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映画「第三の男」の感想

   

 

  *以下、ネタバレ注意! 

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感想

「第三の男」は、一応「サスペンス映画」の古典とされている。
しかし、本当に「第三の男」はサスペンス映画だったのだろうか?
サスペンス映画だとすると、現代の感覚からすると、ちょっと展開がカッタルイ。
盛り上がるシーンになると必ず挿入される「陽気ではあるけれど気の抜けた」チターの音色は、かえって興ざめではないだろうか。

そもそも、この映画がタイトルにもある「第三の男」の謎をめぐる物語だとすると、現代のミステリーを読み慣れ人々にとって、これが「身代わり殺人」であることは、かなり早い段階で気づく程度のやさしいトリックだし、そもそも、そのトリックは、全体の三分の二ほど話が進んだ段階で早々と「第三の男は、実は、死んだと思われていたハリー自身でした。殺されたのは本当は、軍看護師のジョセフ・ルービンでした」と明かされてしまう。

そして、その時点から、映画は「第三の男とは誰なのか」という謎解きのストーリーから、ハリーという人物に対し、周囲の人々がどういう態度をとるかという物語に変化する。

私個人の感想としては前半部の、第三の男とは誰なのかというミステリーの物語部分より、第三の男の正体がハリーだったと明かされた後の後半部分の方が物語としての緊張感は上だと思う。

映画の中で、ハリーは、中学生で既にトランプのイカサマをやっていたような早熟なイタズラっ子として説明される。そして現在、闇取引や殺人にかかわり、偽装殺人を企てて恋人のアンナを捨てたと分かった後でも、アンナは、イタズラっ子がそのまま大人になったようなハリーの事を、憎むことが出来ない。

それは、主人公のホリーも同じだ。自分自身の安全のために、身代わりとして他人を殺し行方をくらましたハリーを、道徳的な意味でホリーは許すことが出来ない。しかし、一方で親友であるハリーを裏切って警察に協力することもできない。その間でホリーの決意は二転三転する。

ここで物語の核となるのは、ハリー自身のキャラクター設定だ。
ハリーはこの映画において「英雄的な人物」として描かれている。「神話的な人物」といっても良い。
ここで言う「英雄的な人物」というのは、人類の進歩に大きな業績を残した人とか、そういう、良い意味だけでなく、良い意味でも悪い意味でも平凡な人間の領域外にいる人物という意味だ。
多くの人間は良かれ悪しかれ、ある「枠組み」の中で生きている。
しかし、その「枠組み」の外で生きる事を運命づけられた人間も少数だが存在する。

日本人になじみの深い歴史上の人物に例えると「織田信長」とか、そういう人物の事だ。

ある時は、多くの人間がとらわれていた既成概念を打ち破った素晴らしい人物。
ある時は、自分の利益のために他人の権利を侵害して、何とも思わない人物。
それでいて、周囲の人間を魅了してやまない天性の魅力あふれる人物。
こういう多様な要素を全て内包した、良かれ悪しかれ平均的な人間とは著しくかけ離れた存在。

ハリーという、もの凄い悪人であり、同時に、人間的魅力に溢れる人物に出会ったとき、平々凡々な周囲の人間は、一体どう行動すれば良いのか。
彼を愛せばいいのか憎めばいいのか?

ハリーという「もの凄い悪人でありながら、同時に、もの凄く魅力的な人物」に出会ってしまった人間たちの迷いと決意こそが、この物語の真のサスペンスなんだと思う。

ハリーが最初に画面に現れた時の、あのニヤリッという笑み。人間一人を殺しておきながら、まるで、先生に見つけられたイタズラっ子のような魅力的な笑みを浮かべるというのは、彼のキャラクターを見事に表した、この映画のハイライトだったと思う。

あれほど魅力的な「悪人の微笑み」を見事に演じたオーソン・ウェルズ恐るべし。

2015-09-23 08:04