はてなブログからの転記

映画「ブレードランナー2049」を見た。(ネタバレ)

www.bladerunner2049.jp

歌舞伎町の東宝で見た。

この記事はネタバレを含みます。

未見の人は気をつけてください。

静的サイト・ジェネレータを作り直している。

私は自分のドメイン「aobadaiakira.jp」の記事生成に自作の静的サイト・ジェネレータを使っている。

今、それをイチから作り直している。
そのSSGが完成するまでの間、一時的に記事の投稿を控えようと思っていた。先日劇場で観た映画「ブレードランナー2049」についての感想も、自作のSSGが完成した段階で「aobadaiakira.jp」と「はてなブログ」に同時投稿するつもりだった。

しかし、劇場公開映画というのは、ある種の「なま物」であるだろうし、旬を過ぎてしまってから感想を投稿するというのも何となく違う感じがするので、先行して「はてなブログ」に感想を書くことにした。

「取り急ぎ」……というやつだ。自分のドメインへは後で転記すれば良いだろう。

さて、本題「ブレードランナー2049」の感想。

「終わってみれば、男臭い映画だったなぁ……」というのが、スタッフロールが終わり映画館内が明るくなった直後の、私の感想だった。

ある種のヤクザ映画とか、外国で言えばノワールと呼ばれる比較的低予算の犯罪映画にしばしば見られる、「一寸の虫にも五分の魂があるってことを見せてやるぜ!」系の映画だった。

あるいは「何の取り柄もない底辺男の、命をかけた意地の物語」とでも言おうか。

そういう、女たちからは「訳わかんない」とか言われてバッサリ切り捨てられそうな、でも男たちの心にはジーンと来る映画だった。

ちなみに、この世には、全世界の男が感動しまくったのに、全世界の女には何が良いんだかサッパリ分からない……という不思議な映画が存在する。
例えば「スタンド・バイ・ミー」だ。私は、あの映画を嫌う男に今まで出会ったことが無いし、あの映画を絶賛する女に出会ったことも無い。

それは、さておき……

繰り返しになるが、要するに本作品は、低予算犯罪映画などにしばしばある「底辺男の意地」映画だった。
その「底辺男の意地」が、160億円とも190億円とも言われる莫大な制作費をかけた壮大な未来絵図を背景に語られる訳だ。

別の言い方をすれば「ドライブ2049」とでも言おうか

同じライアン・ゴズリング主演で言えば、今回の「レプリカントK」という役は「ドライブ」の主人公に近い。
確か、ドライブの主人公にも役名が無かったはずだから、そういった部分でもちょっと似ている。

ダーティーな仕事に従事する凄腕の男。しかし、実社会ではコミュニケーションが不得意で引きこもりがちなオタク気質。
その凄腕底辺引きこもりオタク男が、さして本人に利益があるとも思えない「何か」のために自分の命と男の意地をかける……
そんな感じのストーリー展開が似ている。

ライアン・ゴズリングの演技は、変顔をする必要が無いぶん、「ドライブ」の時より自然だった。

私は映画「ドライブ」の感想記事で、ライアン・ゴズリングはイケメン過ぎて「女にモテない引きこもりのキモい底辺オタク」みたいな役をするには無理があると書いた。
その事を自覚しているライアン・ゴズリングは、わざとアホ面の演技をして自分のイケメン度を中和しようとしていたが、必ずしも成功しているとは言い難い……とも書いた。

しかし、役柄が似ていても、今回のライアン・ゴズリングの演技は「ドライブ」の時より自然だった。無表情だったが変顔演技ではなかった。

おそらく今回のキャラ設定が「ドライブ」のとき以上に『気持ち悪い男』だった事が、かえって功を奏したのだろう。

映画「ドライブ」の時と同じく、今回のライアン・ゴズリングの役どころも、仕事が終わればそそくさとワンルーム・アパートに引きこもる孤独な男だ。
しかも、その一人暮らしワンルーム・アパートには、ロリ顔のバーチャル彼女が居る。ゴズリングは、その3Dのバーチャル彼女に話しかける事で孤独を癒している。

「ドライブ」の時より数段、キャラのキモい度がレベルアップしている。

もともと人造人間という設定でもあるし、イケメンが変顔するとか、そういう次元を遥かに超越した気持ち悪いキャラ設定だったので、ライアン・ゴズリングの演技も「ドライブ」の時より自然だった。

つまり、設定そのものが「誰が見てもキモい男」なので、わざわざキモい演技をする必要が無く、そのぶん演技が自然だったという事だ。

ちょっと、女性は引いてしまうキモ男設定かもしれない。

しかし、それにしても……あれだ……この「ロリ顔バーチャル彼女育成シミュレーションゲームだけが心の支えの引きこもり底辺男の物語」というのは、男にとっては「分かる……分かるぞ、ライアン!」という感じだが、ゴズリング・ファンの女たちにとっては辛かったかも知れないな。

バーチャル彼女が、聖母マリア様のような慈愛でどこまでも優しくライアンを見守るキャラに育成されているのも、何か痛い感じだし。

瞬時にあらゆるコスプレをしてくれるオプション付きっていうのも何かキモいし。

デリヘル嬢の顔にバーチャル彼女の顔を重ね合わせてナニするシーンでは「いやいや、それは、さすがにデリヘル嬢さんに失礼だろ……」と、男の俺でさえ思ってしまった。
しかも何か美談っていうか、何かしら美しいシーンみたいに描かれてるし……

むかし何かの本で、「アイドルとセックスしている気分を味わいたいからと、引き伸ばしたアイドルの顔写真をガールフレンドの顔にセロテープで貼り付けてセックスする最低男」の話を読んだ記憶があるが、それに匹敵する最低男ぶりだ。

ちょっと、たけし映画のヒロインを思い出させるバーチャル彼女。

そう言えば、先日ビートたけしの「アナログ」という小説を読んだが、本作品に出てくるバーチャル彼女の「聖母のような慈愛で主人公を見守る、絶対に触れられない存在」という感じは、たけし映画のヒロインにも通じる気がする。

この映画の良さは、2つある。

  1. 莫大な金をかけて作り込まれた、美しくも荒廃した背景美術。
  2. 話の後半でジャンルが切り替わる「ジャンル切り替わり映画」である点。

以下で、1つ1つ説明する。

ブレードランナー2049の特徴その1、莫大な金をかけて作り込まれた背景美術。

私は、新宿コマ劇場跡の東宝劇場で2D上映を見てきたが、まあ、とにかく巨大なスクリーンに映し出される美しくも荒廃した未来絵図は、見ているだけで「眼福、眼福、ありがたや、ありがたや〜 」と言いたくなるほどだった。

冒頭の、放射能灰で薄らボンヤリと煙る視界に、太陽光発電の鏡がキラッ、キラッと光るシーンで、もう「すげーっ」ってなった。

続いて田植え前の水を張った田んぼみたいなのが延々続く空撮でますます「すげーっ」ってなった。

それから、もう出てくる背景、出てくる背景、全部最高。

そしてクライマックスの、荒波が寄せる波打ちぎわでの車内の決闘シーン。
夜の海岸、暗闇に冷たい白色LED車内灯だけが光り、その車内にザップーン、ザップーン、って波が入って来る中での決闘……ああ、その何と美しい事よ。

廃工場の階段の角度にさえ幾何学的な美しさがある。

主人公の幼少期の記憶に出てきた廃工場の、階段の配置と角度が、何か凄い。

CGなんだか、セットなんだか、はたまた実在する廃工場でロケしたのかは知らないが、CGであれセットであれ、階段の角度や配置の美しさにまで気を使っているのが凄い。
実在する廃工場だとしたらもっと凄い。そんな美しい廃工場が実在するのが凄い。ロケハンで見つけてきたスタッフも凄い。

記憶デザイナーの研究所がカッコイイ。

雪景色の中に浮かび上がった、記憶デザイナーのお姉ちゃんが住んでいる研究所もカッコイイ。

これは、アール・デコっていうよりは、1950年代〜60年代のモダン建築だな。ひとことで言うと、科学特捜隊とか、ウルトラ警備隊の基地のイメージ。

あの建物、どこかに実在してるのか?

デザインのスタイルは2系統。

  1. 猥雑なアジアン・テイストの街。
  2. 死んだアール・デコ

1作目のブレードランナーからして、この2つが入り混じっていたように記憶しているが、今回の2049では、1作目よりもこの2つのデザイン・スタイルの純度が上がっている気がした。

美術デザインのスタイルその1、猥雑なアジアの街テイスト。

アジアン・テイストに関しては、アジアっていうより、もう明確に「日本」「東京」だな。 ネオンサインや立体ホログラムなんかも、パチンコ屋のケバいネオンとかのイメージだ。
……っていうか、俺ら日本人が雨の日には全員で透明ビニール傘を差す、なんて事をどこで聞いて来たんだよ。

美術デザインのスタイルその2、死んだアール・デコ

猥雑だが生命力に溢れた街を一歩出ると、そこには「死んだアール・デコ」が静かに横たわっている。

20世紀初頭にヨーロッパで生まれ、やがて大西洋を渡って新大陸で花開き、20世紀半ばまでアメリカで隆盛を極めたアール・デコ様式は、古き良きアメリカの象徴なのかもしれない。

その古き良きアメリカの象徴たるアール・デコ達は、何者かに破壊されたわけでも蹂躙されたわけでもなく、ただ、そこで消費に溺れていた人々が消え去って、物としての役割を失い、静かに死んでいる……そんな感じで荒野に佇んでいる。

一方、悪の親玉であるレプリカント製造会社も荘厳なアール・デコ様式で統一されている。 こちらにも生命の匂いは一切しない。
生命から生命らしさを徹底的に排除して「物」として扱おうという強い意志が感じられるデザインだ。

猥雑な生命力に溢れたアジアン・テイストと、生命の匂いの全く無い古き良きアメリカのアール・デコの対比

「一部のエリートの居城か、さもなくば荒野に捨てられた廃墟のためのデザインであるアール・デコ」と「猥雑だが生命力に溢れたアジアン・テイストの街」という対比に、この映画の製作者は何かを暗示させたいのかもしれない。

上映時間が長く退屈という意見について。

この記事を書く前に、ちょっと他の感想ブログをのぞいて見たが「上映時間が長い」という意見がチラホラ。

確かに、物語の語り口は往年の共産主義国が採算度外視で作っていた大作映画みたいにゆっくりだから、今のハリウッドのジェットコースター・ムービーと比べると退屈なのは間違いない。

しかし、そのゆっくりと進む物語進行から一歩引いて「映像美を楽しむ一種の環境映画」として見れば、2時間40分は長すぎるという程でもない。

NHK日曜美術館2時間40分スペシャルだと思えば、良いんじゃね?

例えばNHK日曜美術館2時間40分スペシャル「2049年ロサンゼルスの風景〜死んだアール・デコと猥雑なジャポニズムが出会う場所〜」みたいな番組があったら、みんな見るでしょ?

話が逸れるが、映画館でブレードランナー2049を観た翌日、たまたま出先のホテルでテレビを点けたらNHKスペシャルでピラミッドの特集をやっていた。

私は思わず見入ってしまった。

古代の巨大建造物遺跡や美術品には何とも言えない魅力がある。

その魅力の源泉は何かといえば、「大昔の権力者や大商人たちが、その強大な権力と莫大な財力に物をいわせて当時一流の職人(=アーティスト)たちに作らせた」という説得力なんだと思う。

このブレードランナー2049にも、「現代の巨大権力者」たる大資本家たちが出資した160億とも190億とも言われる大金を湯水のように使い、一流の職人(=映画スタッフ)たちに背景美術を作らせた凄みがある。

だから、まるで巨大な美術館か博物館を巡っているような感じを味わえたし、観ていて飽きなかった。

ブレードランナー2049の特徴その2、物語上の斬新さは、話の後半でジャンルが切り替わる「ジャンル切り替わり映画」だという点にある。

ジャンル切り替わりというのは、たまにホラー/サスペンス映画などで見かける「仕掛け」のことだ。

例えば、
「冒頭、幽霊の仕業としか思えない異様な事件が発生する」
→「しかし、物語の後半、それが犯人の巧妙なトリックであると明かされる」
という仕掛けだ。

「心霊ホラー」と見せかけて……実は「トリックのあるミステリー」でした……となるわけだ。

つまり前半の「いかにも超自然現象が起きているような感じ」は観客に対するミスリードで、製作者側としては、物語の終盤で「これはトリックなんだよ」と明かして、観客をアッと驚かせたいわけだ。

前半の展開は、観客に「この映画は〇〇ジャンルだな」と思い込ませるための、にせ物の展開、目くらましだ。

では、ブレードランナー2049は、何から何へのジャンル切り替え映画なのか。

  1. 貴種流離譚」「父子もの映画」と思い込ませておいて……
  2. じつは「底辺男の意地」映画

というドンデン返しの映画だった。

前半部「貴種流離譚」「父子もの」というミスリード

貴種流離譚というのは、

  1. 特別な血を受け継いだ高貴な身分の赤ん坊が……
  2. 何らかの事情で親と別れ、貧しく卑しい身分として育てられ……
  3. 成長して、放浪の旅に出て、
  4. 最後は自分が高貴な血筋である事に気付き、
  5. 本来の地位を取り戻して幸せに暮らす。
  6. めでたし、めでたし。

という物語の事だ。

何千年も前から、世界のあらゆる場所で語り継がれて来た物語で、いちいち例を出すのも面倒くさいぐらいだが、有名なSF映画で言えば「スター・ウォーズ」なんかはその典型だ。

……で、このブレードランナー2049も、いかにも「貴種流離譚」「パパを訪ねて三千里」的な展開で、観客を騙す。

つまり「結局、みんなが探し回っていた子供はライアン・ゴズリング自身で、最後に父親ハリソン・フォードと『パパ、会いたかったよ』とか言いながら抱き合って、めでたし、めでたし、ってなるんだろ」と思わせて、油断させるわけだ。

「30年前に死んだ女性レプリカントの骨が発見され、どうやらその女性レプリカントは赤ちゃんを産んだらしいと分かって、一同どよめく」って冒頭シーンから、正直、私も油断しちゃってましたよ。

「はいはい……この、30年前に生まれた赤ちゃんが、今回この映画の『マクガフィン』ね……良いもん悪もん、みんなで、この赤ちゃんの争奪戦を繰り広げるわけだ」

「そんで、目の前には、ちょうど30歳くらいに見えるライアン・ゴズリング君が居ます、と……もう、バレバレですね」

「しかも、ゴズリングくん、バーチャル彼女に『あなたは特別よ』とか言わせて、孤独な底辺男特有の『どうせ俺なんか、会社辞めたって直ぐに別の誰かが補充されちゃうような、量産型ザクみたいな存在ですよ……ああ、せめてシャア・ザクくらいの特別感は欲しいよ、俺自身……』みたいな哀愁漂わせているとなれば……このスペシャル・ベイビーはゴズリング君で決まりだね!」

前述したように、この映画の2時間40分という上映時間に耐えられず退屈してしまった人も多かったようだが、もしかしたら、それは単に尺の長さだけの問題ではないのかも知れない。

観客は、物語の序盤早々に「主人公をはじめとして登場人物みんなが必死で探し回っている30年前の赤ん坊の正体は、じつは当の主人公自身」という思い込みを持ってしまう。

そして、その思い込みが覆されないまま物語終盤まで進んでしまうから、その「正体バレバレの赤ん坊」を巡ってのドタバタ劇が、だんだん白々しく思えてくる。

私は、この「30年前の赤ちゃん=実は主人公」を巡るドタバタ劇(というミスリードされた思い込み)に飽きて以降、ストーリーを追うよりも背景の美術を堪能する事に意識の比重を移したから、幸いにも映画に飽きることはなかった。

その一方で、長尺のわりにシンプルすぎるストーリー展開に飽きちゃう人がいても仕方ないかな、とも思っていた。

ところが、物語の終盤にジャンル切り替えのドンデン返しが待っていた。

この物語の一番のキーポイントは、間違いなく、物語終盤の以下のシーンだ。

ライアン「あ、どうも、初めまして」(パパ、会いたかったよ……)

ハリソン「お、おう……」(こいつ誰だよ)

どかーん!

爆発とともにクソ女登場。

腹こわして動けないライアンの目の前でハリソン・パパを拉致。

しかも、このクソ女、ライアンが手塩にかけて育てたバーチャル彼女育成シミュレーション・ゲームの大切な育成データ入りUSBメモリーを、ついでに踏み潰して去っていく。

ライアン「何すんだ、このクソ女! ……ガクッ」(気絶)

革命軍のアジト

革命軍のリーダー「ハリソン・パパから大事な女の子の情報が漏れる前に、パパを奪還しなくては」

ライアン「え……? 赤ん坊って、女の子なんすか?」

リーダー「あれ? もしかして、ライアン君、自分のことだと思ってた? 自分こそがスペシャル・ニュータイプ・スーパー・ウルトラ・ハイパー・次世代型レプリカントだと思ってた? ぷぷぷっ」

ライアン「べ、別に……」

リーダー「そりゃ、誰でも自分がスペシャルだと思いたいよねぇ……」(でも、あんた、ただの量産型だから)

ライアン「……」

ここで、今まで典型的な貴種流離譚だと思って観ていた観客は、ガーンとなる。

『世の中の誰からも必要とされていない孤独な青年』という主人公の属性は、あくまで世を忍ぶ仮の姿で、実は彼こそがレプリカントたちを革命に導く『神の子』だ! ……と、ずーっと思ってきたのに、「やっぱり彼は『世の中の誰からも必要とされていない孤独な青年』そのまんまでした」と言われて「えっ?」ってなる。

唯一、自分を必要としてくれ(るように育成してい)たバーチャル彼女(育成シミュレーションゲームのデータ)も、クソ女に殺されて(破壊されて)、もうこの世に自分の存在価値を認めてくれるものは無い。

ここで、いきなり「孤独な底辺男の意地の物語」が発動する。

主人公が、しょんぼり肩を落として橋の上を歩いていると、巨大な全裸女の3D映像が「ハンサムなお兄さ〜ん、私と遊ばな〜い?」と誘ってくる。
その姿は、主人公が手塩にかけて育成し、敵のクソ女に殺されて(データを破壊されて)しまったバーチャル彼女にそっくりだ。
……しょせんバーチャル彼女はバーチャル彼女。幾らでもコピー可能な単なるコンピュータ・ソフトウェアに過ぎない。
個々の「データ」の尊厳なぞ無きに等しい。
主人公は、その残酷な事実を、目の前の巨大な彼女(いや、彼女そっくりの3D映像に)突きつけられる。

この世の中で、ほとんど価値のない存在であるという点は、主人公自身も同じだ。

どうやらレプリカントの外見や性格にはそれぞれ個性があるようだが、しかし、だからといって「都会の片隅に生きる孤独な男」である主人公に、何か抜きん出た特別な属性があるわけでもない。

生まれながらにしてレプリカント達から「我が民族の希望の光」として崇められ、命がけで守護されている女……デッカードとレイチェルの娘のような存在ではない。

その事実を……どこまで行っても自分は何の特別性も持たない使い捨ての「量産型」に過ぎない、という事実を、死んだバーチャル彼女そっくりの3D映像によって突きつけられた主人公は、逆にそこで開き直り、何の利益も見返りも無い闘いに、ただ「男の意地」だけで命をかけて挑む決意をする。

「ちくしょー、やってやる! やってやるぜ! 見てろよクソ女! 会社辞めても悲しんでくれる同僚の一人も居ないような、そんな使い捨ての量産型ザクみてぇな俺だけどよぉ、底辺には底辺なりの男の意地ってもんがあるんだ! 首を洗って待ってろ! クソ女め!」

そして、見事ミッションを達成し、ハリソン・パパを娘のいる研究所に送り届け、「俺だって、やれば出来るんだ。一寸の虫にだって五分の魂があるんだぜ」という事を、他でもない自分自身に証明して見せ、満足の中で静かに死んで行く。

貴種流離譚」で始まり、「底辺男が意地と命をかけて闘う物語」で終わるというジャンル切り替えは、ひょっとしたら世界初なのではないか?

それは、別の言い方をすれば「レプリカントというマイノリティ民族のアイデンティティの物語」に見せかけて始まり、終わってみれば、実は「(レプリカントとか人間とかに関わらず)社会の底辺で暮らさざるを得ない孤独な個人のアイデンティティの物語」だった、という事だ。

日々世界中で封切られている膨大な数の映画の極一部しか見ていない私ごときが軽率なことは言えないのだが……いずれにしろ、このブレードランナー2049の(ストーリー上の)目新しさは、この一点に集約されるのではないだろうか。

逆に言えば、ストーリー上の他の部分は、それほどスリリングでも無い。

「ロボット・人造人間のアイデンティティの物語」って言っても、それ自体は過去に何百回となく語られてきた物語だろうし。
逆に「社会の片隅に生きる平凡な男のアイデンティティの物語」だけでも、それも今まで何百回となく語られてきた物語だろうし。

その二つを組み合わせた「ジャンル切り替え映画」であるという事、その切り替えポイントが、この映画の見所だろう。

「一人の男が報われない努力をする」っていう話は、あんまり需要がないかもしれないな。

まあ、大部分の人は、気持ち良くなるためにエンターテイメントに足を運ぶんだからね。

本人の努力だろうと、隠された血筋だろうと、何でも良いから、最後は社会的階層を底辺から一気に頂点へ上り詰めて終わって欲しいと、普通の人は思うかもしれないな。

気になったこと。スピナー壊しすぎだろ。

スピナーとは空飛ぶパトカーのことだが……

墜落したり破壊される度に、次のシーンでは、しれっ、と新車で空を飛んでいるのは、どういうことなんですかね。

最後の出撃なんて、警察クビになった後だろ? あのパトカーって、まさか警察からチョロまかして来たのか?

気になったこと、その2。ハリソン・パパが拉致られたシーンで、クソ女は何でライアンに止めを刺さなかったの?

普通、確実に殺しておくでしょ? 殺しておかないと後々メンドーな事になるでしょ?

気になったこと、その3。レジェンドが何かする度に、ドキドキする。

まあ、レジェンドってハリソン・フォードのことなんですが……

まさかハリソン・フォードが誰かを殴るシーンでこんなにドキドキするとは思わなかった。

「そ、そんなに力一杯殴ったら、ハリソンお爺ちゃん、心臓が止まっちゃうよ!」

殴って「心臓発作が起きないか」とハラハラし、殴られて「心臓発作が起きないか」とハラハラした。

クライマックスで、ハリソン・フォードの顔が水面から出たり沈んだりしてるところなんて「おいおい『撮影中にご臨終』なんて、マジでシャレにならんぞ」と、そっちの方が気になって映画の本筋に集中できなかったよ。

まあ、冷静に考えれば、そんな事あり得ないんだけどね。

監督について。

ドゥニ・ヴィルヌーヴって何かF1レーサーみたいな名前だなー、って思って検索してみたら、ああ「プリズナーズ」の監督か……あれ良い映画だったな。

スターウォーズ」とかヒーローもの映画みたいな「生まれながらに神から特別な能力を授かった英雄たちの、勝利と栄光の物語」よりは、「特別なものは何にも持っていない平々凡々な男の哀しみの物語」みたいなのが得意な監督なのかね。

2017-11-06 19:09