青葉台旭のノートブック

「シェイプ・オブ・ウォーター」を観た。正直、モヤモヤした。

公式ページ

監督 ギレルモ・デル・トロ
出演 サリー・ホーキンス 他

TOHOシネマズ シャンテで観て来た。
正直、モヤモヤした。

ネタバレあり。

この記事にはネタバレが含まれています。

映画を観たあとで、他人の感想ブログを読む。

私には、映画を観たあとでその映画の感想記事をgoogle検索して、上から順に何本か読むという習慣がある。

「シェイプ・オブ・ウォーター」を観た夜も、本作に関する他人の感想ブログを幾つか読んでみた。

一部のブログにちょっと気になる記述があったので、まずはそれに対して私の考えを述べたい。

その1、ヒロインは聾唖者ではない。

一部の記事で「ヒロインは聾唖者」と言う記述があるが、これは間違いだ。
聾唖者というのは、「聾」と「唖」すなわち「聴覚障害」と「発話障害」の両方を持つ人の事だ。
発話障害だけでは「聾唖」とは言わない。

ヒロインは声が出せないという設定だが、決して耳が聞こえない訳ではない。
それは、彼女が目覚まし時計の音で目覚めるという冒頭シーンで既に明示されている。

仮に彼女の耳が聞こえないとすると、テレビでミュージカル映画を観るのが好きという設定や、レコード・プレイヤーのシーンが意味不明になってしまう。

彼女は聾唖者ではない。口は利けないが、耳は聞こえている。

その2、この映画を「怪獣映画」と称する記事に納得が行かない。

主人公のデザインは「怪獣」の系譜じゃなくて「異形の変身ヒーロー」の系譜だろ。

デザインのベースになっているのが「大アマゾンの半魚人」である事はデル・トロ監督のインタビューを読めば分かるが、全体のプロポーションは韮沢靖が造っていた異形のヒーロー・フィギュアに近い。

それと、初代ウルトラマン。
怪獣じゃなくて、ウルトラマン。

本作の主人公のデザインが「異形でありながらもカッコ良い」理由は、ディテールではない。
プロポーションだ。人間離れしているのに、スラッと均整が取れている全体のシルエットだ。それが主人公に「異形のカッコ良さ」を与えている。

聞くところによると、半魚人はCGではなく、伝統的な着ぐるみを使っているらしい。
だとすれば、この「異形でありながら同時にカッコ良い」プロポーションを実現するためには、まずヒョロリと手足の細長いスーツ・アクター(着ぐるみ俳優)を選び、そのヒョロリとした体の肩、胸、背中などに重点的に樹脂製の筋肉を「盛っていく」という技法を使っているはずだ。
これは初代ウルトラマンで使われた技法だ。

繰り返すが、この映画の主人公は「エイリアンであり同時にヒーローでもある」ウルトラマンや「怪人であり同時にヒーローでもある」仮面ライダーなどと同じ「異形のヒーロー」の系譜として捉えるべきだ。
彼は「怪獣」ではない。

「怪獣」という言葉の本来の意味は「怪物」というか「妖怪」というか、要するに「人外のモノ」という程度のものだから、「シェイプ・オブ・ウォーターは怪獣映画」と言っても、そりゃあ日本語としては間違いじゃないけど……でも、的外れだ。

デル・トロ監督は、本作で「日本オタク」を「卒業」した。

「シェイプ・オブ・ウォーター」を称して「怪獣映画」などとする映画レビューに対し、なぜ私が苛立ちを覚えるかというと……

「パシフィック・リム」を監督して以降、ギレルモ・デル・トロに対して「気のいい怪獣好きオジサン」というレッテルを貼りたがる風潮が我が国にあるからだ。

「ハリウッドのアカデミー監督が、僕ら日本のオタク・カルチャーを愛してくれている。嬉しいぃぃぃ」という訳だ。

まったくデル・トロ監督に対して失礼極まりない。

同じ日本人として小っ恥ずかしい。

私の見るところ、デル・トロという人は広範囲なジャンルに対して造詣のある、言わば「総合的教養人」だ。

「日本オタク」という名称は、彼の幅広い教養の極(ごく)一部を表しているに過ぎない。
そして彼は今、その「日本オタク」から卒業しようとしている。

以下の記事を読んで欲しい。

ギレルモ・デル・トロ監督、オタクの聖地『中野ブロードウェイ』を卒業

インタビュー記事の中で、デル・トロ監督は、
「『シェイプ・オブ・ウォーター』を作り上げた事で、もう中野ブロードウェイで買い物をする必要が無くなった」
というようなことを語っている。

もう彼には日本のオタク・カルチャーは必要ない、という事だ。

日本の3大男子向けオタク・ジャンルといえば以下の3つだ。

  1. 怪獣
  2. 巨大ロボット
  3. 異形のヒーロー

デル・トロは、「パシフィック・リム」で「1. 怪獣」と「2. 巨大ロボット」を、そして本作で「3. 異形のヒーロー」を描いた。
彼は、自分の中の「日本オタク」的なものを全て出し切った、自分の中の「日本オタク」的なものに「ひと区切り」付けた、と見るべきだ。

だとすれば、以後、彼の興味は急速に「日本オタク・カルチャー」から離れ、別のものにシフトして行くだろう。

2018年の今われわれ日本人が為すべきは、デル・トロに「日本大好きオジサン」のレッテルを貼って、来日するたびにバルタン星人と握手をさせる事ではない。

デル・トロをして「やっぱり一年に一度は日本に行かないきゃ」と思わせるほど魅力的なオタク・コンテンツを新たに作る事だ。

ここからが本題。本作に対する私の感想。

冒頭にも書いたとおり、私は本作を観た後どうにも「モヤモヤ」とした感じを拭(ぬぐ)えないまま映画館を後にした。

以下、ネタバレ感想。

私がモヤモヤしてしまった理由。

「よく出来ているんだけど……でも……飛び抜けていない……まあまあ普通」という以上の感想が出て来なかったからなのかも知れない。

「良く出来ている感」は有るのだが、感動の量として「普通」なんだ……だから、なんかモヤモヤする。

評価しづらい。

一点。本当に素晴らしいと思った事。

海の中で半魚人とヒロインが抱き合うラスト・シーンは、本当に素晴らしかった。本当に美しかった。

ポスターやイメージ・イラストになっている、あの場面だ。

シーン単体で観た場合、これほど美しいラストは映画史の中でも数える程なのではないだろうか……そう思えるくらいに美しかった。

それまで「う〜ん……ストーリーも演出も普通かな……」などと思っていたのだが、最後の最後で「うわぁ」ってなって、一気に帳尻が合った感じだった。

ラスト・シーン以外の部分は、ホント、普通でした。

よくある「虐げられた人々が協力して知恵を絞って、極悪非道な権力者どもを出し抜く」物語でした。

演出、美術は良く出来ています。

……でも普通でした。

駐車場の監視カメラをずらして従業員たちがコッソリとタバコを吸っているシーンも伏線オーラがバリバリ過ぎて、あとでヒロインが同じことをしても「まあ、そうするよね」ってなりました。

ひょっとしたら私のモヤモヤの原因は、主人公があまり活躍しなかったからかも知れない。

せっかく異形ヒーローっぽい見た目なのに、ヒロインとエッチした以外に大した活躍もしないまま物語が終わってしまったのが、モヤモヤの原因かも知れない、とも思う。

彼の活躍シーンといえば、せいぜい最後の最後で、強殖装甲ガイバーの高周波ブレードとかバオー来訪者のリスキニハーデン・セイバーみたいに鰭(ひれ)をシャーッてやって敵の喉を掻っ切ったくらいか。

正直に白状すると、じつは同監督の「パシフィック・リム」を観たときにも同じようなモヤモヤを感じていた。

今回観た「シェイプ・オブ・ウォーター」と「パシフィック・リム」を合わせて振り返ってみるに、私のモヤモヤの原因を言語化すると以下のようになるかも知れない。

「せっかく怪獣、巨大ロボ、異形ヒーローを出しているのに……フェティッシュなこだわりがイマイチ足りねぇ」

怪獣の出現、ロボの出撃、半魚人が水から上がる時などのカメラの角度、カットの割り方などに、フェティッシュな気持ち良さが足りないと、私は思ってしまったのかも知れない。

例えば、庵野秀明監督と比べてみる。
ストーリー展開や人間のドラマも含めたトータルとしての作品の完成度は、いったん横に置く。
単純に「怪獣あるいは使徒の描写」「巨大ロボ・メカの描写」だけを比べ、どちらがフェティッシュなこだわりを持って描いているか、と問うた場合……
残念ながら、というべきか、庵野監督のほうが一枚上手だと言わざるを得ない。

ギレルモ少年が47年間抱き続けた思い

本作を恋愛映画として見た場合、どうだろうか。

以前、アニメ映画「君の名は。」に対する批判で、
「瀧と三葉が互いに恋愛感情を持ったのは、どの時点だったのか? それが分かりづらい」
という主旨のものを読んだ事がある。
私は「ああ、たしかに一理あるな」と思った。

この「シェイプ・オブ・ウォーター」を観た直後、私は、それと同じようなことを思った。
「半魚人とヒロインは、いつ相思相愛になったのだろうか」と。

恋愛映画として見た場合、両者が恋愛感情を持つまでの積み重ねの描写が淡白過ぎやしないだろうか……最初はそう思った。

しかしその後、映画のレビューやインタビュー記事を読んで、納得した。

デル・トロがこの物語を作ろうと思ったきっかけは、彼が6才のときに観た「大アマゾンの半魚人」にあるという。
人間の女に恋をした半魚人が最後に殺されてしまうラストをあまりにも可哀想だと思ったギレルモ少年は、以来ずっと、いつか半魚人とヒロインが幸せになる映画を撮ろうと思い続けていたらしい。

また「美女と野獣」で、最後に野獣が美しい王子様に変身するのが納得できなかったともいう。
「見た目の美醜ではなく心の美しさが大事」というテーマのはずが、結局は美男美女が恋を成就するというラストに対し、偽善性を感じたのだろう。

つまり「異形のものは異形のまま、ありのままの姿で愛されるべきだ」という思いを47年間も抱き続けてきたという事だ。

そうすると、ヒロインと半魚人が理由もなく相思相愛関係になるのも理解できる。

ありのままの相手を受け入れるべき、愛するべきなら、「愛する理由」があってはいけない。

  • 美醜が価値基準になってはいけない。
  • 今は醜くても将来は美しい王子様になるという物語上の保証があってはいけない。
  • 怪物ゆえの優れた身体能力や超能力があってもいけない(潜在的に持っていたとしても、女が惚れる理由であってはいけない)

という事だ。

愛は「完全に無条件」でなければいけない。

「上司にセクハラされそうな私を、半魚人さんは怪力パンチ一発で助けてくれました、惚れました」では、純粋な愛と言えない。
「な〜んだ、結局、腕力の強い奴がモテるのかよ。それって一種のマッチョイズムじゃねぇか」となってしまう。

だからこの物語において、男は醜い「異形」でなければいけないし「完全に無力」でなければいけない。
女は、そんな「醜くて」「無力」な男を、「一瞬で」「無条件に」愛さなければいけない。

そうでなければ、
「美しかろうと醜かろうと、強かろうと弱かろうと、体に障害があろうと無かろうと、金持ちだろうと貧乏だろうと、社会階級が上だろうと下だろうと、とにかく、この世に生きとし生けるものは全て等しく、愛し、愛される権利がある」
というこの物語の主題が貫徹されない。

……なるほど……だから、主人公はスーパーヒーロー的な活躍をしないわけか……
活躍しちゃったら「その素晴らしい活躍を見ていたから、ヒロインは半魚人に惚れました」って事になるから。
それは「条件付きの、理由のある愛」であって「無条件の純粋な愛」じゃないから。

6才のギレルモ少年が「大アマゾンの半魚人」を観て以来ずっと持ち続けた切ない思いに、ついにデル・トロ監督はケリをつけた、という事なのだなぁ……50年越しだ。

ひょっとしたら、この映画はデル・トロ監督にとって人生節目の一作になるかも知れない。

俺は恋というものをこう思う。(デル・トロとは違うかも知れない)

男は、理由もなく無条件に女を愛せば良い。

女が男を愛する理由は様々だ。男の社会的地位だったり容姿や身長や経済力だったとしても、それはそれで当然の事だ。
女はそれで良い。

何だか取っ散らかった感想になってしまったが……

今日はこの辺で。

2018-04-18 23:22