青葉台旭のノートブック

dtvで「ファイト・クラブ」を観た。

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監督 デヴィッド・フィンチャー
出演 エドワード・ノートン 他

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5回書いたからセーフ。

ひとこと感想

今さらながら「ファイト・クラブ」初視聴。

いやー、久しぶりに映画を見終わったあと「すげぇ」って言ってしまった。
何が凄いかっていうと「中二病」が凄い。
中二病をどこまで濃縮できるか、その圧倒的な濃さ一本で勝負した作品でした。

ブラッド・ピットが主人公のもう一つの人格というか、主人公のイマジナリー・フレンドだったというオチな訳だが、ルックスの良さ、均整のとれた筋肉、身体能力の高そうな身のこなし……それでいてブルース・リーの真似をする時のバカっぽい無邪気さ。
まさに中二病の理想、中二病の権化、中二病の具現化、中二病の神が乗り移ったかのごとき演技。

あれだな……察するにピット氏自身がリアルでイケメン中二病患者なのでござろうな。

そして、世界の崩壊を高層ビルの最上階から見下ろし手をつなぐ彼と彼女のラスト・シーンからのバックに流れるピクシーズ。
すごい。ここまで中二病的美しさを突きつめた映画は他に無いんじゃなかろうか。

見事なまでのセカイ系ラストショットだ。

彼女はファム・ファタールじゃなかった。

二重人格ものである本作品には、必然的に叙述トリックが散りばめられているのだろうが、私が一番意外だったのは、ヒロインのキャラクターづけだった。

ヒロインの性格づけこそが、この映画最大のミス・リードだったと思う。

冒頭のセリフが「あんな女に関わらなければ」だった事、そして本作品が、いかにも「平凡な男とワルい男の友情物語」のような感じでノワール風に見せかけていることから、てっきりヒロインの役どころは典型的な「ノワール映画に出てくるファム・ファタール」つまり「主人公を破滅へ向かわせる魔女」だと思っていた。
しかし後半の彼女は、むしろ主人公にとって「暗黒の世界に足を踏み入れつつある自分を、かろうじて真っ当な世界に留まらせている拠りどころ」的な存在だった。それが意外だった。
その意外性は、この映画が「ノワール映画に見せかけた中二病映画」だった事とも関係している。
つまり彼女は「ノワール映画のファム・ファタールに見せかけた、中二病映画の聖女さま」だったという訳だ。
ラストシーンのヒロインなんか、文明崩壊後ここから始まる創世神話の女神様のようにさえ見えた。

最後の主人公の心がわりの解釈

物語のクライマックス、ファイト・クラブのメンバー達によるテロを何とか阻止しようと頑張っていた主人公の「僕」が、最後の最後でヒロインと手をつないで世界の破滅を「受け入れた」のは何故なのか。

一つは「時間切れになってしまい、あきらめた」という解釈だろう。

しかし私は以下のように解釈したい。

最後に「僕」は自分の頰を打ち抜く事で、もう一つの人格である「タイラー・ダーデン」を消滅させることに成功した。
その瞬間、「僕」と「タイラー・ダーデン」は人格統合されたのではないだろうか。
つまりラストシーン、彼女と手をつないで世界の破滅を見下ろしていた男は、「僕」であると同時に「タイラー・ダーデン」でもあった……と、私は解釈した。

2018-10-19 21:52