青葉台旭のノートブック

映画「マンク」を観た

Netflix にて。

Netflixのページ

脚本 ジャック・フィンチャー
監督 デヴィッド・フィンチャー
出演 ゲイリー・オールドマン 他

最近、ネットフリックスのページに行くと必ずこの映画がトップに表示される。
なんか面白そうだったので観ました。

ネタバレ注意

この記事には、映画『マンク』のネタバレが含まれます。

ネタバレ防止の雑談

芸術の世界では、いよいよプロとアマチュアの垣根が無くなったなぁ、というお話。

YOUTUBE をつらつら観ながら、そんな事を思った。

「プロとアマの違いは何ですか?」と聞かれた時、
「YOUTUBEからの収益だけで生活している人がプロのユーチューバーで、それ以外はアマチュア・ユーチューバー」としか答えようがない。
しかし、これでは同義反復にしかなっていない。
「現代美術館に展示されている物が、現代美術である」みたいな感じだ。

「誰でも15分だけ有名人になれる」と、20世紀に活躍した現代芸術家は言った。
おそらく、これは、当時アメリカで頻繁に放送されていた素人参加型テレビ番組を念頭に置いた言葉だろう。

そして2020年現在。
インターネットの発達に伴い、各種ウェブ・サービスは世界中に浸透した。
「携帯電話ひとつあれば、誰でも世界中に自分の作品を発信できる。ただし、それで有名になれるかどうかは、あなた自身のやり方次第」と言ったところだろうか。

ネタバレ防止の雑談(その2)

マンクを観ていて、こんな事を考えた。
「もし『市民ケーン』の主人公チャールズ・フォスター・ケーンが現代に転生したら、一体どの業界でその辣腕を振るうだろうか?」と。

この答えは、すぐに出た。
「まず間違い無く、IT業界を目指すだろうね」

私は未見なのだが、本作品の監督デヴィッド・フィンチャーは、以前「ソーシャル・ネットワーク」という映画を撮っている。
聞いた話によると『市民ケーン』の影響を強く受けた作品らしい。
IT業界の若き巨人・フェイスブック創設者マーク・ザッカーバーグを、1930年代に活躍したという設定の架空の新聞王ケーンに準(なぞら)えた物語、という事になる。

だとすれば、フィンチャー監督も私と同様に、1930年代アメリカ勃興期のマス・メディアと現代のIT業界との間に何らかの共通点を見出したのだろう。

それは、ひとことで言えば『急速に大衆の支持を得て拡大する新興メディアと、それに群がる資本家・クリエーター・有象無象の野心家ども』という感じだろうか。

アップルの創設者スティーブ・ジョブス
マイクロソフトのビル・ゲイツ
アマゾンのジェフ・ベゾス
グーグルのラリー・ペイジとセルゲイ・ブリン
ツイッターのジャック・ドーシーとエヴァン・ウィリアムズ

……この現代IT企業家・資本家の紳士録を見て、何か『市民ケーン』的なものを感じた人は私だけではないと思うが、どうだろうか?

『市民ケーン』的なものを別の言葉に置き換えるとすれば『夢想家、野心家、大胆さ、自己中心的、アクの強さ、えげつなさ、少年っぽさ』などと表現できる人物像だ。

日本で言えば、ソフトバンクの孫正義やホリエモンなどが、それに相当するか。

以下、ネタバレ感想になります。

予備知識

『市民ケーン』は、若い頃に1度観ている。
素晴らしい映画だと思った。
ただ、実在のモデルがいる事は知らなかった。

この映画が始まって1時間が経った頃、マンクと大富豪の娘が庭を歩くシーンがあった。

庭が動物園になっていた。

驚いた。

え? 市民ケーンて、実在の人物がモデルだったの?
って事は、この女、ケーンの2番目の妻の元ネタ?
って事は、こいつ大富豪の娘じゃなくて、愛人?
『パパ』って、そういう意味の『パパ』なの? 『パパ活』的な?

画面が締まっていると、それだけで気持ち良いから見続けられる

まず、この映画を観て思ったのは、
「頭の良い人が作った映画は、画面の隅々にまで神経が行き届いていて気持ちが良い」
という事だった。

頭の良い人の作った映画を観ると、掃除が行き届いてチリひとつ無い部屋に入ったような気持ち良さを覚える。
そこに居るだけで気持ちが良いから、ストーリーがどうであれ、最後まで観続けてしまう。

アール・デコ

私は、1920年代・30年代・40年代にアメリカで隆盛を極めたアール・デコ様式の建物が大好きだ。

その、レトロ感と現代性の絶妙な混ざり具合が醸し出す奇妙な『異世界』感が好きだ。
完全な別世界というよりは「現代から少しだけズレた風景」が好きだ。

そのアール・デコ様式の建物を(作り物のセット・CGであるにせよ)これでもかと見せてくれた本作品は、私にとって眼福だった。

1930年代のハリウッド

前述のとおり、現代の『新興メディア』といえばインターネット・IT業界だ。

一方で、映画産業を『新興メディア』と呼ぶ人は居ないだろう。もはや映画は立派な『伝統的メディア』だ。

しかし1930年代に於(お)いては、映画はまさしく現代のITのような存在だったに違いない。

テクノロジーの進歩が可能にした新たな表現形態、新たな大衆娯楽としての地位、生み出される巨万の富、それに引き寄せられる資本家、クリエーター、有象無象の山師たち。
そして沸き起こるゴールド・ラッシュ。

そのゴールド・ラッシュに沸く1930年代ハリウッドの活写が、観ていて気持ち良い。

「若い産業、若い業界って、良いなぁ」と。

後(のち)の〇〇である

インターネット・ミーム(流行語)に、『後の〇〇である』というものがある。
おそらく元ネタはNHKの大河ドラマあたりだろう。
「この男こそ、木下藤吉郎……のちに天下統一を果たす豊臣秀吉その人である」みたいなナレーションが大河ドラマには時々あるが、あれの事だ。

で、本作品に次から次へとゾロゾロ出てくる男たちの名前だが、彼らは皆な『のちに名作〇〇の監督となる〇〇である』的な人物なんだろうな、とは予想できる。
しかし、何しろ私自身がハリウッドの歴史について詳しくないため、画面上に次々現れては消える人々を、初見ではボンヤリ眺めるしかなかった。

置いてけぼりを食らった感じだ。

アメリカ知識人が好むキャラクター造形

本作品の主人公マンクを観て直ぐに、私はこう思った。

「いかにも、アメリカ人が……特にアメリカの文化人たちが好みそうなタイプだな」

レイモンド・チャンドラーというハードボイルド作家が、本作品と同じ1930年代から50年代にかけてのハリウッドを舞台にして小説を書いていた。
彼の作品に登場するフィリップ・マーロウという探偵は、とにかくアメリカの作家たちに大人気だ。
どうやら、アメリカの知識人にとって探偵フィリップ・マーロウは理想的な人物像らしい。

そのマーロウ探偵に、本作品のマンクは良く似ている。

大酒飲みで、シェイクスピアやドン・キホーテの一節をそらんずるインテリで、反骨精神が旺盛で、政治的には右にも左にも与(くみ)せず、そもそも徒党を組むのが嫌いで、辛辣な毒舌家で、皮肉屋で、何事にも表があれば裏もあると達観していて、それでいて彼なりの倫理観があり、曲がった事が嫌いで、博打好きで、借金まみれで、実は情に厚い。

そして『自己憐憫』

自分の妻に『なんで俺と別れないんだ?』と何度も尋ねる姿から、彼が自己憐憫的な気質であると分かる。

そもそも大酒飲みであるという時点で既に、彼は自己憐憫的な人間だ。
普段は酒を飲まない人が、たまの宴会でパーッと酒を飲むというだけなら良い。それは発散であり、開放だろう。
しかし、中年の男が日常的・常習的に酒を飲み続けているとなると、これはもう自己憐憫以外の何物でもない。

話の運び

田舎で『市民ケーン』の脚本を書いている1940年現在と、1930年からの回想シーンが交互に映される。
この特殊な構造に関しては、たぶん多くの映画レビューで考察されると思うので、私は別の視点で本作品の話運びを考えたい。

まず、この映画がタイトル通りハーマン・J・マンキーウィッツに関する映画だというのは、早い時点で理解した。
前述のとおりマンクの人物造形が『いかにもアメリカの知識人好み』だった事に加えて、カメラがずーっとマンクしか見ていなかったからだ。

『一方その頃、ライバルの〇〇は……』とか、『一方その頃、仲間の〇〇は……』という描写が無い。
ずーっと、マンク自身と彼の居る場所だけを写し続ける。

それで主人公が能動的に活躍してくれれば良いが、終始マンク氏は傍観者の態度を崩さない。
街頭演説をする州知事選の立候補者に対しても、痛ましそうな表情を浮かべて遠くから見ているだけだ。

交互に差し込まれる1940年現在と1930年代の回想シーンは、構造だけを見れば、どちらも同じことの繰り返しだ。

〇回想シーン
「マンクが誰かの所へ行く」→「相手と二言三言しゃべる」→「その場所から去る」

〇現在シーン
「マンクの所に誰かが来る(電話する)」→「相手と二言三言しゃべる」→「相手が立ち去る(電話を切る)」

延々、これの繰り返し。

この構造で何が表現されているかと言えば、第1に「マンクという魅力的なキャラクター」そして第2に「勃興期のアメリカ映画産業に集う、魅力的で悪どい男たちの群像」だ。

以上が、初見の感想

以上が、1度目に本作を観たあとの私の感想だ。

整理すると、この映画の魅力は以下の2点になる。

  1. ハーマン・J・マンキーウィッツという魅力的な人物をズーッと見つめ続ける。その立ち居振る舞いを愛(め)でる。
  2. マンクの周囲に出入りする映画関係者たちを点描することで、1930年当時の新興メディアだった映画産業が、ハリウッドの地で爆発的に成長していく姿、その若々しい活力を生き生きと描く。また、そこに集う資本家やクリエーターたちの魅力を、良い面・悪い面、清濁合わせて描写する。

言ってみれば、これは日常系アニメだ。
私立『1930年代ハリウッド』学園に通う、マンクちゃんという名の可愛らしい『萌えキャラ』と、その周りに集う何人もの『萌えキャラ』映画人たちが、キャッキャ言いながら映画を作ったり作らなかったりする、その様子をただ眺めて愛(め)でるという映画だ。

しかし……それだけだろうか?

物語らしい物語もなく、ただひたすら1930年代のハリウッドに生きる男の日常を描写し続ける映画なのだろうか?

この映画を最初から最後まで貫く縦糸は存在しないのだろうか?

ネットでブログ感想記事を検索してみた

私には、映画を観終わったあとその作品の感想ブログ記事をネットで検索して読む習慣がある。

今回も、いくつかの感想ブログを読んでみた。

1934年の州知事選挙中にフェイク・ニュースが流され、自責の念に駆られた仲間が自殺するという劇中の事件に着目し、その怒りがマンクをして『市民ケーン』を書かせたという説を唱える人もいた。

私も初見の時は、仲間の監督が自殺するシーンを観ながら『ああ、そういう展開になるのかな?』と思っていた。

しかし実際には、そんな展開にはならなかった。
『悪代官と悪徳商人に仲間を殺された男が復讐に立ち上がる』みたいな勧善懲悪譚にはならなかった。

仲間が自殺した後、いったん時系列が現在(1940年)に戻り、そして再び回想シーンになると、どうやら誰かの葬式の最中らしい。

当然、視聴者である私は思う。『ここで主人公マンクは親友の墓前で拳(こぶし)を握りしめ、墓の下で眠る友に復讐を誓うのだな』と。

しかし直後、これが自殺した友人の葬式ではなく、どころか全く逆で、フェイク・ニュース計画の発案者・敏腕プロデューサーの葬式だったと分かる。

後で確認したら、この葬式のシーンの年は1936年。友人の自殺から既に2年もの歳月が流れている。

これは明らかに、デヴィッド・フィンチャーが観客に仕掛けた『ひっかけ問題』だ。

このシーンを観た人は、誰しもが私と同じように思っただろう。
「親友の葬式・復讐を誓う主人公キターッ!」→「え? そっち? 悪徳プロデューサーの葬式? なんで?」と。

この「ひっかけ」には、確かに何らかの意図があると思った。
ただ観客を煙に巻くためだけに、わざわざフィンチャーがこんなトリッキーな見せ方をしたとは思えない。

この葬式の場面で、もう一つ気になるシーンがあった。

MGMの社長がハンカチで涙を拭きながら葬儀場から出てくる。
そして車に乗り込んだ直後、そのハンカチを路上に捨てる。
それを見たマンクが、何とも言えない微妙な表情をする。

私は、このマンクの表情がとても気になった。

ここで、いったん時間軸が現在に戻り、次の回想シーンで、いよいよマンクは本丸に乗り込んでメディア王と対峙する。

何なんだ? このストーリー展開は?

どうにもモヤモヤしたので、もう1回観ました

映画「マンク」鑑賞、第2ラウンド。

今度は、全画面モードをやめて、パソコンの画面上にウィンドウを2つ開き、新しい登場人物が出るたびに一旦Netflixを停止させ、Wikipediaのウィンドウに移動して、そいつが何者なのかをいちいち検索しながら鑑賞した。

そして、やっと、この映画の縦糸が見えて来た。
この映画のテーマが見えてきた。

本作品のテーマ

この映画のテーマは、これだ。

『スタジオ・システム全盛の1930年代アメリカ映画業界にあって、一人の男が、クリエーターとしての自我に目覚めて行く物語』

おそらく物語が始まった時点のマンクは、クリエーターとしての自覚が希薄だったのだろう。
1930年代のスタジオ・システムに於(お)いては、役者も脚本家も監督も、みんな映画会社の従業員だ。
「映画を作る」という行為はクリエーターの自己表現などではない。
上司から命令される『会社員としての業務』であり、その対価は著作権料としてではなく月々の給料として支払われ、映画に自分の名前が刻まれる事も無い。

そんなスタジオ・システムの待遇に、最初はマンクも満足している。
彼が欲するものは、会社員として月々振り込まれる安定した給料だ。
自分の書き上げた脚本が次の工程に渡され、その先でどう加工されようと、どうでも良いと思っている。

それが徐々にクリエーターとしての自我に目覚め、自分の作品に名を刻み、第1稿だけでなく、2稿、3稿への改変にも関与する事を望むようになっていく。

では、この彼の心変わりは、何が転機だったのだろうか?

もちろん、そのきっかけは『州知事選挙フェイク・ニュース事件』だ。

上司であるプロデューサー、会社社長、そしてパトロン的存在の資本家ハーストに対して、マンクは尊敬の念なぞ抱いてなかっただろう。
皮肉混じりに「全く、どうしようもない悪どい奴らだ」くらいに思っていたのではないか。

その一方で、ハーストの目に留まりパラマウントからMGM社に移籍したマンクは、彼のお陰でMGM社内では特権的な地位を許されている。

しかし、フェイク・ニュース事件を目の当たりにして、彼らが法的にも社会道義的にも許されない不正に手を染め、しかもパラマウント時代の同僚である映画監督を手駒のように使い自殺へ追いやる姿を見て、大スタジオの傘の下で安穏と暮らしてる自分に対し『このままで良いのか?』と問い直したのでは無いだろうか。
一人のクリエーターとして独立心を持って生きなくて良いのか? と。

想像してみて欲しい。
例えば、あなたが会社員だったとしよう。
上司や会社上層部を尊敬なんぞしていないが、今の自分の給与・待遇には満足している。
会社の上層部は確かに悪どい奴らではあるが、まさか不正に手を出すような事はないだろうと楽観している。
ところが彼らは、その楽観を裏切って、選挙をめぐる不正に手を染め、あなたの前職の同僚を密かに雇いその片棒を担がせていたと知ったら、あなたは、どう思うだろうか?

「俺、この会社やめて転職しようかな?」
と思い始めるのではないだろうか?
あるいは、「いっそフリーランスになっちゃおうかな?」と。

それまでは会社の看板で仕事をして満足していたとしても、それ以降、自分の仕事にはハッキリと自分の刻印を押したくなるはずだ。

葬式シーンの意味

以上の文脈を理解した上で観ると、あの奇妙な葬式のシーンにも意味(というか機能)があると分かる。

第1には『かつての同僚監督の自殺シーン』と『酔っ払ったマンクが資本家のパーティに乗り込んで行くシーン』を意図的に切り離し、両者の関連性をなるべく薄くする機能だ。

『今の上司に密かに雇われて不正に手を染めた前職時代の同僚が、良心の呵責から自殺した』事が、この物語のターニング・ポイントだった事は間違いない。

しかし、ここで誤解してはいけない。
物語におけるこの事件の機能は、あくまで『しょせん自分たちは、資本家や会社上層部にとって使い捨ての手駒に過ぎないのだ』と思い知らせて、マンクにクリエーターとしての自覚・自立を促す事である。

『社会的な不正に対する義憤』や『友人を死に追いやった権力者への怒り』などではない。

両者は、似ているようでいて、全く違う。
しかし、うまく話運びをしないと、これが後者の物語であると……つまり『不正をした者へ罰を下す』という勧善懲悪物語に誤解されてしまう。

もし仮に『葬式のシーン』が存在せず、友人が自殺した直後に資本家の屋敷に乗り込んで行ったかのようなシーン繋がりになっていたら、どうだろうか?

『不正をして友人を死に追いやった権力者どもに、主人公が一矢報いる』物語であるという誤解を観客に与えてしまうだろう。

葬式のシーン、その2。ハンカチ

初回に観たとき、実は私の心に一番引っかかっていたのが、この『MGM社長が落としたハンカチをジッと見つめるマンク』のシーンだ。

前述の通り、この物語が『会社上層部の不正に気づき、自分たちクリエーターが所詮(しょせん)使い捨ての駒に過ぎないと気づいたマンクが、一人のクリエーターとして自覚・自立する物語』だとすれば、このシーンにも納得が行く。

このハンカチを落とすシーンは、MGMの社長が部下の葬式で泣いていたのは嘘泣きで、本当は悲しくも何ともないという意味だ。

この嘘泣きのシーンは、物語の中盤、マンクが自らのコネで弟(後の『イヴの総て』監督である)をパラマウントからMGMに移籍させたシーンのリフレインになっている。

MGM社長は、所属俳優たちの前で嘘泣きをして、まんまと彼らの給料を半額にすることを認めさせてしまう。

それを裏で見ていたマンクが、入社したての弟に向かってニヤリと笑い『ひどい社長だろ』と言ってみせる。
この頃のマンクは、まだ楽観的だ。
会社上層部を「ひどい奴らだぜ」と皮肉って見せても、まだギリギリのところで『あいつらだって、そこまで悪い奴らじゃないだろう』と信用している。
だからこそ、パラマウントからMGMに移籍し、弟もMGMに入社させたのだ。
社長が所属俳優の給料を半分に減額する様子を、マンクと入社したての弟は舞台の裏側から見ている。絶対安全な場所から高みの見物をしている。
彼らがMGM社内で特権的な待遇を得ている証拠だ。 たとえ俳優部門の同僚たちの給料が半分になろうとも、資本家ハーマンの覚え目出度(めでた)い自分だけは安泰だと思っている。

しかし、フェイク・ニュース事件を経て、彼の心境も決定的に変わってしまった。
葬式で同じように嘘泣きをする社長を見たマンクに、もはや皮肉を言う余裕は無い。
この社長は、腹心の部下の死さえも何とも思っていない。
まして、一介の雇われ脚本家に過ぎないマンクなんぞを、本心から気にかけている訳がない。
マンクは、ただ呆然と道路に落ちる白いハンカチを見つめるばかりだ。

怒りよりも、悲しみの方が大きかったんだ

何度も言うが、これを『一介の脚本家に過ぎない主人公が、友人を死に追いやった巨悪に対して孤独な戦いを挑む』という復讐譚・勧善懲悪譚だと誤解してはいけない。

自分の作品にクレジットが載らなくても気にせず、書いた脚本がその先でどう改変されようと気にせず、ただ会社員として月々の安定した給料だけを求めていた主人公が、上層部の不正を知り、脚本家や監督を使い捨ての駒のように扱う体質を知って、会社への最低限の信頼が崩れ、それをきっかけに一人の自立したクリエーターとして自身の作品と向き合うようになるという、個人の内面の変化を描いた物語だ。

フィンチャーは、上記のような誤解を生まないように、この映画に幾つかの仕掛けを施した。

『葬式シーン』が、その一つだというのは前述したが、その見せ方が『前職の同僚の葬式であるように見せかけて、実はプロデューサーの葬式でした』というトリッキーな形になっているのも同様だ。
ここでフィンチャーは「知事選フェイク・ニュース事件の話は、いったん幕引きです。あくまでこの映画の主題は『クリエーターとしての目覚め』です。フェイク・ニュース事件は忘れて、作品のテーマに集中してください」と観客に言っているのだ。

そして、ベロンベロンに酔っ払って仮装パーティーに乗り込んだマンクが、最後に『怒りよりも、悲しみの方が大きかったんだ』と言うのも、この物語を『復讐譚・勧善懲悪譚』『巨悪に挑む男の物語』に見せないための配慮だろう。

同時にまた、このセリフはマンクが『幼年期の終わり』を自覚した、その痛みを表しているのだと思う。
会社に守られ、不平を言いながらもギリギリの所では会社上層部と資本家を信じ、冗談を言い酒を飲みながら脚本を書き殴り、それが良作であろうと駄作であろうと月々決まった給料が振り込まれる……その状態に何の疑いも持たずにいられた幸福な時代は終わった。
彼は、好むと好まざるとに関わらず『世界の残酷な仕組み』に気づいてしまった。
もう後戻りはできない。無邪気だったあの頃には戻れない。
その痛みを表した言葉だろう。

牧場に来る人々

『市民ケーン』の第1稿を仕上げたマンクの所に、人々が入れ替わり立ち替わり訪れては『脚本を取り下げろ』と彼を説得する。

もしこれが『巨悪に戦いを挑む孤独な男の物語』なら、やってくるのは資本家どもが雇ったギャング団のはずだ。

しかし、実際に現れるのは仲間の監督・脚本家・女優だ。
初めは、マンクにプロジェクトを諦めさせようとする彼らだが、マンクの強い意志を知って、皆一様に『そんなにやりたきゃ、やれば良い』と言って去って行く。
マンクが『どうしてもやりたい』と言ったのなら、やらせるしかないと思っている。

牧場にやって来た人々は、同じクリエーター・アーティストとして、今のマンクを見て直観したのだろう。
目の前にいるのは、かつてのマンクではない。クレジットの無い脚本を業務として淡々と書く日和見主義者ではない。
彼は、独立した自我を持つ一人のクリエーターとして目覚めたのだ、と。

ラスボス・オーソン・ウェルズ

ただし、最後に現れる大物オーソン・ウェルズだけは別だ。

「クレジットに自分の名前を載せろ、第2稿以降の執筆も自分にやらせろ」というマンクに、露骨に怒りを爆発させる。

ここで話は別の次元に移る。
すでに自我に目覚めてしまった2人のクリエーター・アーティスト同士の、一つの作品を巡る戦いの物語に。

最後に、ウェルズが「クレジットには名前を載せてやろう、だがプロデューサーが誰なのかは忘れるな!」と言って暖炉に酒箱を投げつける。
「あくまで第2稿の決定権を持っているのは俺だ。お前には口出しさせない」と宣言しているのだ。
ひょっとしたら、怒りに任せて物を投げつけるのも「怒りの爆発を見せつければ、マンクも怯えて引き下がるだろう」というウェルズ一流の計算・演技だったのかも知れない。
その姿を見たマンクのセリフが奮(ふる)っている。
「今の演技、良いねぇ! スーザンが去って行く場面に使えるよ!」
マンクは『市民ケーン』の第2稿を自分自身の手で書く気満々でいる、という意味だ。
それに答えて一言「かもな!」と言い、ウェルズは去って行く。

これから第2稿、第3稿を巡ってウェルズとマンクの丁々発止が続くであろう事を予感させて、物語は幕を閉じる。

最後に、短くまとめると

いやー、なんか勢いに乗って1日で1万字の記事を書いちゃった。
書く、って気持ち良いね。

長々お付き合い頂いた皆さんに、要するに「マンク」とは、どんな映画なのかを短くまとめて、この記事を終わりたい。

昼はダラダラ適当に仕事して、夜は居酒屋で上司のグチを言って飲んだくれてたダメ会社員が、うっかり会社上層部が選挙で不正やってるのを見ちゃって、しかも前職の同僚が悪事の片棒を担がされた挙句(あげく)に精神が病んじゃったのを見て、『この会社ヤベーよ』ってなって、忘年会で飲み過ぎて「無礼講ッスよ〜、無礼講」って言いながら株主の愛人にゲロ吐いて会社辞めて、ライバル会社に転職したんだけど、最初の仕事で『よ〜し、前の会社のスキャンダルを暴露してやるぞ〜』って意気込んでいたら、上司が物凄いパワハラ男だった……ていうお話です。

追記

本記事内で、マンクをMGMの社員・従業員と書いたが、これは日本人が想像する『終身雇用を前提とした会社員』とは少し意味合いが違うと、後で気づいた。

むしろ、数年契約でチームに所属し年俸を受け取るプロ・スポーツ選手に近いのかも知れない。

いずれにしろ彼らは、作品の出来高に応じた著作権料としてではなく、毎週いくらの固定給で会社に雇われている。

2020-12-19 19:57