映画「ゴジラ対メガロ」を観た。
怪獣映画を好きで良く見るのだが、同好の士の間でしばしば話題に上がる「ゴジラ対メガロ」は観たことが無かった。
先日、この映画を初めてdtvで視聴した。
wikipediaのアドレスを貼っておく。
[https://ja.wikipedia.org/wiki/ゴジラ対メガロ](https://ja.wikipedia.org/wiki/ゴジラ対メガロ "ゴジラ対メガロ")
### 噂に違わぬ珍作・珍品でした。以上。
……で、終わりにしたいところだが、少し蛇足を。
まあ、dtvでの視聴だったし、珍作という評判も聞いていたし、半ば怖いもの観たさっていうのもあったし、
「これはこれでアリ」と、じゃっかん半笑い気味で許せる感じではあった。
しかし……もし2017年の今、期待に胸を膨らませワクワクしながら、新作としてこの映画を観に
劇場へ行ったとしたら……
という脳内シミュレーションをしてみたら、怒りに奥歯を噛み締めながら劇場を後にする自分の姿が
目に浮かんだ。
それでも最終的には許してしまうだろうが、な。
怪獣映画好きは、ある種「ダメ男に貢ぐ女」みたいな精神状態になってるからな。
ダメ映画を観て、「もうこれで終わりにしようかな……」などと思いつつ、次の作品が公開されると、
懲りずにまた観に行っちゃうんだよな。
それで誰かが、そのダメ映画の……ひいては怪獣映画全体の批判を始めると、
「違うもん! 彼、本当は凄いんだもん! 今はスランプになっているだけだもん!」
とムキになったりして。
それで必死になって「彼のダメなりに良いところ」を探して、反論して、そして家に帰って、我に帰って、
ムキになって反論した自分を振り返って「私、何やってるんだろ」って痛がる所までがお約束だ。
### 良かったところ
ダムの決壊シーンは流石に良かった。決壊シーンそのものというより「メガロより大きなダム」の、
そのスケール感が素晴らしかった。一方で、主人公が閉じ込められていたコンテナ・トラックはミニチュア然
としていたが。
### 今さら言うまでもないが、ストーリーは大人の鑑賞に耐えられるような代物ではない
この当時の映画業界を取り巻く状況、その中で、いつの間にか「ゴジラ」という映画が与えられてしまった
「子供を集客するためのキャラクター」という「役割」を考えれば、当時の製作者なりに、
その役割に真摯に応えようとした結果のストーリーなのかもしれない。
しかし、怪獣映画とは本来、ビッグ・バジェットの壮大なスペクタクル映画であるべきだ。
だとすれば、本作品はさすがに「子供向け」に特化し過ぎてはいないだろうか。
宮崎駿を例に取るまでもなく、現代においては、たとえ「子供向け映画」を標榜していても実際には
大人から子供までオールレンジで集客できるストーリーに仕立てる、というのが王道だろう。
一方、この「ゴジラ対メガロ」のお話をまともに楽しんでくれる客層は、小学生……
それもせいぜい低学年まで、ではないだろうか。
小学生も高学年になれば、一部の女子はおっぱいが膨らみ始め、男子のちんちんには毛の一本も生え始める。
つまり、すでに思春期が始まっている。
その彼らに対して、この「ゴジラ対メガロ」のストーリーでは、正直「キツい」
……それこそ、彼らが思春期特有の「何に対しても半笑いでニヒルに構える」モードにでもなっていなければ、
とても観られたものじゃないだろう。
小学校高学年でさえ「キツい」このストーリーを、ワクワクしながら見てくれるのは、せいぜい
「幼稚園の年長組〜小学校低学年」くらいのものだろう。
恐ろしく狭い層だ。
それでは本来ビッグ・バジェットであるべき「怪獣映画=大スペクタクル映画」の資金は回収できない。
「怪獣キャラ」をダシに使った低予算の「ちびっ子エクスプロイテーション映画」にしかならない。
それでは、ちょっとゴジラが可哀想だ。
### かつて柳田國男は言った。
「妖怪とは、堕落した神の姿だ」
まさに、初代「1954ゴジラ」で人々に災いをもたらす恐ろしくも偉大な「禍つ神」だったゴジラは、
20年の時間をかけて徐々に堕落し、1973年にはチビッ子に愛されるポップ・キャラクター
になってしまっていた。
### 半笑いで「俺、その映画、わりと好きだよ」というのは、観客として正しい態度なのだろうか?
例えば、ジョージ・ルーカスの映画作家としてのルーツが、20世紀前半に量産された低俗な(少なくとも
当時の大人たちからは低俗だと思われていた)スペース・オペラや秘境冒険もののパルプ・マガジンと
コミックであるのは明らかだ。
スティーブン・スピルバーグ、ティム・バートン、クエンティン・タランティーノ、
ギレルモ・デル・トロ……世代は違えど、彼らに共通するのは、少年時代に出会った低俗な
(と、大人たちからは思われていた)大衆芸術をルーツに持っている点だろう。
彼らは、大人になって、その少年時代に出会った物語を最新の特撮技術、潤沢な予算、洗練された手法で
現代に蘇らせているわけだ。
そのために必要なものは何か。少年時代に好きだった作品への敬意、
これから自分が作る作品への真摯な態度。これが無ければ、ただ堕落しただけの作品しか生まれまい。
一方、われわれ観客は、ともすると半笑い顔で
「ゴジラ? 好きッスよ。
あのいかにも着ぐるみっていう見た目にB級の味わいがあって、良いッスよねー」
などと言いがちだ。
私は、本当にそれで良いのかと自問する。
そこには「作品のキッチュな(=低俗で安っぽい)感じも含めて好きって言える俺ってかっこいい」
という、ある種のメタな視点がないだろうか。だとすれば、それは作品を評価する態度として少々不純では
ないだろうか。
観客のそういう態度は、いずれ映画製作者をして「わざとキッチュさ(=安っぽさ)を売り物にした
映画づくり」に向かわせるだろう。それが「低予算を逆手に取った映画」
を作るための、最も安易で、最も手っ取り早い方法だからだ。
しかしそれは作品づくりの堕落だ、と言わざるを得ない。
映画製作者が怪獣映画を……すなわち本来は大きな予算をかけるべき大スペクタクル映画を、
子供向け抱き合わせ映画の中の1本として低予算で作るなどという愚行を犯したとき……
「本当は作るべきではない作品」を作ってしまったときに、我々観客はキチンと怒るべきだ、と、
私は最近思い始めている。
### そうは言っても、本作品には憎みきれない「何か」があるのも事実だ
この作品全体に、なんともいえない可愛らしさが漂っているのもまた事実だ。
だから、正直な気持ち、この映画を憎みきれない自分がいる。
ただし、例えば2017年の今、あるいは来年、再来年、この映画がゴジラの新作として公開されたとして、
それを見たいかと言えば……前述した通り、今、これを新作として見せられたら、
怒りで奥歯を噛み締めながら劇場をあとにすると思う。
つまり、こういう事だ。
「私が『ゴジラ対メガロ』をそれなりに楽しんで観たのは事実だ。しかしそれは、私が事前にこの作品の
評判を聞いて、『あえて俗っぽい味覚を楽しむ』モードで観たからだ……
それは作品の鑑賞の仕方としては、邪道なんだ。
東宝よ、こういう作品を作るのは、もう止めるんだ。
まして『こういうキッチュな味わいもゴジラの魅力でしょ』
などというセルフ・パロディ感覚でゴジラを作るべきではない」
### 追記。なぜ今さら「ゴジラ対メガロ」を観たか
今年も「ゴジラの季節」がやってきたからだ。
今年のゴジラは史上初の「フルCGアニメーションの劇場映画」としてのゴジラだ。
制作はポリゴン・ピクチャー社だ。
私は今年、同社の「ブラム!」を観て、良い映画だと思ったので期待している。
それで、今年のゴジラを観る前に気分を盛り上げておこうと「メガロ」を観た。
さて、ポ社謹製フルCGゴジラの出来は、どんなものだろうか。
___Aobadai Akira___
date: 2017-12-6
time: 14:17
category: 映画を観た 映画の感想