。

『刑事コロンボ』も、この『倒叙』タイプに属する。

コロンボは『ザマァもの』で『貴種流離譚』?

『小説家になろう』などのネット小説界隈には、『ザマァ』というネット・スラングがある。
『ざまぁ見ろ』の略だ。

『物語の序盤で主人公をバカにして虐(いじ)めていた敵役が、物語の終盤で主人公と立場が逆転し、ひどい屈辱を味わう』
というお決まりの物語パターンを指す。

序盤、敵役が性根の曲がった嫌なヤツである事をコッテリと描写し、最後にその敵役が主人公に負けて屈辱に塗(まみ)れる様子を、これまたコッテリと描く。
身も蓋もない言い方をすると、ある種の倒錯したサディズムを味わう小説だ。

話をコロンボに戻す。

『刑事コロンボ』の特徴として良く言われているのは、『犯人は上流階級・知的エリート階級に属している』という定型だ。

犯人は、単にお金持ちであるだけでなく、医者・弁護士・売れっ子小説家・美術評論家など、インテリ職業の場合が多い。

そのキザで鼻持ちならない上流インテリ名士の犯人たちが知恵を絞って周到に準備した犯罪を 、ヨレヨレのコートを着てボロボロの中古車から現れたコロンボが徐々に切り崩し、犯人を追い詰める。

最初、犯人はコロンボをバカにする。「こんな小汚い姿のドン臭そうな男が、インテリ階級の俺様によって周到に立てられた犯罪計画を見破るはずがない」と。

ところが物語が進むにつれて、その小汚なくてドン臭そうだった小男が、実は犯人より一枚も二枚も上手の、鋭い知性の持ち主であると分かる。
彼を小馬鹿にしていた犯人は焦り始め、追い詰められ、最後には逮捕の屈辱を味わう。

まさに『ザマァ』だ。

物語の序盤で犯人がコロンボをバカにすればするほど、後半の逆転劇で落差が生まれ、観客の味わう『ザマァ』の快感が強くなる。

『刑事コロンボ』を含めた『ザマァ』系物語の構造を見てみよう。

  1. 最初は、周囲や敵から小馬鹿にされる主人公
  2. 中盤から終盤にかけて徐々に明かされる主人公の優位性(特殊な戦闘術の使い手である、知力・芸術的センスに秀でている、魔法や超能力など隠された力がある、実は地位が高い、など)
  3. 鮮やかな逆転劇

のちの『ランボー』や『ダイハード』にも見られるこの構造は、物語論的に言えば『貴種流離譚』にその源流があると思われる。

『貴種流離譚』とは、例えば『みにくいアヒルの子』の、

  1. 最初は周囲から馬鹿にされていた醜(みにく)い子アヒルが、
  2. 実は、何らかの事情でアヒルの巣に紛れこんだ(流離した)、白鳥の子(貴種)であり、
  3. 最後に美しい白鳥となって舞い上がり、自分を馬鹿にした他のアヒルたちを空から見おろす。

という物語構造の事だ。

『シンデレラ』や、日本の『鉢かつぎ』『姥皮』などの『継子(ままこ)いじめ譚』も、広い意味では『貴種流離譚』の一種とも言える。
高貴な生まれの美少女が、その美しさを封印され継母に虐(いじ)められるが、最後はその秘められた美しさや高貴な生まれゆえの教養の高さが現れて、それまで彼女を馬鹿にしていた周囲の人々が驚き、虐めていた継母が罰を受けるという類型だ。
こちらも「冒頭で馬鹿にされる主人公→やがて隠された才能が発現し、立場が逆転する」のが、話のポイントだ。

ここまで書いて気づいた。
そうか、『小説家になろう』の『ザマァ』とは、『貴種流離譚』の亜種だったのか。

『ザマァ』的サディズムは、太古より我々のDNAに刻まれた物語嗜好という事か。

ちなみに、『みにくいアヒルの子』などに代表される貴種流離譚に対し、しばしば政治的な批判を繰り広げる人たちも居るが、物語の構造を見るコツは『政治的な立場をいったん棚上げにして共通項を見つけ出す』事だ。

話をコロンボに戻す。

これまでの通説は、
「小汚くドン臭い小男と見られ馬鹿にされていた刑事が、実は並外れた知性と推理力の持ち主だった。序盤、犯人はその刑事を馬鹿にするが、徐々に追い詰められ、ついに馬脚を現して破滅する。その犯人の追い詰められっぷりを楽しむ物語」
それが『刑事コロンボ』である、というものだった。

別の言い方をすると、
「最初はシンデレラを馬鹿にしながら贅沢に暮らし、次にシンデレラの才能の発現に怯え、最後は過去の罪を暴かれて罰を受ける『継母』の没落っぷりを見て『ザマァ』する物語」とでも言おうか。

実は、犯人に感情移入するように作られていた

今回あらためて『刑事コロンボ』の第1話『殺人処方箋』を観て気づいたのが、『犯人に感情移入するよう』観客を誘導する話づくりと演出だ。

『首を絞めて殺したはずの妻が、実は完全には死んでいなかった。その事をコロンボから告げられた犯人が、コロンボと一緒に病院へ行く』
というシーケンスを見たときに気づいた。

そのシーケンスに於(お)ける問題解決は、「結局、妻は意識が戻らぬまま死んでしまいました」という呆気(あっけ)ないものだ。
犯人が知恵を絞り、タイミングを見計らって今度こそ確実に息の根を止めた……という訳でもない。
完全無欠インテリ上流紳士さまである筈(はず)の犯人は、ただオロオロと狼狽(うろた)えていただけだ。

仮に、前章で述べた通説に従い、本作品を「インテリ上流階級の犯人が落ちぶれていくさまを見て『ザマァ』する物語である」と規定するなら、このシーケンスは明らかに余計だ。
観客は、こんな『犯人のマヌケな失敗』を見たい訳じゃない。
インテリを自認するプライドの高い犯人が、そのプライドをコロンボに折られて膝をつく様を、この目で見たいんだ。
あくまでも犯人は『知的で用意周到』であるべきだ。それでこそ、コロンボにとって打ち負かし甲斐があるというものだ。
最初からマヌケな犯人を負かしたところで、面白くも何ともない。

ところが、このシーケンスでの犯人は、単に「妻が意識を取り戻したら、どうしよう?」とハラハラ、ドキドキしていただけだ。
あげくの果てに、その胸の内を見透かされ、コロンボに疑いの目を向けられてしまう。

そんな間抜けな犯人の「ハラハラ、ドキドキ」に対し、なんと驚いたことに、本作品は観客の感情移入を誘導するように演出されている。

もしこの作品に於(お)ける『犯人』が、ひたすら『ザマァ』をするだけの対象だとしたら、こんなサスペンスなどは必要ない筈(はず)だ。

サディズムとマゾヒズム

そろそろ本記事の結論を述べよう。
『刑事コロンボ』とは、以下に述べるようなエンターテイメント作品だ。

「インテリ上流階級の犯人が、コロンボに追い詰められ、最後に破滅する様子を見て楽しむ」サディズム作品である。

……と、同時に……

「徐々に追い詰められていく犯人に感情移入してハラハラドキドキのサスペンスを楽しむ」マゾヒズム作品でもある。

なんと、一本の映画でサディズムとマゾヒズムの両方を同時に味わえる『ひと粒で二度おいしい』作品だった。

演出や物語の運び方によっては、一本の映画の中で『犯人を追い詰めるサディスティックな快楽』と『犯人の身になって追い詰められていくマゾヒスティックな快楽』の両方を観客に味わわせる事ができる。
……と、今回この作品を観て学んだ。
これは私にとって嬉しい発見だった。

追記 (2021.5.16)

コロンボが貴種流離譚である、っていうの言い過ぎだったかな。
ちょっと飛躍しすぎたかも知らん。
別に貴族の生まれとかでもないし、放浪とかもしてないし。

『物語の冒頭では馬鹿にされていた主人公が、実は何らかの優位性を隠し持っていて、ついにクライマックスでその隠された能力が発現し、主人公を馬鹿にして虐(いじ)めていた奴らが罰を受ける』
っていう物語の類型に、なんか良い名前は無いだろうか?

そういう分類クラスが、『貴種流離譚』と『継子いじめ譚』の両方を包括する上位クラスとしてあると思うんだけどな。

『馬鹿にしてた奴らを見返してザマァ譚』とか?

2021-05-15 12:22