リビング・デッド、リビング・リビング・リビング

発生。(その4)

 速芝はやしば隼人はやとは住宅街の路地を必死に走った。
 何処どこへ行けば良いのかも分からなかった。
 靴を履くひまは無かった。靴下だけで道路を蹴っていく。
 アスファルトの上の小さな石を踏んで、あまりの痛さに思わず足を止めた。
 後ろを振り返った。誰も追いかけては来なかった。は追いかけて来ない。
 コンクリート塀に寄りかかって、ぜいぜいと息をきながら、これからどうすべきか考える。
(と、とにかく、こ、交番だ……)
 一番近い交番への最短経路を頭の中に思い描いた。
 がむしゃらに逃るのではなく、呼吸を整えて、サッカーの練習のようにペースを決めて走る。
 足元にも注意を払った。アスファルトの上に異物が無いのを確認しながら進路を決める。
 十分後、大通りに出た。三丁目の交番が見える。交番の前には警官が一人立っていた。
 ほっとした。
 家に帰ったら、母親と姉が殺されていた。殺したのは父親。
 隼人には、もう家族と呼べる存在が居ない。
 こうなったら頼れるのは法と秩序と国家権力しかない。
 警官の近くには、サラリーマンが一人。猫が一匹。
 隼人は走る速度を上げた。  
 自分を守ってくれる唯一の存在。その象徴である警察官。
 異変は突然起きた。
 歩道を歩いていた猫が警官に向かって飛び上がった。
 反射的に左手でガードしながら警官がる。
 猫が警官の左のひじ付近に噛みついた。
 悲鳴。
 近くを歩いていたスーツ姿のサラリーマンが突然の出来事に足を止めた。
 隼人の足も止まる。
 警官は悲鳴を上げながら左腕を振り回した。
「大丈夫ですか!」
 スーツの男が、警官を助けようと、猫の胴体を持って引っ張る。
 鋭い牙が警官の腕に深々と食い込んでなかなか離れない。むしろ胴体を引っ張れば引っ張るほど腕の中で肉が裂け、激しい痛みを与える結果になっていた。
 警官は腰の警棒を右手に持ち、左腕の猫の頭を叩いた。不自然な体勢で力いっぱい叩くことは出来なかったが、それでも一定のダメージは与えられた。
「ぎゃん!」
 猫が一声鳴いて、やっと警官から離れた。猫の胴体を引っ張っていたサラリーマンが勢い余って後ろへ仰向あおむけに倒れる。
 受け身を取ろうとしてサラリーマンが猫の胴体を離した瞬間、空中で猫の体が反転して、着地と同時に今度は、仰向あおむけに倒れている男の首に噛み付いた。男が悲鳴を上げる。
 警官がフラつきながら立ちあがり、悲鳴を上げている男の近くに行くと、今度こそ猫の頭に警棒を力いっぱい叩きつけた。固いからを割ったような感触と「ぐしゃ」っという湿った音。
 凶暴な猫の体から力が抜けて、仰向けになっているサラリーマンの胸から滑り落ちた。
 警官が尻もちを突いた。警棒を投げ出し、右手で左腕の傷を痛そうに押さえる。
 歩道のコンクリート・タイルに広がる真っ赤な血の中に、頭を潰された猫の死体。
 その隣でサラリーマンが両手で首を押さえながらうめいていた。
 近所の商店や住宅から野次馬が交番に集まって来る。
「救急車を呼んでくれ! 早く」
 野次馬の誰かが叫んだ。
「それが、さっきから携帯がつながらないんだ」
 別の誰かが言った。
 密集した人だかりの中心で警官が立ちあがったのが、少し離れた所にいる隼人少年にも見えた。
 続いてサラリーマンの男の顔も見えた。
「君、まだ立ち上がっちゃ駄目だ……お巡りさんも、じっとしていて下さい」
 初老の男がサラリーマンの肩に手を置いた。
 喉を噛まれたサラリーマンが、今度は肩に置かれた初老の男の手を噛んだ。
 叫び声。
 立ち上がった警官も、近くにいた中年の女に抱き着いてうなじに噛みつく。女の悲鳴。
 密集した野次馬の中で、猫に噛まれた警官とサラリーマンが次々と人間たちに噛みついていく。
 やっと状況を把握できた野次馬たちが蜘蛛の子を散らすように一斉いっせいに逃げる。
 無傷の者……手を噛まれた者……肩から血を流している者……
 逃げ、走り、拡散していく。
 交番周辺には、最初に猫に噛まれた警官とサラリーマンだけが残された。
 そして、呆然と立ちつくす隼人少年。
「猫ウィルス……遺伝子操作……ヒトへの感染……凶暴性……噛みつき……二次感染……三次感染……世界は地獄に変わる……」
 自分を殺そうとした父親の言葉が脳裏によみがった。
 警官とサラリーマンがヨタヨタとこっちへ近づいて来る。
 我に返って、全速力で逃げた。

 * * *

「五十メートル先、左折です」
 コンピュータで合成された声が風田ドライバーに指示を出した。
 一番近い交番を検索して、ナビの言う通りにハイブリッド・カーを進めていた。
 再び大通りに出る。
 ナビの画面を見ると〈N市T区三丁目交番〉まで直線で百メートルだった。
 フロントガラスの向こうに実際の交番を探す。
 ……あった。
 何故なぜか交番の前に人だかりが出来ていた。
 いきなり、人だかりが蜘蛛の子を散らすように広がった。人々がそれぞれ勝手な方向へ逃げていく。
 そして警官とスーツ姿の男が残った。
「あの歩き方は……」
 まるで酔っぱらっているような、夢遊病者のような歩き方。
 二人が歩く先、歩道の上に少年が立ちすくんでいる。
「ちっ」
 風田は運転席で舌を鳴らした。
「何やってんだ! 早く逃げろ!」
 後ろから夢遊病者たちを追い越す。二人とも口からあごにかけて真っ赤に染まっていた。
 少年の横を通り過ぎた。
「隼人くんじゃないか!」
 姉の子供……甥の速芝はやしば隼人はやとだ。
 突然、少年が後ろを向いて全速力で走り出した。小学生サッカー全国大会出場選手らしい力強い走りだった。
(酔っ払いみたいに歩くのが噛まれた者の特徴だとすれば……隼人くんは大丈夫だ。まだ噛まれていない)
 少年を追い越し、二十メートルほど先で停車する。
「隼人くん! こっちだ!」
 運転席のドアを開け、道路に降りて手を振る。
 隼人が風田に気づいた。少年が歩道の向こう側を指さす。
 風田が振り返ると、若い女が風田のクルマに向かって歩いていた。夢遊病者のような歩き方だった。
(しまった……見逃していた)
 走る速度は隼人の方がずっと速い。しかし、距離は女の方が近い。どちらが先に風田のクルマに辿たどり着くか分からない。
 運転席に座っていつでも発車できるようにギアを前進に入れ、ブレーキを踏む。
 隼人が後部座席のドアを開けて転がり込んできた。
 女の指がドアにかかる。開けようとする女と、閉めようとする少年の力が拮抗する。ドアが動かない。
 突然、少年が手を離した。ドアが大きく開く。その勢いで女が尻もちを突いた。
 そのすきに少年がドアの取っ手をつかんで思い切り引いた。
 運転席の半ドア警告灯が消える。風田はブレーキ・ペダルから足を離してアクセルを踏み込んだ。
 急発進。
 何処どこへ向かえば良いのかも分からず、とりあえず大通りを走る。
 所どころに事故車両が乗り捨てられていた。
 車道には車の往来があった。つまり、正常な知性を持って車を運転できる健康な人間も、まだ沢山いるという事だ。 
 地響きが起き前方で黒煙が上がった。事故車両からガソリンがれて引火したのだろう。大通りが渋滞し始める。クルマの列がどんどん伸びて行く。
 風田はハンドルを切って裏通りへ入った。
叔父おじさん、まずいですよ」
 後部座席から隼人が声をかけた。
「このまま市街地に居たら、いつか渋滞に巻き込まれて身動きが取れなくなってしまう。クルマの中にいる限り安全だけど……」
 市街地を出て交通量の少ない場所に行った方が良いか。
(でも……何処どこへ行けば良いんだ?)
 裏通りをゆっくり走りながら風田は携帯電話を取り出した。圏外だった。
「くそっ」
 携帯の主電源を落とす。市街地の真ん中で「圏外」ということは、すでに通信インフラに障害が発生している可能性が高い。
 夕方の住宅街を、風田かぜた孝一こういち速芝はやしば隼人はやとの乗るハイブリッド・カーはゆっくりと進んだ。
 自動的にエンジンが停止して電気走行EVモードになった。
 通りには誰も居ない。
「静かですね」
 後部座席の隼人が言った。
 ……静かすぎた。
 風田は運転しながら素早く後ろを向いて隼人の体に傷や血痕が無いか確認し、また前方を向く。
(一応、あとで噛み跡が無いか確認しないとな……もっとも今まで見てきた感じだと、噛まれて一分か二分、長くても数分でなってしまうようだから、まずは大丈夫だろう。このクルマに乗って既に十分以上が経過している)
「隼人くん」
 運転しながら話しかけてみる。噛まれた人々は一様に知性が低下している風だった。とても話の通じる相手には見えなかった。
(ならば逆もまた真なりだろう。話が通じれば噛まれていないという事だ)
 そう楽観的に考える事にする。
 話題は何でも良かった。
「姉貴は……いや……君のお母さんは大丈夫だろうか。それから君のお姉さんも」
 今年小学六年生の甥っ子は何も言わない。
 風田の心に疑念が湧いた。重ねてたずねる。
「君の家に行ってみようか。母さんや姉さんが心配だろう?」
 その言葉を聞いて、ようやく甥が答えた。
「家には帰らなくていいです……っていうか、家には行かないでください」
「家に行くな? そりゃ一体どういう意味だ? 家に帰りたくないのか?」
 ルームミラーを見ると、甥は項垂うなだれて両手で顔を覆っていた。
「母さんは……死にました。姉さんも、死にました」
 その言葉は風田にとってもショックだった。混乱して運転が出来なくなった。
 瀟洒しょうしゃな住宅の前にクルマを静かに停めた。パーキング・ブレーキをロックして主電源パワーボタンを押す。ハイブリッド・カーの全ての電源が落ちた。
 振り返ってもう一度聞いた。
「死んだ……だって? 姉さんが? 俺の……ただ一人の家族だぞ」
 思わず語調が強くなる。
 風田の両親、つまり隼人にとっての母方の祖父母は既に他界していた。独身の風田にとって家族と呼べる存在は姉だけだった。
「僕にとっても家族です。母さんも、姉さんも……でも、二人とも、もう居ません。家には帰りたくありません」
 停車したクルマの中で、風田は振り返って甥を見た。
「まさか……のか?」 
「違います」
 両手で顔を覆ったまま、隼人が言った。
「父に殺されました。僕も殺されそうになりました。だから自分の家から逃げたんです」