青葉台旭のノートブック

日記のような小説、小説のような日記

日記のような小説、小説のような日記

12月11日(金)

こんな夢を見た。

私は、ヨーロッパ中を一人で旅していた。
そして、とある修道院に辿(たど)り着いた。
そこは、荒野の真ん中にポツンと建っている石造りの城砦のような場所で、映画「薔薇の名前」の舞台にそっくりだった。
中に入ると、重厚で荘厳ではあるが、暗い場所だった。
修道院長が、案外と愛想良く私を迎えれくれて、院内で作っているというワインを何種類も飲ませてくれた。
その時、別の客が現れた。
若い男女の二人連れで、私と同じ日本人だった。
彼らは、手にしたワインを修道院長に渡して「これが本物か偽物か確かめてくれ」と言った。
わざわざ日本から持って来たそのワインは、この修道院で作られたという触れ込みの一品だったらしい。
院長はワインの栓を開け、自分のグラスに注ぎ、ついでに私のグラスにも注いでくれた。
ワインに関して全く無知の私は、しかし日本から来たその若い夫婦の前で見栄を張って、いかにも通ぶって「残念ながら、これは偽物ですね」と言った。
直後に、修道院長が「これは本物です」と言った。
瞬間、その場が凍りついた。
若い夫婦の私を見つめる視線が痛かった。

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例えば、未成年の裸の写真を撮ってそれを公開したり販売する行為は、たとえ我が子の写真であったとしても、児童福祉に反する。

では、自分自身の子供時代の全裸写真を大人になってから売るのは、違反なのだろうか?

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醤油を買い忘れた。
今日こそは忘れずに買うこと。

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昨日に続いて、ルパン三世とワルサー・P38について。

例えば、2020年現在の物語として、ルパン三世の映画を作るとする。

おそらく、それは例えば「最先端の防犯設備に守られた名画を、コンピュータ・ハッキングなどを駆使して盗み出す」という話になるだろう。
そういう『今風になったルパン三世』の物語の主人公が、ワルサー・P38という、もはや骨董品に近い銃を愛用しているなどという事があるだろうか?

もちろん『2020年現在、老人になってしまったルパンの一味が、人生の最後にもう一花咲かせる』などの仕掛けがあれば、ヨボヨボのルパンが押入れの奥から骨董品の銃を出すという描写も可能だろう。

しかし完全な現代版としてリメイクした場合、彼らは『2020年現在、35歳前後の男たち』であるはずだ。
つまり、1985年生まれということになる。
1985年生まれの、しかも『犯罪のプロフェッショナル』であるはずのルパンが、わざわざ第二次世界大戦前の銃を使うだろうか?

初期のルパン三世のアニメが放送されていた1970年代において既に、ワルサーP38という銃は充分に古かった訳だが、それでもまだ当時なら『設計は古くても工作精度が高いから、今でも使う価値がある』という『こだわり』が通用しただろうし、それが逆に『プロフェッショナルらしさ』の表現になり得た。

しかし、もう2020年だ。
いやしくも世界一のプロフェッショナルと呼ばれる男が、自分の命を預ける道具に80年前の骨董品を選ぶという設定は、さすがに現実味が無いと思う。

物語自体の時間を1970年代まで巻き戻して、一種の『時代劇』としてリメイクするなら、ワンチャン可能性もあるだろう。

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最近、『ホットサンドメーカーで〇〇を焼いてハイボールをキメるだけ』という動画を投稿しているYouTubeチャンネルがお気に入りだ。

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寒々とした曇り空の冬の日は、都会よりも田舎で過ごしたい。

田舎なら、そういう日には『荒涼とした風景を愛(め)でる』気分が湧き上がって来て、それはそれで目の前の風景も絵になると思える。

ポカポカ陽気の晴れた冬の日は、都市郊外の住宅街の公園あたりを散歩したい。

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自動車に写真機を積んで、全国を旅して回りたい。

夜になったら、近くのキャンプ場に行ってテント泊なり車中泊をして、翌朝、また次の県に旅立つ……という暮らしをしてみたい。

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昔、『意地悪ばあさん』というテレビドラマがあった。

原作は『サザエさん』と同じ長谷川町子で、主演は俳優・放送作家で後に東京都知事になった青島幸男だ。

『いちいち細かいことにケチをつけてばかりいる婆さんが、若い人たちを困らせる』というフォーマットのコメディだった。

「いちいち細かい事にケチをつける面倒臭い人」というのは、大衆劇における『爺さん・婆さん』の人物造形としては良くあるものだろう。

子供の頃、そういう『面倒臭い老人たち』というキャラクター造形に対して、いまいちピンッと来なかった。
おじいちゃん、おばあちゃんと呼ばれる人たちは、孫である自分に対しては、常にニコニコして優しかった。

私自身が大人になり、中年になり、我が両親が歳をとって『おじいちゃん』『おばあちゃん』になって初めて、かつて観た『意地悪ばあさん』の意味が分かった。

我が両親が老人と呼ばれる年齢になって、徐々に『いちいち細かいことにケチをつける』性格に変わっていったからだ。

人間の知性・精神が『脳』という臓器の機能なのであれば、それは当然、筋肉や心臓や肺や肝臓や消化器と同じく、年齢の制約を受ける。

歳をとって肉体が衰えるように、知性・精神も衰えるのだろう。
『衰える』という言葉が穏当でなければ、『年齢と共に変化する』と言い換えても良い。

そして今。

私自身、まだ『おじいちゃん』と呼ばれるような年齢ではないと自負しているが、同年代の中には孫が生まれた人たちもチラホラと出てきた。

最近、細かい事が気になっている自分に気づいた。

例えば、インスタント・コーヒーの瓶を戸棚に仕舞うとき、いつも同じ位置に仕舞わないと気が済まない自分に気づいた。
しかも、瓶のラベルが手前を向いていないと気が済まない。

こういう几帳面さは、若い頃の私の性格には無かった。

『肉体の老い』をコントロールし、少しでもその進行を遅くするのと同じように、『知性・精神の老い』の進行にもブレーキをかけなければいけない。

(2020年)

2020-12-11 09:54