リビング・デッド、リビング・リビング・リビング

発生。(その7)

「あれ? おかしいな……回線が切れている」
 十五インチ・ノートパソコンのタッチパッドに指を這わせながら、大剛原おおごはら結衣ゆいは首をかしげた。
 金曜日。夕方。警察官の父と同居している2DKの警察官舎。
 講師の都合で午後の講義が無くなって、市内にある大学のキャンパスからママチャリをいで官舎まで帰って来た。
 今日は、アメリカの大手ネット通販会社が独占配信するハリウッド製ドラマの配信日だった。十二話一挙配信を夜更かしして観るのも悪くないと思っていた。
 二話まで観終わり、三話が始まって十五分のところでストリーミングが切断された。
 一か月前、大学の入学祝に父親が買ってくれたパソコンだ。まさか故障したわけでもないだろう。 
 自分の部屋からダイニング・キッチンへ出て、壁掛け式のWIFIルータを見上げた。緑色のLEDランプが消え、代わりに「ERR」と書かれた赤いランプが点灯していた。
「ERR……うーん……エラー、の事かな?」
 困ったなぁ……という感じでショートカットの頭を指でく。
 いったん部屋に戻る。開け放たれた窓から暖かい午後の風が入って来た。
 ひとくちに警察官舎と言っても、築五十年以上経過して警察官とその家族から〈お化け屋敷〉と呼ばれるような物件もあれば、大剛原おおごはら親子の住んでいるこの建物のような、どこの高級マンションかと思うような洒落た作りの新築物件もある。
 ふと三階の窓から正面入り口を見下ろすと、隣の部屋に住む山村巡査部長の妻が建物に入ろうとしているところだった。
 結衣の切れ長の目に、不審の色が浮かんだ。
「あれ、山村さん……どうしたんだろう?」
 まるで酔っ払いのような、ふらふらとした足取りだった。
「体調でも悪いのかな?」
 一階に降りてみようと決心した。
 お目当てのドラマ配信が見られないなら家でじっとしていても仕方がない。山村の妻の様子も気になる。
 一階のエントランスホールまで行って、山村の体調が悪ければ介抱するなり救急車を呼ぶなりすれば良いし、何でも無ければそのまま官舎の外へ出て、買い物がてら夕暮れ時の街を散歩するのも悪くない。
 窓に鍵をかけ、春物のジャケットを羽織って出口へ向かった。ファッション・モデルのようにスラリと伸びた脚を強調する細身のパンツに白いスニーカーという格好で部屋を出て、鍵を閉め、エレベーターで一階のエントランスホールまで降りた。
 ホールに出ると、山村の妻が自動ドアのガラスを手でバンッ、バンッと叩いていた。様子がおかしい。目がうつろだった。
 エントランスの自動ドアを外側から作動させるには暗証番号を入力しなくてはいけない。当然、山村の妻は暗証番号を知っている。
 では、なぜ入力しないのか?
(これは……)
 単なる体調不良だとか、そんな簡単なものじゃない。緊急性を要するような、もっと深刻な状態だと思った。
 とにかく山村の妻を助けようと、結衣は玄関口に走り寄った。
 建物の中から外へ出る場合には暗証番号は必要ない。
 結衣の接近を感知して……自動ドアが開いた。

 * * *

「おかしいな……」
 パトカーの助手席で携帯電話に似た端末を耳に当てながら、大剛原おおごはら栄次郎えいじろうは首をかしげた。
「どうしたんですか?」
 ハンドルを握る若い巡査が気楽な感じで聞いてきた。
「署活無線が使えない……」
「ほんとですか?」
 運転手……田中巡査の顔に少しだけ不安の色が差した。運転しながら車載無線をいじる。
「マジかよ……基幹系も駄目です……これじゃ県警の指令室と連絡が取れない……」
「とにかく、署に戻れ。嫌な予感がする」
「そ、そうですね……サ、サイレンは……」
「馬鹿野郎、事件でもないのに鳴らせるか! 安全運転で行け」
「わ、分かりました」

 * * *

 十分後、N市警察署前の駐車場に停めたパトカーの中で、二人の警官はジッと署の入口を見つめていた。
「な、なんか気味悪いですね」
 若い巡査の言葉に大剛原がうなづいた。
「ああ。そうだな……見た目は、いつもと変わらない警察署の正面入口なんだが……まあ、とにかく、こうしてクルマん中で二人して座っていても仕方がない。俺は中の様子を見て来る。お前はクルマに残れ。いつでも発車できるように、エンジンは掛けておけよ」
「はい」
 助手席のドアを開け、大剛原はクルマの外に出た。
 ゆっくりと署の正面玄関へ向かう。
(いつもと変わらない職場。いつもと変わらない建物。いつもと変わらない正面入口……)
 心の中でつぶやきながら一歩一歩近づいていく。
 自動ドアが開いた。
 奥から制服を着た男が現れた。同僚の松塚だった。左の耳を両手で押さえている。
「耳が……耳が……」
 叫びながらこちらに近づいてくる。
 耳を押さえた指の間から多量の血が流れ出し、手を真っ赤に染めて床に滴り落ちている。
「松塚……お前、いったい」
 大剛原の問いかけに、松塚は耳を押さえていた右手を離し、奥の方を指さした。
「か、噛まれた」
 そのままその場に膝を突いた。血を流しながら「耳……耳……」とうめき続ける。
「ま、待っていろ。今、救急車を呼んでやる」
 ゆっくりと奥へ進みながら、無意識にホルスターから拳銃を出している自分に気づいた。
 38口径五連発リボルバー。
 トリガーガードに沿うように人差し指をピンッと伸ばして、腹の前で左手の甲の上に乗せる。
 安全に保持しつつ、いざという時には瞬時に標的に銃口を向けられる構えだった。
 受付カウンターが見えてきた。
 ……血に染まっていた。
 その奥で、警官たちが互いに相手を食いあっていた。事務デスクの上に書類が散乱し、書類は黒く濡れていた。
「な……お前たち……何をやって……」
 カウンターの向こう側で、制服姿の警官たちが一斉に大剛原の方を向いた。
 額をかじられた者、片耳の無い者、鼻の欠けた者、唇ががれ落ちて歯が見えている者……皆、顔じゅう血だらけだった。
 大剛原は銃を構えながら一歩ずつ後ずさった。
 標的が定まらない。
 いったい誰に銃口を向けたら良いと言うのか……
 逃げようと振り返る。
 逃げられなかった。
 さっきまで耳を押さえてうめいていた松塚が、立ち上がって虚ろな目でこちらを見ていた。
 おぼつかない足取りで、大剛原の方に歩いてくる。
 とっさに階段の方へ走る。それ以外に逃げ道は無かった。
 二階へ上がって階段を振り返る。松塚が耳から血を流しながらゆっくりと階段を上って来る。もう傷口も出血も気にめていないようだった。
 廊下を奥へ走る。男子更衣室へ入り、鍵を掛けた。
(とりあえず、これで安全……なのか?)
 むしろ袋のねずみではないかと自問する。
「逃げよう」
 決心するために、わざと声に出して言った。
警察署ここは、もう駄目だ。脱出して、何とか県警本部と連絡をとって……」
 自分のロッカーを開け、財布、鍵などの貴重品を制服のポケットに入れた。もう私服に着替えているひまは無い。
 ドアの曇りガラスに人影が映った。鉄線入りのガラスをバンバン叩き、次に、鍵の掛かった取っ手をガチャガチャと乱暴に回し始めた。
「あああ……」というかすれた声がした。弱々しい声だった。とても松塚の声とは思えない。人間の声ですらないような気がした。
 右手に銃を持ち、左手で鍵を開けると同時に体重を乗せて扉を思い切り押し出した。
 扉の向こうに立っていた松塚が後によろけた。
 そのすきに廊下へ飛び出す。
「松塚……すまん!」
 言いながら相手の左の太腿ふとももを撃った。警察署の廊下に銃声が反響する。
 ……何の効果も無かった。
 38口径の弾丸がももに突き刺さったというのに、蚊に刺されたほどにも痛がっていない。
 再び松塚がこちらに向かって歩いてきた。反射的に、その眉間に銃口を向ける。
(撃つのか? 同僚を! 撃ち殺すのか?)
 その後ろ、廊下の向こう側から他の署員たちがわらわらと歩いて来るのが見えた。
「くそっ」
 叫びながら松塚の防刃チョッキの腹に全体重を乗せて前蹴りをくらわす。
 再び同僚が後によろめいた。
 その隙に廊下を反対側へ……非常階段の方へ走る。
 非常口を開け、鉄階段を一階まで駆け下りた。
 署員用駐車場に停めてある自分のクルマに走る。
 小型SUVの鍵を開け、乗り込み、ドアをロックしてエンジンを掛けた。
 松塚が非常階段から駐車場に降り立つ直前、発車したSUVが非常階段の横を駆け抜けた。
「危ねぇ……警察官が警察署の駐車場で同僚の警察官をき殺したなんて、洒落になんねぇぜ」
 署の表側に周り込むと、パトカーの横に田中巡査が立っていた。
「あの野郎、クルマん中で待機してろと言っただろうがっ」
 あろうことか、田中巡査は若い女とキスをしていた。
 窓を開けて叫ぶ。
「田中ぁ、お前、何やって……」
 女がこちらを見た。
 口の周りが真っ赤だった。ブヨブヨした皮膚と肉が歯の間からあごにかけて下がっていた。
 田中巡査が振り返ってこちらを見た。
 鼻と、口の周りの肉がごっそりぎ取られていた。
 虚ろな目で、SUVに向かってヨタヨタと歩いて来る。
 窓を閉めながらアクセルを踏んだ。
 危うく同僚の横をすり抜けた。
「くそっ!」
 誰に向かってののしり声を上たのか自分でも分からなかった。
 小型SUVは警察署の敷地から大通りに飛びだした。