青葉台旭のノートブック

dtvで「パターソン」を観た。

dtvで「パターソン」を観た。

amazonのDVD紹介ページ

監督 ジム・ジャームッシュ
出演 アダム・ドライバー 他

ネタバレ有り。

この記事にはネタバレが含まれます。

まずは結論。素晴らしい。

いやぁ、良かった。
ここ数ヶ月間で観た映画の中では一番良かったかもしれない。
読者の皆さんにも、ぜひ、お勧めしたい。

以下、本題に入る前にネタバレ隠しの前フリを書きます。

毎週楽しみにしていた日常系アニメが終わってしまった。

この数ヶ月間、アニメ「ゆるキャン△」と「からかい上手の高木さん」という二つの日常系アニメを毎週dtvとnetflixで観ていた。

先日、どちらも最終回を迎えてしまい、ああ、もう来週は癒し系アニメを観られないんだなぁと思ったら、なんとも言えない空虚感に襲われた。
いわゆる「ゆるキャン△」ロス、「からかい上手の高木さん」ロスだ。

それで慌てて、この空虚感を埋めてくれる日常系アニメは他に無いかと、dtv・netflix・itunesなど各種動画配信サービスのメニューを漁った。

念のため簡単な説明。「日常系アニメ」とは

日常系アニメとは、ドラマチックな事件が一切発生せず、ただひたすら可愛い女の子たちが日常生活の中で可愛い事をするだけのアニメのことだ。

この際だから、amazon primeにも加入するか……

いくらメニューを漁ってみても、なかなか食指の動く日常アニメがない。

この際だから、amazon primeにも加入してそちらを漁ってみるか、とも思った。
いずれはprime会員にアップグレードしなければなるまい、と前々から考えていたのだが……果たしてそれは「今」なのか? う〜ん。悩む。

amazonの場合(primeでない)一般会員でも、その都度、視聴料金を支払えば大抵のコンテンツを観られる。
だから、prime会員になるかどうかはprimeでしか見られないアマゾンが独自に制作したアニメの充実度次第、なのだが……

小説にせよ、音楽にせよ、映画(ビデオ)にせよ、世の中は急速にサブスクリプション(定額会員登録)制に移行しているなぁ。

それにしても、小説のkindle unlimitedにしろ、音楽のspotifyにしろ、各映画配信サービスにしろ、コンテンツの販売手段が急速に(本、CD、DVDなどの)物理メディアから個別ダウンロード販売へ、さらにはサブスクリプション(=定額会員登録)制へと移り変わっている。

オジさん、もう、ついていけないよ……
勉強がてらkindle unlimitedで小説を自費出版でもしてみようか……

日常系癒しアニメをいろいろ探しているうちに、なぜか本作に巡り合った。

なんとなくピンッと来たっていうか、今おれが観るべき映画はコレだ! と直感が働いた。

それでdtvのアイコンをクリックした。

……その結果は……

いやぁ、良かった。素晴らしかった。
ぜひ、皆さんにも視聴していただきたい。

……以上、ここまでがネタバレ防止のための前フリでした。

以下、本題。映画「パターソン」のレビュー。

何しろ全てが優しい。

主人公パターソンの一日を見ているだけで何だか癒される。

彼の日常は些細(ささい)な出来事の積み重ねで、大きな事件が起きるわけでもないのに、なぜか目が離せない。

背景が良い。

題名の「パターソン」というのは、アメリカ北東部にある地方都市の名前であり、同時に、主人公パターソンさんの名前でもある。

つまり、これは「パターソン市営バス運転手パターソンさんの日常」を綴(つづ)った映画だ。

その舞台であるパターソン市の風景が、すでに何とも言えず「優しい」

まず、空の色が優しい。

ハリウッド映画に良くあるカリフォルニアの乾いた空気と目に滲みるような真っ青な空……ではなく、薄く淡い色あいの空だ。

こってりと青色の乗ったアメリカの空というよりは、我々日本人が普段目にしている、あっさり系の青空に近い。

そして、太陽の光が優しい。

ハリウッド映画に良くあるカリフォルニアのカッと照りつける強い日差し……ではなく、どこまでも淡く優しく街を照らしている。

全編にわたって、屋外のシーンでは木々や建物の影が長い。
太陽が低い位置にあり、日差しが傾いているという事だ。
屋外のシーンの殆(ほとん)どは、朝の出勤時か夕方の帰宅時のシーンなので当然と言えば当然だが……どういうわけか、真昼に公園で昼飯を食っているシーンでさえも、良く見ると木々の影が長い。

葉が色づいている所から、これが秋の物語であることは分かる。
しかし、それにしても昼食時でさえ長い影ができるのは何故なのだろうか。 よほど緯度の高い場所にある街という事か?

余談だが……以前、ハチ公物語のアメリカ・リメイク「HACHI」という映画を見たことがある。その映画も終始淡い色の空の下、穏やかな中規模都市の日常が描かれていた。「HACHI」のロケ地はニューイングランド地方だったらしい。
本作の舞台パターソン市といい、この淡い日差しと長い影は、緯度の高いアメリカ北東部特有の物なのかもしれない。

パターソン市に対して興味が湧いたので軽く調べてみた。

それで地理的な興味が湧いて、映画鑑賞後にネットで「パターソン市」について調べてみた。
ふむふむ……マンハッタンのセントラルパークを起点にすると、北西へ24Kmくらいの場所か……
え? 24Kmって、近くねぇか?

ちなみに、東京駅を起点に24Kmの距離にあるのは……中央線の駅で言えば武蔵小金井駅だ。

この「パターソン」という映画を日本に置き換えたら「小金井市で都営バスの運転手をしている小金井さんの日常」になるって事か?

うーん……なんか、イメージ違う……ちょっと都心に近すぎる感じだ。

まあ、それはそれとして、本作品の舞台としてのパターソン市だ。
wikipediaに書かれている事を私なりに要約すると……
人口は14万6千人。
19世紀には工業で栄えたが、現在は産業の空洞化が進み不況にあえぐ斜陽の街である、と。
人口の人種別構成はバラエティーに富んでいて、白人はわずか30パーセント、トルコ系移民社会は全米で最大、アラブ系移民社会は全米2位の規模である……

そうするとあの嫁さんはイスラム教徒か。
古代ペルシャがどうのこうの言ってたから、ひょっとしたらイラン人という設定かもしれない。

それでパターソンさんは晩飯を食い終わったあと毎晩かならず酒を飲みに出かけるんだな。酒の飲めない嫁さんに気をつかって、家では晩酌をしない訳だ。
なんて良い人なんだ。

人種がらみで気づいた事と言えば、この映画、主要登場人物の中で白人は主人公一人だけなのな。
主人公以外の白人は、帰り道で出会った少女と……それから、バスの中でエロ話していた男たちとアナキストの学生カップルくらいか。
あとは、みんな白人以外の人種だ。

気づいた事といえば、アメリカのバスって、オートマなのか。しかも、セレクターがレバーじゃなくてスイッチなのか。
それと主人公夫婦のマイカーはホンダのCR-Vだな。しかも初代。時代設定が公開年と同じ2016年だとすると、最低でも16、7年は経過していると思われる。
さらに気づいたことと言えば、なんでノートの右側しか使わないんだろうか。なんか意味があるのかな?

話をパターソンという街に戻すと、この「人口15万人弱の小さな地方都市」感というのが、なんとも言えない優しい雰囲気を醸し出していた。

例えば、主人公の運転するバスは毎日パターソン市の旧市街地らしき場所を通るのだが、ちゃんと歩道には通行人がいる。

この映画は「通りに人っ子一人居ない、さびれた田舎町」の物語ではない。
そうかと言って、ニューヨークやロサンゼルスのような華やかな大都会の話でもない。

通行人たちは、ニューヨークのビジネスマンのようにせかせか歩いているわけでもなく、ハリウッドをジョギングする金持ちのようにギラギラしているわけでもない。

パターソン市の人々は、町の通りを静かに、穏やかに、ゆっくり歩いている。

ひょっとしたら現実のパターソン市は、不況やら治安やら、それなりに問題を抱えているのかもしれない。

しかし少なくとも劇中においては「小さな地方都市」特有の、ぬるま湯のような静けさと穏やかさが街を包んでいる。

人口15万人の小さく静かな地方都市の、かつてはそれなりに賑わいを見せていたであろう旧市街の通りを、主人公の運転するバスが走る。

薄青色の空。柔らかな秋の日差し。小さな地方都市の通りを歩く人々。大都会のような忙しさもなく、ド田舎のような閉塞感もない。

そういうボンヤリとした優しい背景の中で、主人公の日常が描かれる。

究極の萌えキャラ。パターソンさん。

主人公のパターソンさん、どっかで見た事あると思ったら「スター・ウォーズ」の人だった。
「ミッドナイト・スペシャル」にも出演していると書いてある……ああ、なるほど、あの技術系官僚か。あれも良い味出していたな。

とにかく、このアダム・ドライバーの演技が素晴らしい。

オープニング・シーンで嫁さんとイチャイチャするのは、まあアメリカ映画には有りがちだが……その後ベッドから起き上がって着替えのシャツとパンツを持って寝室を出て行くときの、ヒョコヒョコした間抜けな歩き方が、もう既になんとも言えず良い。
翌日の着替えを椅子の上にキッチリ畳んで置いてあるという几帳面さも「いかにも」な感じだ。

それから、一人寂しくシリアルを食べる後ろ姿が良い。
背中がデカくて、かなりの高身長であると分かるのだが、何というか、ジャイアント馬場風の体型だ。
「気は優しくて力持ち」系の体型。

しかし、いきなり学ランみたいな詰襟金ボタンに白帽子の写真が出てきたので油断できない。
おい、これ海兵隊の儀礼服じゃねぇか。まさかパターソンさん、海兵隊特殊部隊出身とかいう裏設定があるんじゃないだろうな。

それから弁当箱片手に徒歩で出勤し、市営バスを運転して旧市街の通りを走るのだが、彼は、ハンドルを握りながら乗客の会話に耳をそば立てる。
例えば子供が「地元出身のボクサーはデンゼル・ワシントンに似ている」と言った瞬間、運転席でフッと微かに笑う。それが何とも言えず良い。

とにかく何気ない所作の一つ一つ、表情の微妙な変化一つ一つが繊細で、パターソンさんの人柄の良さが滲み出ていて素晴らしい。

極めつけは、嫁さんに「あなたの詩は最高よ」とか言われて、「きゃっ! 恥ずかしい!」みたいに両手で顔を覆うシーンだ。
あれはさすがに反則だろ。しかも微かに顔が赤くなっているとか……男の俺でも胸キュンするわ。

パターソンさんは必ず、近くの公園で昼飯を食べる。
これは私の持論だが、公園のベンチに座って一人で手作り弁当を食べる奴に悪人は居ない。

地下室のペンキ缶が並んだ作業机が彼にとっての書斎というのも、ささやかというか、慎ましいというか、なんか切なくて良い。

朝起きて、会社へ行って、仕事して、公園で奥さんの手作り弁当食べながら詩作をして、また仕事して、帰って、地下室の片隅でちょっと詩作をして、晩飯を食って、犬を散歩に連れて行って、バーでビールを一杯飲んで、家に戻って寝る。
このパターソンさんの日常が愛おしくて思わず見入ってしまう。
この感覚は、ちょっと「この世界の片隅に」のすずさんに近いかもしれない。

自宅の玄関から階段を降りて郵便ポストの隣を通って右へ左へ

映画の節目節目で、主人公が玄関の扉を開け、階段を下りて、手前中央の郵便ポストの横を過ぎて通りを左または右へ行くカットが挿入されるのだが、この画面の配置が絶妙だ。

何というか……例えるならロールプレイングゲームで言うところの「始まりの村」感がある。

「この村の標識(郵便ポスト)を過ぎて、村の外へ一歩足を踏み出したところから、僕の冒険の旅が始まるんだ」感。

「壮大な冒険の果てに魔王を倒して帰ってくる」だけが旅じゃない。繰り返される毎日の中で、会社への行き帰りも、近所の公園に行って帰ってくるだけでも、それも立派な冒険なんだ、いたるところに宝物は落ちているんだ、っていう感じ。

日本の日常アニメとの違い。

同じ日常系とはいえ、日本の日常系アニメと本作「パターソン」は、ある意味、真逆と言える。

アニメと実写、表現形態が違うのだから当然だ。
そして言うまでもないことだが、どちらが良い悪いの話でもない。

日常系アニメ……それは一種の「極楽浄土絵巻」だ。
煩悩に苦しみながら世俗を生き続けるしかない我々に、ほんの一瞬、美しい極楽浄土の風景(の幻)を見せてくれて、ひとときの癒しを与えてくれる……日常系アニメとは、そういうものだ。

だから日常系アニメの主人公である少女たちというのは、現実の女子高校生ではない。
彼女たちは、実は極楽浄土の空に舞う天女さまだ。
絵巻の中にだけ存在する、極度に抽象化・象徴化された女神さまだ。

アニメというのは、世界のありとあらゆる物事を、いったん均一でペタッとした「絵」に落とし込み、その抽象化・象徴化・均質化されたフラットな世界から、ひとつの物語を立ち上げていく芸術だ。
「あらゆるものを一旦は抽象化、象徴化、均質化しなければ物語を紡ぐことができない」というのがアニメの長所でもあり、また短所でもある。最大の武器であり、同時に、限界でもある。

この、「現実(日常の風景)をいったん均質な『アニメの絵』の中に落とし込み、そこからキラキラと輝く物語を立ち上げる」というアニメの特徴を最大限活用した好例が、大ヒット映画「君の名は。」だろう。

「日常系アニメ」も基本的には同じだ。そこで描かれる「何気ない日常」とは、実は高度に抽象化された言わば「極楽浄土で遊ぶ菩薩さま達の日常」であり、「エデンの園で遊ぶ無垢なアダムとイブたちの日常」だ。だからこそ我々は一瞬、煩悩を忘れ、原罪を忘れ、癒される。

一方で、映画「パターソン」が訴えるものは「我々の日常に全く同じ日は二度と無く、耳をすまして目を凝らせば、現実のあらゆる物に詩は隠れている」ということであり「世界のあらゆる場所には市井の詩人が居て、バスを運転しながら、母親を待ちながら、洗濯をしながら、医師として働きながら、気象観測師として働きながら、いつもどこかで詩を詠んでいる」ということだ。

これは、この世に存在しない「天上の日常」を愛でる「日常系アニメ」とは、真逆だ。
日常の中に現実にある美しさを見つめ、愛でよ、と「パターソン」は言っている。

登場人物にも同じ事が言える。

「パターソン」の女は、天女でも菩薩でもない。
だから、少し「苦(にが)い」

波乱を呼ぶ女……汝の名は「奥さん」

平和で淡々としたパターソンさんの日常に起きる波風は、大体この女が起こしてる。

芸術家肌と言えば聞こえが良いが、要するに「メンヘラ」嫁だ。

月曜日の昼休みに、パターソンさんがマッチの詩を詠んだあとで「さて、デザートのフルーツでも食うか」って弁当箱を開けたら、そのデザートのミカンの表面にサインペンで目玉がビッシリ書いてあるっていう、いきなりのホラー展開。

2回目の視聴で気づいたんだけど、サラダだか漬物だかが入っている容器のフタにも、例の白黒グルグル模様が、これまたビッシリと書いてあったな。

このイラン人の奥さん、相当のメンヘラとお見受けした。

……で、メンヘラ女には有りがちだが、嫁さんは自分のことに一杯一杯で、他人に対して(……というか、夫のパターソンさんに対して)わりと無神経だ。

しかもメシマズ嫁。
まあ、フリーマーケットに出した手作りケーキは完売したみたいだから、メシがマズいのは料理の腕が悪いんじゃなくて、単にチャレンジャーなだけなのかもしれない。
チャレンジの実験台にされる旦那は溜まったもんじゃねぇな、と普通の男なら思うだろうが。

創作料理チーズ芽キャベツ・パイだかの実験台に旦那を使っておきながら、彼の好きな詩人の名前を間違えて「わざと間違えたんです〜プププゥ〜」とか……マジでウゼェ!
ここは、さすがのパターソンさんも一瞬イラッと来てた。

ギター教室の通信教育みたいなのをやりたい(三万円)って言い出したのは、まあ良いとして……
会社でトラブルがあってクタクタに疲れて帰宅したら、いきなり嫁が満面の笑みで陽気に「線路は続くよどこまでも」を歌い出すとか、これもう拷問だろ。
しかも歌詞が「一日中レールの上で働いて、ただ時間だけが過ぎていく」っていう……この時点で並の夫なら発狂してる。

(注釈。この曲は元々アイルランド系アメリカ移民の労働哀歌らしい。つまり、奥さんが歌ってるのは替え歌じゃ無くて、元々の正しい歌詞)

そんな、メンヘラ・ウザい・メシマズの役満ロイヤルストレートフラッシュな奥さんだが、パターソンさんにとっては、かけがえのない大切な人だ。
奥さんが土曜日にフリーマーケットへ出かけた後、いつもの公園でパターソンさんが「パンプキン」という詩を詠んだところで、ちょっとウルッと来てしまった。

多少メンヘラでもウザくてもメシマズでも、惚れた女が側(そば)に居るだけで素晴らしい……そう思えてこそ真の漢(おとこ)だ。

最後に。

今日は天気も良いし、ちょっと弁当とノート持って近くの公園に行ってくる。

2018-03-30 12:30